第26話 呼び声
山の夜は早い。女房に挨拶を済ませる頃には太陽はすっかり稜線に沈み、敷き詰められた仄白い雪以外には何も見えなくなっていた。
「探索は明日にした方がいいっすね」
「これくらいなら提灯があれば何とかなりそうだけど」
「いや、兄貴。山を舐めちゃいけないっすよ。とくにこんな晩は雪で目当てがきかなくなって、隣の家に行くだけで迷って死んじまうこともあるんでさ」
「ふうん、そういうものか。じゃあ今夜は体を休めるか」
江戸下屋敷で生まれ育った沖田は旅の経験があまりない。一方、勘吾は温暖な讃岐の出身なのだが、京に上る前には全国を行脚しており雪山を歩いた経験もあるそうだった。旅慣れた勘吾の忠告には素直に従ったほうがいい。
そうとなればもうやれることもない。土間続きの板間に茣蓙を敷き、蓑に身を包んで目をつむる。百姓夫婦は自分たちの布団を貸そうと言ったが丁重に断った。茣蓙を透けて床下から這い上がる冷気が身に沁みてくるが、外の寒さに比べればなんということもない。やがて睡魔が勝り、眠りに落ちていく。
どれだけ微睡んでいただろう。
風の音ひとつしなかった夜の果てから何かが聞こえ、沖田の浅い眠りを覚ました。
――SPgHRRRrrr……SPgHRRRrrr……
三味線のような、琵琶のような、あるいはバンジョーのような。
――SPgHRRRrrr……SPgHRRRrrr……
しかし三味線でも、琵琶でも、バンジョーでもない。
――SPgHRRRrrr……SPgHRRRrrr……
何かに似ている。しかし何にも似ていない。何者にも名状し難い、汚穢を煮詰めた冒涜的な音色。
「瘴気……魔の気配デス」
アーシアの呟き。上半身を起こして青い目を開いている。
「ううーん、なんすか、この変な音?」
続いて勘吾が目を覚ました。寝ぼけ眼をこすりながら蓑をがさがさと揺らす。
「これが『いたくぁの呼び声』ってやつか。どこから聞こえてくる?」
「北……そう遠くはないはずデス」
「何の化け物かはわかる?」
「すみません、そこまでハ……」
アーシアはロザリオを握りしめて怪音に集中している。沖田が枕元の加州清光を引き寄せるが、勘吾が先に立ち上がった。その手には火を灯した提灯がすでに握られている。
「物見をしてきやす。おいらの腕じゃあ、何かあっても姐さんを守れねえんで」
「おい、待て!」
「あ、軒先に提灯吊るしておいてもらえやすか。それじゃ!」
沖田の静止も聞かず、勘吾は素足のまま雪の中へ飛び出していった。その背中はあっという間に闇に溶けて消え、提灯の明かりだけが遠ざかっていった。
「まったく、思い切りと度胸だけはいい」
沖田は苦笑いしながら別の提灯に火を灯し、それを持って軒下に立った。もう片手には加州清光が握られ、いつでも抜ける体勢になっている。
「カンゴ様、大丈夫デショウカ……?」
「アーシアは中にいて大丈夫だよ」
「イエ、わたくしも外にいた方が異変にすぐ気がつけマス」
隣に立ったアーシアの肩に、沖田は自分の蓑をかけてやる。アーシアも黙ってそれを受け入れた。アーシアを気遣ってのことでもあろうが、いざというとき蓑は剣を振るう邪魔になると理解していたからだ。
百姓夫婦が起きてくる気配はない。この怪音が『いたくぁ様の呼び声』なるものなのか確認をしたいところではあるが、恐慌を来されても足を引っ張られる。自然に目を覚ますのは止められないとして、無理に起こす必要はあるまいと沖田は判断した。
粉雪がしんしんと降り積もる中、二人はじっと立ち尽くす。勘吾の持つ提灯の灯りは闇に溶けてとっくに見えなくなっている。単に遠ざかったからか、木陰にでも入ったか、あるいは蝋燭の火が消えてしまったか……。
――SPgHRRRrrr……SPgHRRRrrr……
不気味な呼び声は聞こえたままだ。それ以外に音はなく、雪雲に遮られているためか星も月も見えない。時の進みを感じさせるものは身に沁みていく寒気のみ。沖田は提灯を軒下に掛け、加州清光を腰帯に差し直して両手の指を揉む。剣術の妙は手の内の操作にある。いざそのときに指がかじかんで遅れを取るなどあってはならない。
「手を貸してくだサイ」
「?」
手袋を脱いだアーシアが沖田の手を取り、小さな手のひらで包んでほうと息を吹きかけた。
「!?」
突然のことに慌てて手を引っ込めそうになるが、アーシアの真剣な様子に意図を察する。
「ありがとう、温まるよ」
「いえ、わたくしにできるのはこれくらいデスカラ」
小さな手に擦られるたび、沖田の手に温もりが移っていく。
「坂本龍馬の……ネクロノミコンの気配は感じる?」
「いえ、それはマダ。しかし悲鳴が聞こえてからはずっと瘴気が漂っていマス」
「悲鳴? ああ、そうか。確かに悲鳴にも聞こえるな」
龍馬のバンジョーが念頭にあった沖田には、いたくぁの呼び声なるものに楽器の音しか連想をしていなかった。しかし、言われてみれば女の金切り声のようにも聞こえてくる。
改めて耳を澄まそうとすると、奇妙な音色はすでに止んでいた。代わりにざくざくと雪を踏む足音が近寄ってくる。沖田はアーシアからさっと手を離し、加州清光の鯉口を切った。ちんと乾いた金属音が闇の中に響く。
「おっとっと、やめてくだせえよ。それともお邪魔虫でしたかい?」
「はあ、そんなんじゃないよ」
足音の主は勘吾だった。火の消えた提灯を手に戻ってきたのだ。
「いいから中に入って暖まれ」
沖田は勘吾の体から雪を払ってやり、戸を開けて中に押し込んだ。囲炉裏にかかった薬缶でたらいに湯を作ってやる。勘吾は湯の中で足を揉みながら「雪ン中を裸足で行くもんじゃないっすね」などと当たり前のことを言っていた。
「収穫は?」
「すいやせん、何も……。灯りを消して近づいたんですが、気づかれたのか
「暗闇で襲われたらどうするつもりだったんだ。無茶をするな」
「夜目がきくタチなんで大丈夫かと思ったんですがね。何にも見えねえんで参りやした。兄貴の提灯がなきゃ今頃迷子でしたよ」
「本当に後先考えないやつだなあ」
「へへへ、それだけが取り柄でやして」
「褒めてないんだけどなあ」
と呆れつつも、沖田は勘吾の性質を好ましく思っている。道場で達者なものが実戦の斬り合いで何もできない姿を嫌と言うほど目にしているのだ。修羅場で咄嗟に身が動くというのは剣客として得難い資質なのである。
それなりに騒がしくしたはずだが、百姓夫婦の眠りは深いのか目覚める気配はない。話し込んで起こしてしまっても迷惑だと改めて眠りに就くことにした。明日は明日でやることがある。沖田は蓑にくるまって目をつむる。
そういえば、勘吾にはあれが
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