第33話 落下

「背中につかまって!」

「ハイ!」


 さりとて考え込んでいても仕方がない。あの場はあの巨大な怪物からアーシアを取り返すことだけで頭が一杯だったのだ。ひとまず両手を空けるため、アーシアを背中に移す。

 アーシアは沖田の首に手を回し、足を胴に絡め、幼子のように抱きついた。


 沖田は顔を打つ凄まじい風に耐えつつ、徐々に迫る地上を薄めで睨む。遥か東に見える広々とした湖面は琵琶湖。真下に流れる二筋の川は貴船川と鞍馬川だろう。


 目測だが、このままでは山のど真ん中に落下する……気がする。風の流れを利用してなんとか位置をずらせないだろうかと両手をばたばたしてみる――


「うわぁぁぁあああ!?」

「キャァァァアアア!?」


 が、身体が風車のように回ってどうにもならない。なんとかかんとか体勢を立て直したが、落下位置を調整できたようには到底思えなかった。


 かくなる上は……


(俺が下敷きになれば、アーシアが生き残れる可能性もあるだろうか)


 沖田は加州清光を握りしめ、覚悟を決める。

 息を吸って目をつむり、まぶたの下に着地の瞬間を思い描く。

 森の中に落ちる。これは間違いないだろう。

 枝を折りながら落ちる。これで少しは衝撃が和らげられるかもしれない。

 折れた枝が肉を裂き、抉るだろう。自分の身体を盾にしなくては。

 そうだ。刀を木に突き立てよう。これで少しは勢いを削ぐ助けになる。

 着地。足から。踏ん張るどころか股まで一気に潰れそうだ。四つん這いの方がいいかもしれない。


 じわり、と沖田の胸に温かいものが広がった。

 否、温かいどころではない。炎のような熱さ。

 しかし、不思議に火傷のような痛みはない。


 目を開いてみると、自分の胸が赤い血でべったりと濡れていることに気がついた。しがみついているアーシアの両手のひらから流れたものだ。勘吾の切腹を止めるために負った傷である。


 熱さはじわじわと染み渡ってくる。

 凍えていたはずの身体から震えがなくなっている。

 心臓がどくんと跳ね、力強く脈打って全身の隅々まで煮えたぎる血液を送っていた。


(もしや、これはアーシアの血の力……?)


 つい今しがたまで覚悟していた死が、みなぎる活力によって頭から消え去っていた。その代わり、今であればどんなことでも可能と思える自信が心を満たしていた。


 ゆっくりと息をしながら、沖田は加州清光を八相に構えた。

 地上はもう目の前だ。真下には杉の巨木が立っている。

 激突まではもはやまたたきひとつの時間もない。

 しかし、沖田の目にはゆっくりと景色が流れていた。

 巨木の先端に並ぶともに、型をなぞるように丁寧に加州清光を振り下ろす。

 切っ先が樹皮を割り、木を引き裂いていく一瞬一瞬すらも手に取るようにわかった。

 目ぼしい枝は蹴り降りながら巨木を唐竹に割っていく。

 かんじきの先が雪面にふわりと着いた。

 ふうと息を吐く沖田の前には、先端から真っ二つに斬られた巨木が立っていた。

 加州清光を引き抜き、作法通りに鞘に納める。


 ちん、という鍔鳴りの音を聞くのと、沖田の意識が暗闇に呑まれるのはまったく同時のことだった。


 * * *


「いやー、やっぱり沖田の兄貴はすげえっすね! あんなでっけえ木を真っ二つだなんて、一体どうやったんですかい?」

「無我夢中だよ。もう一度やれって言われたって絶対できないね」


 沖田の枕元でわーわーと騒いでいるのは勘吾だった。

 意識を失った沖田は鞍馬山に待機していた新選組隊士に救出され、そのまま屯所へ担ぎ込まれたのだ。そのまま三日ほど眠り続け、やっと目を覚ましたのがつい昨日のことである。


 アーシアは泣いているし勘吾はうるさいし、近藤や土方は怖い顔で睨んでいるので閉口していたが、一晩明けてようやく少し静かになった……と思ったところにこれである。

 とはいえ黙って寝ているのも面白くないので、沖田も気になることを聞いてみる。


「ところで、俺としては勘吾が生きてたことにびっくりだよ」

「へへっ、それについちゃおいらも自分で驚いてるとこで……」


 ぼりぼりと頭を掻く勘吾の話によると、あの怪物が飛び立った後にあの洞穴全体が崩落したらしい。正気に戻った勘吾は慌てて階段を駆け上がって洞窟から逃げ出したそうだ。あのウェンディゴなる怪物が追ってくることはなかった。


 脱出の直後に山崩れが生じ、雪崩混じりの土石流が斜面を駆け下りた。そして、居鷹村を丸ごと飲み込んでしまったそうだ。何里先までも届いたその轟音はまるで女の悲鳴のようでも、怪物の咆哮のようでもあったという。鞍馬寺に待機していた新選組がそれを聞け、捜索に出たことで沖田も早々に助け出されたのだった。


「それじゃあ新見も今は土砂の下……ってほど潔くはないだろうなあ、あいつは」

「いかにも生き汚そうなやつでしたもんね」

「本当はとっくに死んでるんだけどね」

「あ、そういやそうっした」


 声を合わせてからから笑うと、沖田は胸の奥に違和感をおぼえた。

 小さく丸めた半紙が肺の中を転がるような微かな不快感。

 しかし、二三も空咳をするとその違和感も霧散した。


「それにしても、あの怪物は何だったんだろう」

「何だったんすかねえ。あの神像? にそっくりでしたけど」


 ウェンディゴは新見が使役した魔物であるとわかっている。

 だがあの怪物が目覚めた途端、ウェンディゴたちは新見の支配を逃れていたようだった。ネクロノミコンの魔力さえも覆す強大な力を持つ存在……ということだったのだろうか。


「それについてはわたくしの調べがつきマシタ!」


 襖がばあんと開いてやってきたのはアーシアだった。

 いつの間に手に入れたのか、ツル付きの西洋メガネをかけている。右手でメガネをくいっと持ち上げ、左手には南蛮文字の表紙の古びた本が抱えられていた。その両手には真新しい包帯が巻かれているが、溌剌とした態度には痛々しい様子はもう見られない。


「ヨシノブ様が揃えていたアメリカの書物に記述があったのデス」

「メリケンの? 魔物は日本の山にいたのになんで?」

「それについては仮説となりますが……先にこの邪神の伝承をお話したほうがよいデショウ」


 アーシアは胸を張り、メガネをくいっと持ち上げる。

 修道院の教師を真似ているのだが、沖田にはそんなことはわからない。

 ともあれ、なんだか楽しそうにしているし素直に耳を傾けることにした。

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