第20話 黒山羊

「ははははは! ははははは! これがいくさッ! これこそが本当の戦だッ! 銃声が高らかに歌い、白刃がくれないに染まるッ! 何が幕府二百余年の太平だッ! それはただの停滞、怠慢、慢心だッ! 命を燃やす戦場いくさばこそが、この国をッ! 日本人を進化させるのだッ! めぐるをいとうが廻厭隊かいえんたいッ! 日本の夜明けは近いッ!!」


 化け象を囲む屍人兵はどんどん薄くなっている。

 にもかかわらず、松蔭は軍配をめちゃくちゃに振るって狂ったように笑い続けていた。


「戦の何がよいものか。狂人め」


 慶喜はそう吐き捨て、松蔭を指差す。

 乱戦で発砲を控えていた銃兵たちが、化け象に乗る松蔭を一斉に撃った。十を超える鉛玉が松蔭を血だるまに変える。


「ははははは! 進化には痛みッ! 流血が欠かせぬッ! 君たちは予想以上に健闘したッ!」


 それでも松蔭の哄笑は止まらない。

 いくら魔核を撃たれなければ死なないと言っても、所詮は時間の問題だ。このまま銃撃を続ければいずれは魔核に命中するはず……だった。


「千匹の仔を孕みし森の黒山羊よッ! 彼方よりきたる外なる神よッ! 我を糧に血塗られたる豊穣を齎せッ! いあ・いあ・しゅぶにぐらすッ! いぁあるむなあるぅがなぐるとなろろいむろくなるのいくろむのいくろむッ! いえ・いえ・しゅぶにぐらすッ!! 」


 化け象の背を覆う黒い触手がぞわりと蠢いた。蚯蚓みみずの如く蠕動ぜんどうし、逆巻き、うねり、松蔭の足元に絡みつく。墨につけた和紙の如く黒が這い登り、松蔭の全身を瞬く間に覆い尽くした。


――MeeeeeeEEEEEE!!


 耳をつんざく獣の咆哮。音そのものは山羊の鳴き声に似て牧歌的でさえある。が、音圧が凄まじい。大気が震え、篝火が揺らめいて火の粉が舞い上がる。


 たまらず耳を押さえた沖田の視線の先で、シュブ=ニグラスが巨体をぶるりと震わせた。髪を振り乱す女のように黒い触手が四方に伸びる。蠢く触手がすぐそこまで迫っていた数人の会津兵に絡みついて宙に吊り上げる。


「くそっ、なんだこれは!?」

「刀で切れんぞ!」

「落ち着け! 脇差を……うわあああああ!?」


 捕らえられた会津兵から悲鳴が上がる。触手に隠されていた悍ましい姿があらわになったからだ。


 それは女の口だった。

 大きさも、角度も場所も数すらも出鱈目だった。

 わざとらしいほどに赤く濡れた唇に、真珠のように白い歯が整然と並んでいる。


「やめろっ、やめろぉぉぉおおおお!!」


 無数に並んだその口が会津兵を飲み込む。

 ぽってりした唇が閉じ、芋虫のようにもごりもごりと蠕動ぜんどうする。


――柔らかいものが潰れる湿った音

  ――硬いものがすり潰される鈍い音

    ――くちゃくちゃと粘りつく咀嚼音


 唇の端から鮮血が一筋垂れて、紫色の舌先がべろりとそれを拭い取る。


――MeeeeeeEEEEEE!!


 巨獣が突進する。

 会津兵もろとも橋板を踏み砕き、櫓門に激突。

 紙細工の如く粉砕し、瓦礫が血肉と共に飛び散る。


 本丸に待ち構えていた兵たちが一斉に発砲。

 銃声が轟き、灰色の硝煙が巨獣の姿を包み込む。


――MeeeeeeEEEEEE!!


 咆哮。

 硝煙を割って黒い触手がぐるりと振るわれる。

 それはさながら歌舞伎の獅子頭ししがしら

 のたうつ触手が会津兵を次々捕らえ、無数の口が淫虐いんぎゃくむさぼる。


「あの獣はシュブ=ニグラスだったのデスカ!?」

「しゅぶにぐらす?」


 酸鼻極まる光景の中心を睨みながら、沖田はロザリオを握りしめるアーシアに聞き返した。


外なる神アウターゴッズの一柱デス! ディープワンも蝕餬蚣ショゴスも所詮は奉仕種族に過ぎマセン!」

「なんだかわからないけど、いままでの化け物とは格が違うってことか」


 加州清光の鯉口が鳴った。沖田が慶喜にちらりと視線を送る。

 慶喜は黙って頷いた。


「狙うは大将首ひとつっ!」


 沖田が弾丸の如く駆け出す。

 沖田が天守台から飛び出す。

 沖田の身体が夜空を走り、月光を返して加州清光が閃く。


 剣閃が雷と化して夜闇を断つ。

 振り下ろされるは巨獣の背中。

 黒い触手に包み込まれた人型。


 一刀両断。加州清光が松陰だったものを脳天から唐竹割りにした。


――MeeeeeeEEEEEE!!


 シュブ=ニグラスの巨体が震える。

 断ち切られた触手が波打ち、松陰の身体から離れていく。

 黒い触手の中から姿を表したのは――


「これは!?」


 からからに干からびた木乃伊みいらだった。

 眼窩は落ち窪んでただの穴となり、肉は乾いて皮一枚が骨にこびりついている。それが真っ二つに裂け、断面から粉っぽい埃を上げて左右に崩れ落ちた。


『ははははハ! 残念ッ! それはもうボクではなイッッ!!』


 沖田の足元から松陰の声が幾重にも響いた。

 黒い触手が逆巻き、沖田に向かって伸びる。

 沖田は横薙ぎに刀を振るって牽制しつつ、とんぼを切ってシュブ=ニグラスから飛び降りた。


「術者を斃しておしまいってわけにはいかなくなったのかな?」

『ははははハ! 今度は正解だッ! ボクは偉大なる神の分霊と一体になったのダッ! ボクを斃すとは、すなわち神を殺すというこトッ! 卑小な旧人類に神となったボクを倒せるかなッ!!』


 声はシュブ=ニグラスの無数の口から同時に発せられていた。

 その間にも散発的に銃声が轟き、ひび割れた樹皮のような皮膚に弾痕が穿たれる。しかし、撃たれたそばから肉が盛り上がり、瞬く間に傷口が消え失せる。吹き出した血液さえもひび割れに吸い込まれて跡形もない。


「ソージ様! シュブ=ニグラスは豊穣を司る邪神デス! 生半可な攻撃では再生してしまいマス!」

「豊穣で邪神ってめちゃくちゃだなっ!」


 沖田は一気に間合いを詰め、シュブ=ニグラスを斬りつける。松の老木のような足に深い切れ込みが刻まれるが、それもまた数拍の間に塞がってしまう。


『ははははハッ! ははははハッ! 無駄無駄無駄無駄無駄ッ! 神となったボクは無敵! 不死身! 絶対不敗ッ! さあ、さあ、さあどうする新選組沖田総司ッ!!』


 殺到する無数の触手を払い、斬り、かいくぐりながら反撃を加えるが、ことごとく再生され元通りに戻ってしまう。


「くそっ、こいつも魔核ってやつを潰さなきゃならないやつか!」

「はいっ! いま探ってマス!」


 天守台からアーシアの声。胸の前で両手を組み、精神を集中させているようだ。白峯神宮の蝕餬蚣ショゴスの何十倍もある巨体だけに、探るにのも時間がかかっているのだろう。


『ははははハッ! 贄の聖女ッ! 貴女の肉もじつに美味そうだッ! 食べ頃のうちに頂くにはッ! 早く沖田総司こちらを片付けなくてはねッ!!』

「そう簡単にやられは――」


 瞬間、沖田の身体を衝撃が襲い、吹き飛ばされて地面を転がる。


「ぐっ……一体何が……」


 唇の端から血を垂らしながらなんとか立ち上がる。隊服の腹が破れ、剥き出しになった鎖帷子に鉛の破片がこびりついていた。


「喰らった弾を吐き出したのか!?」


 殺気。反射的にその場を飛び退く。シュブ=ニグラスの口から放たれた散弾で地面が弾ける。


『ははははハッ! さすが勘がいいッ! なぁに、遠慮することはないッ! 君たちからもらった弾だッ! 遠慮なく受け取るといいッ!!』


 散弾。散弾。触手。踏みつけ。散弾。触手。触手。触手。足蹴り。また散弾。間合いも威力も性質も異なる猛攻が嵐となって沖田に襲いかかる。


「せっかくだけど遠慮しとくよ!」


 転げ回って攻撃を避けながら沖田が叫ぶ。飛び道具が加わったことにより、攻撃が読めなくなったのだ。致命傷は避けているが無傷というわけにはいかない。ダンダラ羽織はもはやぼろ切れ同然で、鎖帷子も一部が破れている始末だった。


「がっ!?」


 散弾が額をかすり、鉢金が宙を舞った。額から垂れた血が目に入り、視界が赤く霞む。


「しまった……!」

『ははははハッ! 目が塞がったかッ! これで試合終了だッ!!』


 複数の口から一斉に散弾が吐き出される。沖田が身を縮め、受ける覚悟を決めたときだった。


――呀呀呀呀呀呀呀呀ガガガガガガガガッ!


 土砂降りの雨が戸板を打つような音が響いた。

 だが、覚悟していた痛みは来ない。


「派手にやられたな、惣次郎」


 沖田を幼名で呼ぶ声。

 血を拭った沖田の目に映ったのは、新選組局長近藤勇の姿であった。

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