第38話 勝海舟

「勝君はな、日本国の海防力を高めるために日本全国を奔走しているのだ」

「また来月から長崎ですよ」


 勝海舟は嘆息しながら慶喜の隣に座り、納豆餅を無造作に掴んで一口で頬張る。そして何度も噛まないうちにごくりと飲み込んだ。


「ほう、焼き餅に納豆を入れたのですか。これは兵糧によさそうだ」

「うむ、丹南では正月に三日もかけて食べるそうだ。焼き締めればもっと保つのではないか?」

「塩気を強くすれば湯で戻すだけで滋養食になりそうですな」


 納豆餅から唐突に兵糧の話を始めるとは思わず、沖田は若干面食らう。慶喜にも感じたことだが、上に立つものと自分とでは物事を見る目線が違いすぎた。自分は所詮剣術屋に過ぎないという気持ちになり、それから近藤や土方の顔が浮かぶ。あの二人なら、彼らの話にもついていけるのだろうか。


「そのうえ、とっても美味しいデス!」


 沖田が沈思しかけたときに、アーシアが素っ頓狂な声を上げた。納豆餅は個別の皿の他にテーブルの中央にも山盛りになっていたはずだが、気がつけば一つも残っていない。妙に静かだと思っていたら、すべて平らげるのに忙しかっただけのようだ。


「ええ、確かに美味い。兵糧は美味すぎず不味すぎずが肝要と申しますが、これは美味すぎるかもしれませんな」

「美味しすぎたら悪いのデスカ?」

「盗み食いする者が現れる故」

「なるほど、深いのデスネー」


 アーシアは勝海舟と面識があったらしく、特別に挨拶はしていない。その態度は平素と変わらず、それがアーシアの特性なのか、あるいは異人故にこの国の権威が通じていないのか沖田には計りかねた。


「それで……勝様はなぜこの席に?」

「硬いのう。それでは話しづらかろう。カタキンとでも呼んでやれ」

「は? カタキン?」


 また知らない南蛮語かと思ってアーシアを見るが、アーシアもまた首をひねっている。


「勘弁してくだされ、一応両方無事にござる……。しかし、勝様とはいかにも硬い。勝殿なり、勝さんなりと呼んでください」

「勝君はこつこつ出世した苦労人だからな。偉ぶるのが苦手なのだ」


 赤面する海舟を慶喜がからから笑っている。

 勝海舟は幼少時、野犬に襲われて陰嚢を噛まれ重症を負うという事件に遭っている。慶喜の軽口はそれを本名の勝麟太郎にかけたものだが、婦人の前で詳しい説明などできない。勝は苦虫を噛み潰したような顔をしつつ話題を流す。

 ちなみに彼の名誉のために補足するが、その事件で片方の睾丸を失ったという記録はない。


「で、では勝殿と呼ばせていただきます」


 と、空気を察した沖田も話を流す。この話題に乗るといつまでも脱線しそうだという予感もあった。


「して、本題は?」

「むう、面白い話があるのだがまあよかろう。横浜の出島に外国人居留地があるのは沖田君も知っているね?」

「はい、いくら俺でもそれくらいのことは」


 横浜港が海外に開かれたのは今から五年前、安政六年(1859年)のことだった。鬼か天狗の如き異人が押し寄せてくると江戸でも随分話題になったものだ。しかし、現実には江戸市中で異人を見かけることなどない。開港されたのは東海道から外れた小さな漁村を無理やり出島にしたもので、江戸からは遠かったのだ。


 沖田も物見遊山に行きたかったが、絶妙に不便な場所にありついに叶わなかった。これは実は幕府の狙い通りで、異人と庶民との接触をなるべく減らしたかったためである。もともとは神奈川港を開く約束だったのだが、東海道の神奈川宿と近すぎるため、方便を駆使してわざと不便な場所を開発したのである。


「沖田君には、その横浜にあるアメリカ総領事館に密書を届けてほしいのだ」

「は……?」


 アメリカに渡れと言われるよりははるかにマシだが、これまた突拍子もない話だ。アメリカ総領事というのがどれほどなのかは知らないが、いくら新選組で名を上げたとはいえ下級武士に過ぎない沖田など相手にならない大物であることはわかる。


「できることなら余が直々に詮議したいところなのだが、いかんせん立場が許さん」


 立場とは、昨年末に任命された朝議参預のことである。公武合体の議論を進めるために朝廷の肝いりで設置された役職だ。先のことを言えば、結局議論は進まずこの年の三月には会議体ごと解散することになるのだが、この時点の慶喜に知る由もない。


「それなら勝殿の方が適任では……」

「すまぬが拙者は来月には長崎に行かねばならぬ身でしてな。横浜に寄る余裕はないのです」


 勝海舟に話を振ってみるが、あっさりと首を左右に振られる。


「それに、これは沖田殿……というか、沖田殿とアーシア殿の方が適した用向きかと思います」

「俺とアーシアが?」

「結論から申し上げるが、現アメリカ総領事ロバート・ブリュインは魔に魅入られている可能性が高いと拙者は考えているのです」

「メリケンの領事が……!?」


 沖田の脳裏をよぎったのはつい先日のウェンディゴと、人に化けるショゴスという魔物だった。ショゴスはともかくウェンディゴは、正体を現すまで取り憑いていると見抜けなかった。


「しかしまさか、そのようなことがあるのでしょうか?」

「根拠はあります。まず前領事のタウンゼント・ハリス。彼は人品高潔で、日本に対しても、日本人に対しても礼を忘れぬ尊敬できる人物でした。しかし、その彼も数年のうちにみるみる豹変し、金銀の為替で私服を肥やす俗物に成り果て申した。それはまさしく別人の如くに……」


 勝海舟は嘆息をつく。その表情は長年来の友人を惜しむように見えた。


「一昨年にヘンリー・ヒュースケンという専属の通詞が浪士に斬られ、それがきっかけかハリスは怯えるようにこの国を去りました。堂々たる体躯は見るも哀れに痩せこけて、まるで地獄の餓鬼のようであったと伝え聞いております」


 茶を一杯飲んで、言葉を継ぐ。


「続いて領事に就任したのはロバート・ブリュイン。これは尊敬できぬ小人物でしたがそれゆえに御しやすかった。しかし、それが最近では砲火を以って日本を制そうという過激派にすっかり鞍替えし、ろくに交渉も通じません」


 勝海舟の話によれば、ブリュインはハリスが手を染めていた為替の儲けに目を付けて領事の職に手を挙げただけの人物で、天下国家を論じうる器ではなかったらしい。それが着任からわずかで豹変し、去年には下関に軍艦ワイオミングを派遣し砲撃させるという行動にも出ている。


 長州藩が米商船ペンブロークに砲撃を加えた報復……という名分は通っているのだが、ペンブロークに被害らしい被害はなく、ブリュインの性格からすれば賠償金の請求などで片付けるだろうと幕府は読んでいた。それが報復攻撃という手段に出たので肝を潰したのだ。


「ハリスにせよブリュインにせよ、とても同じ人間のやりようとは思えぬのです。これは拙者の独り合点ではなく、他の幕閣たちも同意見。一橋様から坂本龍馬の一件を聞き、二条城での怪異を目の当たりにし……疑惑は確信に変わった次第」


 沖田は知らぬことだったが、勝海舟は二条城での戦いもつぶさに目撃していたらしい。二条城に滞在していた主な要人は慶喜が理由をつけて御所周辺の公家町に避難させていたのだが、この男は例外だったようだ。


「ブリュインは小心故に警戒心が強い。多勢で押し寄せれば尻尾を出さぬでしょう。そこで単身神をも斬る沖田殿と、魔を探知する聖女アーシア殿、お二人に探索を協力いただきたいのです」

「余からも頼む。それにこの背後には坂本龍馬の影が必ずあるだろう」

「はっ! この沖田総司、身命に代えましても!」


 と、沖田としては答えるほかない。

 武士の社会は縦社会。将軍後見職と軍艦奉行に揃って依頼をされてどうして断れるはずもないのだ。


「ふふふ、お任せクダサイ! わたくしとソージ様なら必ずや武器の密輸ルートを突き止め、すべての真相を明らかにすることデショウ!」


 無邪気に胸を張るアーシアを横目に、沖田は「探偵めいた仕事は得意じゃないんだけどなあ」と内心でため息をついていた。

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