第27話 空洞

 翌朝。粉雪は降り続き、分厚い雲に遮られた朝日は弱々しい。戸外に出ると二町(約200メートル)と離れていないところに例の隣家があった。村についたのが夕闇が押し迫る時刻だったとはいえ、こんな間近にあるのに気が付かなかったのかと沖田は驚いていた。勘吾の言う通り、隣の家を訪ねるだけで迷うことがあるというのは本当のようだ。


 とはいえ、日中であればさすがに遭難の心配はない。百姓の案内で隣家を訪れる。


 家の中はひどい血臭で満ちていた。奥歯の根が苦くなるような濃い鉄錆の臭い。床板のみならず、壁や天井の梁にまでどす黒い血痕がこびりついている。豊かな暮らし向きではなかったのだろう。百姓の家よりもさらに家財は少なく、粗末な箪笥が一棹と、わずかな食器がある程度だった。


「いやあ、こりゃひでえ臭いだな。掃除したってもう住めねえぞ」


 土足のまま板間に上がった勘吾が顔をしかめている。死臭というものは容易く拭えるものではない。ましてや悍ましい惨劇のあった場所に住みたがる者もいないだろう。この家の運命はいずれ朽ち果てるか、打ち壊されて薪にされるかのどちらかと思われた。


「その鬼女ってのはここに一人で……赤ちゃんとだけ住んでたの?」

「へえ、はい。他に住んでる者はおりませんでした」

「亭主は?」

「亭主は一昨年にうなっておりますな」

「一昨年?」


 一昨年では計算が合わない。赤子は去年の暮れに生まれたのではなかったか。


女寡おんなやもめで生計を立てるのは大変だったと思うけど」

「その、なんと申しますか……村の男衆で面倒を見ていた・・・・・・・もんで……」

「ああ、なるほどね。それでてて無し子だったってわけだ」

「それは……その……へえ……」


 かまをかけると作蔵はもごもごと言葉を詰まらせ、沖田は思わず冷たい視線を向けてしまう。そうしなければ食っていけなかった女の事情もわかる。村の者たちは何の見返りもなくただ寡婦を助ければよかったとまで言うつもりもない。しかし、後ろめたさがあるのならそもそもしなければいい、それくらいのことは思う。


「めぼしいもんはないっすねえ」

「昨日感じたのと同じ瘴気の残滓はありマスガ……」


 坂本龍馬につながる手がかりが残されていないかと捜索したのだが、得るものは何もなく、ただただ苦々しい気持ちだけが残された。


 * * *


 女の家を後にした沖田たちは、作蔵と別れて昨夜『いたくぁの呼び声』が聞こえた北側の斜面を登っていた。


 かんじきがざくざくと雪を踏む音が木立の奥へ吸い込まれていく。道はないが、木々の間隔が広いため歩くのにそれほどの苦労はない。日当たりが悪いせいで植物の生育が悪いのだろうか。沖田は山に詳しくないが、それにしても熊笹の茂みすらないのは痩せ過ぎではないだろうかと疑問に思った。


「この辺りっすね、歌声が途切れたのは」


 勘吾が立ち止まった場所には捩じくれた雑木が立っていた。目印にしたのだろう、刃物で切りつけた十字の傷跡があり、赤黒い樹液がかさぶたのように固まっていた。


 振り返って見下ろすと木々の隙間にわずかに村が見える。ここから提灯の灯りだけを頼りに山を下るのは大変だったろうと沖田は勘吾の苦労を想像する。


「足跡でも残ってればよかったけど……」

「瘴気の残滓はありますが、一面に漂っていて方向マデハ……」


 沖田は雪面を睨むが、降り続いた雪のせいで鬼女の痕跡は何も残っていない。そもそも昨日の怪音の原因が鬼女とも限らないのだ。またしても空振りか、と沖田は小さく舌打ちする。


「待ってくだせえ。よく見りゃ雪が少し凹んでやすぜ」


 沖田が諦めかけたところに、勘吾が雪を踏んで進み出す。雪が凹んでいるというが沖田の目には何の変化も見て取れなかった。


「へへ、おいらはこう見えて目端がきくもんでね。大船に乗ったつもりでついてきてくだせえよ」

「大船のつもりが泥舟じゃないといいけど」

「ひでえなあ、兄貴は」


 勘吾の先導で山に分け入っていく。やがて振り返っても村は見えなくなり、上り下りを繰り返すうちに方角さえもおぼつかなくなっていく。太陽は斜面に隠れ、日の高ささえわからない。


 時間の感覚を失ってからどれほど歩いただろうか。黒い岩が剥き出しになった崖下に唐突にぶち当たった。


「なんすかねえ、これ」


 勘吾が顎をさすりながら見ているのは、崖に半ばめり込むように設えられた小さな社だった。数人が雨宿りをできる程度の大きさで、真ん中には人間台の石像が一体鎮座している。


「烏天狗……じゃないよな」


 その石像は異貌であった。大きな嘴状の口、三角に尖った長い耳、感情の読み取れない正円形の双眸。背からは六対十二枚もの羽が左右に広がっている。その羽も一様ではなく、鳥の羽、蝙蝠の羽、蜻蛉の翅、人の手指が絡まったような羽……どれひとつとして同じものがなかった。


「風に乗りて歩むもの……歩む死……大いなる白き沈黙の神……」

「勘吾?」


 アーシアに意見を聞こうと振り返ったのだが、勘吾が石像を見つめたままぶつぶつと何事かを呟いている。その目は見開かれ、眼球が小刻みに揺れていた。それなのに、身体はぴくりとも動かず身じろぎひとつしていなかった。


「勘吾? おい、勘吾!」


 沖田は勘吾の横面を平手で叩いた。勘吾の顔がきっ・・と沖田を睨むが、瞬きを二三繰り返すと平静の表情に戻った。


「勘吾、大丈夫か?」

「あれ? おいら何か変なことしましたかね?」

「おぼえてないのか? 風に乗りて……とか何か呟いてたけど」

「ええ? おいらが?」


 どうやら正気を失っていたらしい。アーシアに視線をやると、ゆっくりと首を左右に振った。


「普通の方が旧き者に触れると狂気に蝕まれることがあるのデス。カンゴ様は一度村に戻って休んだ方ガ……」

「いやだなあ、姐さん。おいらぁ度胸だけは人一倍なんだ。こんな不細工な仏像なんか怖かぁありやせんよ」


 アーシアの言葉を聞いた勘吾が異形の像を蹴り飛ばす。強がりなのは誰が見ても明らかだった。石像はバランスを崩し、地響きを立てて後ろに倒れてしまった。


「おいおい、そこまですることはないだろう」


 沖田は苦笑いをする。こんな奇妙なものでも村の者が信心をしていたら面倒だと思ったのだ。石像を戻せないかと社の中に入る。


「あれ?」


 そこで奥の壁板が外れていることに気がついた。その先には洞窟でもあるのか、暗い空間が続いている。


――spghrrrrrr……spghrrrrrr……


 空洞からはあの呼び声がかすかに聞こえていた。

 沖田たちは視線を見合わせ、暗闇の奥へと踏み込んでいった。

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