第35話 納豆(前)
沖田が昏睡から目覚めてから十日余り。
朝日眩しい八木邸の庭では今日も沖田が木刀を振るっていた。
医者には十日の絶対安静を申し渡され寝床の人となっていたせいですっかり身体がなまっている。沖田自身は目覚めた翌日には元気なつもりで体を動かしたい気分だったのだが、医者の言うことを真に受けた近藤から一切の運動も外出も禁止されていたのだ。
今の沖田は、さながら小伝馬町の牢屋敷から解放された罪人の気分であった。
全身の筋肉を伸ばすように、ぎしぎしと軋む関節に油をさすように、ひとつひとつ型を確かめながらゆっくりと木刀を振る様は舞の稽古のようだ。それでいて、この稽古は素早く行うよりもずっと厳しい。諸肌脱いだ上半身からは汗が吹き出し湯気を立てている。
目覚めてからしばらく続いていた肺腑の違和感はもう残っていない。やはり一時的なことだったのだろうと素振りを繰り返しながら沖田は思う。
「ソージ様ー! 朝ご飯デスヨー!」
「あっ、今行くよ」
久々の剣の工夫に夢中になっていた沖田をアーシアの声が引き戻す。
井戸水で絞った手ぬぐいで火照った体を拭き、稽古着を羽織り直して八木邸の広間へ向かう。食事の場所は八木家の人々とは分けられていた。体を鍛えるために肉食を推奨しているためだ。この古都は江戸とは比べ物にならないほど肉食に忌避感のある者が多く、八木家の人々も例に漏れなかった。
そのうえ、
「お、今日の朝ご飯は豚の干し肉と卵を焼いたやつか」
「はい! ベーコンエッグというものデス!」
アーシアが台所に立つときは洋食のテイストが含まれてくる。
新選組の料理番は交代制で隊士も台所に立つ。いざ戦となればのうのうと他人に食事を作ってもらえるわけがない。メシぐらいは自分で作れるようになれというわけだ。いわば客分であるアーシアには手伝う義理もないのだが、料理好きらしく自ら進んで参加している。
近頃の新選組は養鶏・養豚を試みており、玉子と豚肉がしばしば食卓に上がる。フランス式の兵学を学んでいる土方の発案だ。玉子はともかく、豚肉は江戸生まれの沖田にも抵抗があった。江戸では薬喰いと称して鹿や猪を食べさせる店が普通にあり、沖田も何度も通ったことがある。
しかし、豚はどうにも脂臭さが鼻につくのだ。焼く匂いを嗅ぐだけで胸がムカムカしてしまう。そのため豚肉料理といえば味噌と薬味で煮込んだものばかりだったが、アーシアが来てから事情が変わった。
燻製、という新たな調理法が導入されたのである。
解体した豚肉を塩漬けにして寒風にさらし、それからブナなどの雑木で燻す。塩で締まった肉は味わいが深くなり、燻製の香りによって脂の臭みも気にならなくなる。この工夫は大好評で、豚肉と聞くと顔をしかめていた隊士たちが豚肉の献立を楽しみにするようになったほどだ。もちろん沖田もそのうちのひとりである。
どうしてアーシアがそんなことに詳しいのかと言えば、彼女が過ごした修道院では蓄養が盛んであり、豚や鶏の他に山羊なども飼っていたという。日本は不殺生戒のある仏教の影響で伝統的に畜産に馴染みが薄い。
アーシアの知識も本職の農家と比べれば大したものではなかったが、それでも現時点での日本では革命的だった。土方も真面目な顔でアーシアに教えを請うているほどである。次はソーセージを作るための機材を相談しているらしい。
白飯にベーコンエッグ、味噌汁に漬け物という令和日本の朝食と言っても通用しそうな御膳に舌鼓を打ちながら、沖田がぽつりと漏らす。
「これで納豆があれば最高だなあ」
「ナ、ナットウ……デスカ……。あ、ありマスヨ」
アーシアが藁に包んだ納豆を台所から持ってくると、沖田は嬉しそうにそれを混ぜ、白飯にかけてかき込んだ。こちらの納豆は江戸に比べて大粒で、豆の味が濃い気がする。近頃の沖田の好物であった。
「おお……神ヨ……」
しかし、それを見るアーシアの顔は蒼白だ。あまつさえ胸の前で十字を切ってさえいる。
「アーシアはやっぱり納豆ダメなの?」
「お許しくだサイ! そんな冒涜的なものを近づけないでくださいマセッ!」
別に近づけてはいないのだが、目の前で混ぜてみせるだけでこんな具合である。
「他のものはなんでも食べるのに不思議だなあ」
「うう……申し訳ございマセン……」
「いや、謝ることはないんだけれども」
これは慶喜から聞いた話であるが、異人の中には日本食を嫌うものも少なくないらしい。味噌や醤油の匂いからして異臭と感じるのだそうだ。いわんや納豆をやである。
「ま、俺だって鮒寿司は食べられないしなあ」
「鮒寿司はおいしいデスヨ!」
鮒寿司は琵琶湖で漁れるフナを原料にしたなれ寿司の一種だ。内臓を取ったフナを炊いた米と一緒に半年以上も漬ける発酵食品で強烈な臭気を発する。慣れた人にはこれがたまらないのだそうだが沖田にとっては生ゴミが腐った臭いにしか思えない。
鮒ずしは現在の寿司の原型と言われおり、近いものはかつては江戸でも食されていたのだが、近頃の江戸の流行りは江戸前寿司――現在の寿司とほとんど同じ、生魚の刺し身に酢飯を合わせたものである。
江戸っ子のご多分に漏れず沖田も寿司は好物で、寿司と聞いて喜んでいたところに鮒寿司が出てきたものだから余計に印象が悪かった。別の店で鮨を求めると今度は箱寿司――現在の押し寿司――だったためにすっかり落胆したという話が続くのだが、これは余談が過ぎるだろう。
ともあれ、鮒寿司だろうが喜んでパクパク食べるアーシアが納豆だけ食べられないというのは沖田には不思議でならなかった。
「納豆、美味いんだけどなあ」
白飯と納豆をお代わりしながら沖田は思案を巡らせる。
どうせ一緒に食卓を囲むのなら同じものを美味しく食べられた方が気持ちがよい。
納豆ご飯を最後のひと粒までかき込み終えて、沖田ははたと思いついた。
「ねえ、アーシア。今日は
「仁和寺デスカ? はい、ご一緒シマス!」
もともと探索の任を共にする二人であるのだから了承するのは当然なのだが、にっこりと笑うアーシアに沖田はどこか不敵な笑みで応じるのだった。
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