第34話 講義
「まず、この邪神はイタカ、あるいはイタクァと呼ばれてイマス。北アメリカ大陸中でもさらに北部、とても寒い地域にするエスキモーと呼ばれる先住民の間で信仰……というよりも恐れられていマシタ」
発音が少し違うが、居鷹村とよく似ている。そもそもあの村はイタカなる邪神を崇めるためにできた村だったのだろうか。
「はい、恐らくその通りデス。遥か太古から秘教として引き継がれてきたのではないカト。ひょっとしたら、この国で仏教が広まる前まで遡れるかもしれマセン」
「ってことは千年以上も前ってことか」
日本に仏教が伝来したのは六世紀半ばの欽明天皇の頃と言われている。詳細までは知らないが、沖田もざっくりその程度のことは知っていた。
「でも姐さん、メリケンの邪神とやらがなんでそんな昔から日本に? メリケンから黒船が来たのがつい十年やそこら前っすよね?」
「それには二つの可能性が考えられるのです。ひとつはこの地球……世界中が凍りついていた時代に、イタカ信仰がアメリカ大陸からやってきたエスキモーによって伝わった可能性デス」
「世界中が凍ってた!?」
「はい、何千年、何万年以上も前のことデスネ。その頃には凍った海を歩いて日本とアメリカを渡れたと考えられマス。あるいは、反対に日本のイタカ信仰がアメリカに伝わった可能性もありますね」
「何万年!?」
気の遠くなるような話に沖田も勘吾も目を丸くする。
アーシアが話しているのは令和の現代人からすれば常識となっている氷河期の話だ。氷河期についての学説が唱えられたのは沖田たちの時代の半世紀ほど前で、西欧の学会では賛否両論が続いていた頃である。これから十数年ほどで通説として定着するのだが、これは余談である。
とにかく、アーシアのひとつ目の話は西欧の最新科学知識を踏まえたものだった。流氷すら目にしたことのない沖田と勘吾にはさっぱり想像もつかなかったが、そういうものとして一旦飲み込むことにする。
「ふたつ目の可能性は、イタカに攫われたエスキモーがこの日本に……あの居鷹村に定着した可能性デス」
イタカは気に入った人間を連れ去る習性があるのだと云う。多くの者はそのまま帰ってこないが、稀に地上に返される者がいる。大半は地上に叩きつけられて無惨な死を迎えるが、生き残った者はイタカの信奉者になっているそうだ。
信奉者は地球には存在しない物品を持っていたり、誰も見たことがない言語や文字を操る。そのため、邪神たちが棲まう世界に連れ去られ、その世界の知識を得たのではないかと考えられている。
ウェンディゴはイタカの眷属であり、信奉者はその身にウェンディゴを宿しているとも、ウェンディゴを操るとも言われる。しかし、いずれは自身もウェンディゴに変じるという点はどの伝承でも同じだ。あの洞窟にいたウェンディゴたちも、そうした信奉者の成れの果てだったのかもしれない。
「そんな危険なやつが野放しになってしまったのか」
奥歯をぎりりと噛む沖田にアーシアが「ノン、ノン、ノン」と人差し指を振る。
「そこまで心配するほどのことではないデス。もちろん、決してよいこととは言えマセンガ……」
「どういうこと?」
「あれは数ある分霊のひとつに過ぎないからデス」
分霊とはひとつの神性が複数の肉体を得て地上に顕現することを指す。最初はピンと来なかった沖田だが、稲荷神社を例に挙げられて腑に落ちた。狐の印象が強い稲荷神社だが、その祭神は
稲荷神社は日本全国にいくつもあるが、神はすべての神社に同時に
「あの洞窟の様子から短くとも数百年は眠っていたと思われますが、その間にもイタカの目撃例がありますカラ」「要するに大差はないってこと?」
「言いにくいですが……そういうことデス」
アーシアは咳払いをして、続ける。
「神とは聖にせよ邪にせよ、異次元の存在なのデス。その在り方はわたくしたちとはまったく異なりマス」
「そういえば、しゅぶにぐらす……だっけ? 吉田松陰のときにも分霊が何とか言ってたよね。ってことは、吉田松陰も実は死んでないってこと?」
「いえ、ヨシダ・ショーインは確かに死んだと思います。しかし、シュブ=ニグラスの本体には蚊に刺されたほどのダメージもないのではないデショウカ……」
「邪悪だろうが神は神。人間にはそう簡単には斬られないってわけか」
沖田は無意識に拳を握りしめていた。
そしてアーシアの血の力を得たときの昂揚感を思い出す。
あの力があればあるいは……。
そんな考えは、口を挟んだ勘吾に振り払われる。
「おいらぁ頭が悪くてよくわからねえんすが、ああいうやばい邪神だか魔物だかが、この日本にもあちこちに隠れてやがるかもしれねえってわけですかい?」
「そういうことになりマス。普段は潜み隠れていますが……サカモト・リョーマに利用されるかもしれマセン」
これはアーシアの推測だが、居鷹村には因習こそ残っていたものの、本来のイタカ信仰は忘れかけられていたのではないかと云う。イタカの神像があった祠への道に、頻繁な往来の跡が見られなかったのがその根拠だ。
しかし、信仰の残滓は人肉食という忌まわしい形で確かに残っていた。何もないところから魔物を召喚・創造するよりも、
「そういやおいらも旅先のあちこちで、何をお祀りしてるのかわからねえお社や祠、意味のわからねえ言い伝えや
「それはなんとも言えないデス。善神であっても忘れ去られているものもありますノデ」
「へえ、なんか難しいんすね。ま、沖田の兄貴がいれば何が来たってぶった切ってくれやすよ!」
「ハイ! これからもよろしくお願いしマス!」
アーシアから向けられた青い瞳に、沖田は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
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