第28話 氷湖

 洞穴は地下へ地下へと伸びていた。素掘りの階段は凍てついており、厚く氷が張り付いている。一歩階段を下るたび、提灯の灯りが揺らめいて、両手を広げれば手がつきそうな狭い通路を怪しく照らした。


「ここまでカチカチに凍ってるとかえって滑らないもんすねえ」

「油断するなよ。足を踏み外したらどこまで落ちるかわかったもんじゃない」


 先頭を行くのは勘吾、それにアーシアの手を引く沖田が続く。背の荷物は地上に置いてきている。


――spghrrrrrr……spghrrrrrr……


 曲がりくねった階段の奥からは「いたくぁの呼び声」が低く聞こえ、そのたびに冷たい風が通り過ぎていく。賢しい者ならば洞穴を風が通り抜ける音と云うかもしれない。しかし、耳に残る不快な汚穢が、この音色が単なる自然現象ではないことを直感させるのだった。


 どれほど地下深くまで潜っただろうか。行く手にぼんやりと青い光が見えてくる。


「勘吾」

「へい」


 二人は刀の鯉口を切る。足音を忍ばせてそろそろと下りていくと、唐突に階段が終わった。眼前には床も天井さえも見えない広大な空間が広がっている。一体何が光っているのか、ぼんやりとした仄青い光で満たされている。


「なんすかこれ……」

「待て」


 何かに誘われるようにふらふらと進み出る勘吾を、沖田は肩を掴んで引き止める。勘吾の足元のすぐ先には、鏡のように滑らかで、透き通った平面が続いていた。


「ワア、地底湖デスカ?」


 少し遅れてアーシアが二人に並んだ。錫杖の石突で湖面をつつくと、こおんこおんと金属のような音を立てた。どうやら氷が張っているらしい。


「ちょっと貸して」


 沖田はアーシアから錫杖を借りると、渾身の力で氷を突いた。いっそう甲高い音が響いたが、氷の表面には引っかき傷のひとつもつかない。


「うーん、どうも普通の氷じゃなさそうだね」

「この光も湖の底から来ているみたいデス」


 沖田は目をすがめて湖面を睨むが、全体が薄ぼんやりと光っていて光源らしきものが見当たらない。そもそも、氷の中でも光る物体とは一体なんだろうか。夜光虫ならば品川に見物に行ったことがあるが、それとは明らかに性質の異なる光だった。


「載っても大丈夫そうっすね」

「あっ、馬鹿!」


 勘吾がずかずかと湖面に進んで飛び跳ねている。迂闊なやつだと呆れつつ、言う通り氷が割れる心配はなさそうだった。湖を避けようにも岸は階段を降りてすぐのところで途切れており、迂回できる道はない。探索を続けるためには湖面を行くしか手段はなかった。


「ここまで来て引き返す……って手はないか」

「ハイ! 瘴気もだんだん濃くなってマス。この先に、必ず何かがあるはずデス!」


 アーシアもやる気充分だ。アーシアがヴァチカンからはるばる日本に来たのはネクロノミコンの奪還のためである。その手がかりが手の届くところにあるかもしれないと思えば前のめりになるのも当然だろう。


 沖田はアーシアから錫杖を借りたまま、こおんこおんと氷を叩いて進む。敵が潜んでいるならば位置を知らせてしまうことになるが今更だろう。感触から察するにその心配はなさそうだが、万一氷が割れて水中に落下したらそれこそ命に関わる。


 足元からの仄青い光源で視界はそこそこ利くが、それでも遠くまでは見通せない。せいぜいが十間(約20メートル)やそこらといったところだろう。その先はどこまで続いているかもわからない闇で塗りつぶされていた。


 その闇を、白い人影がすっと横切った。


――SPgHRRRrrr……SPgHRRRrrr……


 琵琶のような、三味線のような、バンジョーのような。


――SPgHRRRrrr……SPgHRRRrrr……


 女の金切り声のような、断末魔の悲鳴のような。


――SPgHRRRrrr……SPgHRRRrrr……


 歌声のような。


「勘吾!」

「へい!」


 鞘走りの音がふたつ響いた。

 勘吾はアーシアの前に立ち、周辺に油断なく視線を配る。

 沖田は加州清光を平晴眼に構えたまま、人影の発する気配を探ってすり足でじりじり進む。


――SPGHRRRRRR!!!!


 闇の中から襤褸をまとった半裸の女が飛び出した。

 両眼は爛々と青く光り、口は耳元まで裂け、血まみれの乱ぐい歯を剥き出しにして沖田に襲いかかる。


「ええいッ!」


 加州清光が火花を散らした。

 女の牙を刃で受けながら、反りを活かして突進を斜め後ろに受け流す。振り返りざまに下段の一閃。女の膝から下が二本まとめて斬り飛ばされる。


――SPGHRRRRRR!!!!


 両足を失った女の体が勢いのまま氷上を滑る。

 沖田は素早く間合いを詰めると、胸に刀を突き通して動きを封じた。

 一瞬の交錯。

 あまりにも鮮やかな手並みに、アーシアと勘吾は揃って息を呑んでいた。


「あんたが自分のややこを食い殺した鬼女かい? って、話が聞ける感じじゃないな」


 女は針に止められた虫のようにバタバタと手足を振り回していた。

 斬り飛ばした足からの出血はない。

 切り口は凍りついたかのように乾いていた。


「尋問の意味はなさそうだな。これも魔核ってのがあるのかな?」


 沖田が振り返ってアーシアに尋ねかけたときだった。


――SPGHRRRRRR!!!!


 女の体がいっそう暴れた。

 女の目から、鼻から、耳から口から紫色の靄が激しく立ち上る。


「!?」


 沖田は咄嗟に飛び退く。

 化け物たちの予想外の動きにはこれまで何度も煮え湯を飲まされた。

 警戒してもしすぎるということはない。


 紫の靄は一瞬鳥に似た形を取ったかと思うと、大きく羽ばたく。

 反射的に刀を振るうが、何の手応えもなく通り抜ける。

 そして靄の鳥は沖田をすり抜けて背後に飛び去った。


「ヒャハハハハ! 相変わらず容赦がねえなあ、沖田ァ」


 粘ついた野卑な声がした。

 嫌というほど聞き覚えのある声だ。

 沖田は声の聞こえた闇に向かって加州清光の切っ先を向ける。


新見しんみ!」

「へへっ、声だけでわかってくれるたァ、俺も出世したもんだね」


 暗闇からぬうと姿を表したのは、巨大な鼠の上半身に人間の下半身。

 白峯神宮で胴から両断した新見錦であった。

 どういう理屈か上半身が完全な獣となって再生していた。

 そしてその背後には作蔵がびくびくと様子を窺っている。


「なるほど、どこまで本当かは知らないけど、もともと俺たちを誘い出す狂言だったってわけだ」

「察しがいいねえ。だがよ、そんなことを気にしている場合かよ?」


 獣皮で覆われた細い指がどこかを指す。

 その先にいたのは――


「きゃあっ!?」


 短い悲鳴。

 アーシアの白い喉元に白刃が突きつけられていた。

 白刃を握る主は、なんと勘吾であった。

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