第23話 初詣
年が明け、文久の世も四年となった。
日頃は早朝から木刀を振るう者で賑わう新選組の道場も、元日とあってはさすがに閑散としている。ただひとり木刀を振るい気勢を吐くのは沖田総司。袈裟懸けの斬り下ろしから電光石火で切り返し、ぱっと飛び退いたかと思えば間髪入れずに必殺の三段突きを放つ。
もろ肌を脱いだ引き締まった上半身にはすっかり汗にまみれ、一月の冷たい空気に薄く湯気を立てている。このところの激闘の後であろう、そこかしこに湿布や包帯が当てられているが沖田の動きにその影響は見られない。
その気迫はまさに鬼気迫るものだった。見るものが見れば対手の姿を幻視していただろう。長身痩躯の男が握るは三尺余りの大太刀。獣の爪牙の如く深い反りのそれは肥前忠広。沖田の攻めに尽く対応し、鋭い返しを放ってくる。
「くそっ、また負けた!」
沖田は片膝を突き、ぜえぜえと荒い息を吐く。沖田が戦っていた相手は言うまでもあるまい。坂本龍馬の右腕、岡田以蔵である。
沖田が以蔵と剣を交わしたのはほんの数合のことである。それで以蔵の剣の何がわかったかと言われれば、ほとんど何もわかっていないにも等しい。しかし、沖田の脳裏には確かに以蔵の剣筋が焼き付いていた。いまの自分ではまだ紙一重届かない。そしてその紙一枚が破れない。そんな
「えいッ!」
苛立ち紛れに突きを放つ。床板を割らんばかりの踏み込みがダァンッと道場を震わせるのとほとんど同時に、道場の戸ががらりと開いた。
「あけましておめでとうございマス。本年もよろしくお願いしマス」
戸の向こうにいたのは三つ指をついたアーシアだった。紺地に薄桃色の桜が散らされた振袖を、紅に金糸の帯で結んでいる。長い金髪は頭の上で小さくまとめられ、朝日を返してきらきらと輝いていた。
「あっ、あけましておめでとう。今年もよろしく……」
沖田は思わずどもってしまった。アーシアの晴れ姿に目を奪われてしまったというのもある。恥ずかしい姿を見られてしまったような気もする。沖田は慌てて上衣を羽織り、早口で聞く。
「どうしたの、こんな朝早くから?」
熱くなった顔を手ぬぐいでゴシゴシと乱暴に拭く。
アーシアは顔を上げ、にっこりと満面の笑みで言う。
「ハツモウデに行きマショウ!」
「初詣……?」
伴天連にもそんな習慣があるのだろうか。
思いがけない提案に、沖田はきょとんと目を丸くした。
* * *
初詣という習慣は実は明治以降に一般化したものである。江戸後期にその原型があり、それは恵方参りと呼ばれることが多かった。元日に住まいから見て年ごとに変わる吉の方角、つまり恵方にある寺社にお参りをする習慣が江戸の町人の間で流行ったのだ。
「ってわけで岡崎神社の方に来てみたけど……」
「ぜんぜん人がいないデスネ……」
今年の恵方は東北東。八木家の女房に聞いて屯所の東北東にある岡崎神社に来たのだが、人通りはほとんどなく、周辺の店もすべて
それもそのはずで、恵方参りを元日に行うのはあくまで江戸の流行りなのだ。京で恵方参りと言えば節分に行うもので、元日は商家も店を閉めて身内で新年を祝うのが普通なのである。
「ど、どうしましょうカ……」
「うーん、とりあえずお参りはしようか。験担ぎだし」
狼狽えるアーシアの手を引いて、沖田は鳥居をくぐって参道の石畳を踏む。金髪はかつらに隠されて、代わりに
「あれ、ウサギさんのモニュメントがありマスネ」
「へえ、狛犬が兎になってるんだ。珍しいなあ」
「コマイヌ?」
「神社を守る霊獣? だよ」
一応は説明するが、沖田はそれほど信心深い
誰かに聞いていたのだろう。このあたりの作法は沖田が教えるまでもなかった。
「何をお願いしたんデスカ?」
「えっ!?」
目を開けるとアーシアの顔が近くにあり、にっこりと微笑んでいた。甘い香りが鼻をくすぐり、沖田は思わずどぎまぎしてしまう。
「お願いごとは秘密デショウカ?」
「えーっと、あー……別に何も考えてなかったかも」
そういえば、恵方参りの目的は神仏に昨年の無事を感謝し、今年の安寧を願うものだった。商人ならば商売繁盛、病人ならば
「ソージ様は欲がないのデスネ!」
「人並みの欲はあると思うけどなあ」
神に祈ってそれを得ようという気持ちがないだけだ。天然理心流の剣名も高めたいし、色々と美味いものだって食ってみたい。出世をすれば姉のみつにも恩返しができるだろう。
そんなことを話すと、
「やっぱり欲がないのデスネ」
とアーシアに笑われてしまった。千石取りの殿様になりたいとでも言った方がよかっただろうか。
なぜだか気恥ずかしくなり、沖田は話題を変える。
「ところでさ、アーシアは日本の神様に祈っても大丈夫なの?」
「あー……それは……主の御心は広いのデス! きっと問題ありマセン! あっ! あそこにもウサギさんがいますヨ!」
アーシアは誤魔化すように雪駄を鳴らして駆けていく。すっかり日本に馴染んでいるように見えるアーシアだが、やはり異教の神に祈るのはまずいのだろう。聖女だなどと呼ばれているのに自由なものだと沖田は苦笑いをする。
アーシアの行く手には小さな社があり、中には黒い御影石でできた兎の石像があった。後ろ足で立って伸びをしている格好だ。アーシアはそれをぺたぺたと撫でてにこにこ笑っている。
「うふふ、かわいいデスネ! これも狛犬さんなのデスカ?」
「ええっと、看板があるな。内容は……」
読み上げようとして、沖田は思わず詰まってしまった。
「何が書いてあるのデスカ? かなはおぼえましたが漢字は難しいのデス」
青い目を無邪気に輝かせるアーシアに、沖田は咳払いをしてから小声で答える。
「子授け兎……だって」
「コサズケ?」
「ええっと、赤ちゃんが授かるご利益があるんだって」
「エエーッ!?」
アーシアは慌てて手を引っ込めて、顔を真っ赤にして俯いた。伝えた沖田も頬が熱い。二人は微妙な距離を開けながら、屯所に帰る道のりを無言で歩くのだった。
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