第18話 開戦
水堀にかかる橋のたもとに数百の
揃いの軍帽の下にあるのは片目のこぼれ落ちた顔、鼻の欠けた顔、唇と頬の肉を鼠に食い荒らされむき出しになった歯茎。片腕のない者がいれば足を引きずる物もいる。饐えた腐肉の臭いが鼻を突き、若い会津兵が幾人か堪えきれずに嘔吐していた。
「芹沢さんや新見とは様子が違うな」
「死者の魂の代わりに動物霊などを用いたのデショウ。術は簡易になりますが、肉体と魂が乖離していると劣化が早まりマス」
目を
「皆のもの、配置に付け! 敵は東門、『丑寅』の陣形だ!」
慶喜の号令一下、法螺が吹き鳴らされ陣太鼓が響き渡り、会津兵たちが駆け足で所定の位置へと移動する。陣形はあらかじめ複数が定められており、合図ひとつで動けるよう調練されていた。
「頭を出すな! 敵も銃を持っているぞ!」
しかし、さしもの慶喜も銃を持った敵の出現は想定していなかった。追加の命令を伝令に伝える。東門を固める兵たちは、城壁に身を伏せて銃を構える。
「死体が歩いてやがる……」
「ほ、本当に化け物じゃねえか……」
「おまけに銃まで……」
屍人を間近に見た兵たちに動揺が走る。敵は魔物であると事前に聞かされ、堀川通に現れたディープワンなる水怪のことも噂に知っている。だが、話を聞くのと実際に見るのとではわけが違う。目の当たりにするまでは、怪談噺と同じたぐいの非現実として捉えていたのだ。
「
兵の動揺を見て取った慶喜が
沖田は刀を抜いて掲げてみせた。いかにも芝居がかっていて恥ずかしいが、事前に慶喜から言い含められていた策である。武士とは
「あんなガキに負けるかよ! 会津の
「死人が歩くってのは
「かんかんの~お、きゅうのれす。きゅうはきゅうでせ~いや、きゅうれんす~」
『駱駝』とは近頃人気の落語の演目で、葬儀代に困った男が死体にかんかん踊りをさせて金をゆするという筋立てだ。調子者の軽口をきっかけに、
(この人はやっぱり人の使い方が上手いな)
士気高揚のだしに使われながらも沖田は内心で舌を巻いていた。沖田も新選組の組長として一隊を率いる立場だが、せいぜいが十人やそこらだ。しかも普段の稽古などで気心の知れている相手である。自分には慶喜のような真似は到底できそうにないと思った。
「全体! 止まれーいッ!!」
霧の向こうから大音声が轟いた。
空いた隙間を通り、粘つく霧の向こうからぬうっと現れたのは四つ足の巨大な怪物だった。
一言で表すのなら首のない象。皮膚は濡れた松の古木に似て、がさがさと不規則にひび割れている。背からは大量の黒い触手が濡れた女の髪のように垂れ下がり
化け象は
化け象の背には
「何で子供が……?」
「見た目に騙されないでくだサイ。正体は魔物デス」
沖田の脳裏を子供に化けて襲ってきた
男児はすっくと立ち上がると、腕組みをして大声を張り上げた。
「ボクの名は吉田松陰ッ! ボクが草案を練り、坂本君が実現した
「は?」
沖田の口から、思わず間抜けな声が洩れた。まさか自己紹介を始めるとは思わなかったのだ。そして名乗った名前には心当たりがあった。
「時代に望まれ、時代に妬まれた稀代の男、この吉田松陰が、
吉田松陰――それは尊攘論の開祖とでも呼ぶべき男だった。長州に生まれ私塾を開き、高杉晋作や桂小五郎などを弟子にしている。ペリーの黒船に密航を試みたり、攘夷や倒幕を声高に主張するなどやりたい放題の男だった。当然、幕府はこの男を危険視し、四年前に死罪となっている。
享年、二十九であった。こんな少年であるわけがない。
「魔術って蘇りだけじゃなく、若返りもできるの?」
「若い身体に魂を移したのデショウ。おそらく……自分の子供だと思いマス」
「自分の子を……!」
肉体と魂が異なれば
「ボクは
外道が偉そうなことを言ったところで、と沖田は熱弁を振るう松蔭に冷えた目を向けていた。
「あれ、撃ったら駄目なんですかね?」
「無茶を申すな。余にも体面というものがある」
小声で聞くと、慶喜は苦々しげに吐き捨てる。例え相手が魔物であっても、古法に則り口上を述べるものを奇襲するわけにはいかない。武士とは面子の生き物なのである。卑怯な振る舞いは軽侮の対象であり、そうなれば人がついてこなくなる。慶喜の立場では決して許されることではなかった。
「――然るにッ! 幕府に日本の舵取りをする資格はないッ! すぐさま大政を奉還せしめッ! 将軍以下幕閣たちは腹を切れッ! さて返答や如何にッ!」
延々続いた口上の大半は幕府への罵詈雑言だった。返答も何もない。だが、慶喜は天守台の端まで進み出る。
「返答の前にひとつ聞きたい。主上を守ると申すのなら、なぜ御所を守る結界を穢さんとする」
「ははははははははは!」
慶喜の問いに、松蔭は腹を抱えて笑った。
「まがい物の神仏などに頼ってどうするッ! 神仏など幕府同様無用の長物ッ! 見よッ! この不死の兵団をッ! 古き神々の力によってボクたちが主上をお護りするのだッ!」
「ほう、その兵で主上を護ると申すか」
「いかにもッ!!」
胸を張る松蔭を、慶喜は少しの間黙って見つめ、
「その臭いでは女官が逃げる。風呂に入って出直して参れ」
と告げて陣幕の中に戻った。
松蔭はその背中を呆けた顔で見送っていたが、次の瞬間には真っ赤に紅潮する。
「幕軍に反省の色なしッ! 殺せッ! 一人残らず皆殺しにしろッ!」
松蔭の怒声と共に無数の銃声が轟き、死者の軍団が前進を開始した。
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