【10】朝田正義の最後
元衆院議員
彼は昨年の秋まで、政権与党内で着々と自身の勢力を伸ばし、あと一歩でこの国の首相の地位に上り詰める位置まで到達していたのだ。
しかしその夢は一瞬にして、水泡に帰してしまった。
昨年秋に行われた、公共施設の竣工セレモニーの会場での出来事が、この国の頂点の高みまで達していた彼を、奈落へと突き落としたのだった。
彼がセレモニーの壇上で演説を始めた直後に、背後に控えていた孫で朝田建設専務だった正行が、突然全身を燃え上がらせ、彼に縋りついて来たのだ。
そして全身炎に包まれた正行のあおりを受けて、正義は体のあちこちに重度の熱傷を負ってしまった。
正義は、その時の熱傷によって、生死の境を彷徨うことになったのだ。
三か月にも亘る期間、集中治療室で治療を受け、年が明けて漸くベッドで起き上がれるまでに回復した時、彼が眼にしたものは荒涼たる景色だった。
彼が20年の歳月をかけて、〇〇県内に気づき上げて来た<朝田王国>が、崩壊の危機に瀕していたのだ。
まず検察が、朝田建設を介した<闇献金>ルートの解明に突然乗り出したのだ。
朝田建設は彼が起業し、県内はおろか、国内でも有数の大企業にまで押し上げた会社だった。
彼が政治活動に専念するために経営から撤退した後も、長男の正道を社長に据え、強い影響力を残している。
そんな彼の支持母体とも言うべき企業から、内部告発者が出たのが、検察が動き出した原因だった。
彼が壮健であれば、検察を押さえて、握り潰すことも可能だったのだが、熱傷の集中治療を受けている状態の彼には、そのことを知る由もなく、意識を回復した時には取り返しのつかない状況になっていた。
さらに彼が推し進めて来た<靜〇川南岸地域リゾート開発計画>が、思惑とは違う方向に進んでいたのだ。
計画では、朝田建設がすべての開発事業を独占する予定だった。
それがいつの間にか、全面的に日埜建設の手に移っていたのだ。
その背後には、彼の留守をよいことに暗躍し始めた、同じ政権与党の県選出衆院議員である
朝田正義が健在の頃、嵯峨は同じ衆院議員とは言え、県内でも中央政界でも、非常に影の薄い存在だった。
正義と選挙区が違っていたことで、何とか議員の立場を維持していたが、嵯峨の実力では彼に太刀打ちできる存在ではなかったのだ。
しかし今では、朝田の不在をよいことに、県内で着々と勢力を伸ばして、中央政界で存在感を広げるための足掛かりにしようとしているのだ。
嘗て歯牙にもかけていなかった嵯峨の勢いに脅威を感じた正義は、健康不安の残る自分は議員から引退し、息子の正道に地盤を譲って国政に参与させることで、嵯峨に対抗しようと目論んだ。
だがその目論見も、正道がつい最近アスレチックジムで変死を遂げたことで、完全に潰えてしまった。
彼の後を継ぐべき正道と正行の親子が死んだ今、最早<朝田王国>は風前の灯火とも言える状況に陥っているのだ。
――どうしてあの時、正行は突然火だるまになったんだろう?
朝田一族の没落の発端となったあの事件が、自身が撒いた因果が巡り、返ってきたという事実を知らない正義は、ただそのことに憤慨するだけだった。
その時看護師の坂田が病室の扉を開けて、検査の時間であることを告げた。
正義はまだ自立歩行が覚束ない状態であったため、病室を出て移動する時には、車いすが必要だった。
坂田が病室内に入ろうとした時、廊下を通り掛かったスーツ姿の男が、彼の背中にぶつかった。
「失礼」と言って、その男が歩き去って行くのを横目で見た坂田は、室内に置いてある車椅子を押して正義のベッドに寄せた。
そしてベッドから彼を助け起こすと、車いすに乗せて検査室へと向かう。
ところが病棟の廊下を10mほど進んだ時、突然正義が、「ギャー」という悲鳴を上げて車椅子から転げ落ちたのだ。
「朝田さん、どうしました?」
坂田は慌てて床に倒れた正義に声を掛けたが、彼はただ、その場でもがき苦しむだけだった。
坂田が正義の状態を見ると、顔も手も真っ赤に腫れ上がり、触るとその部分は、かなりの熱を持っている。
その一部始終を見ていた別の看護師が、ナースセンターに駆け込んで緊急事態を告げた。
そして連絡を受けた医師が駆けつけた時には、朝田正義は既にこと切れていたのだった。
梶木はそのことを、昼食時にネットニュースで知ったようだ。
「<朝田王国>も、これで完全にお終いだな」
冗談交じりに言う梶木に、鏡堂は真剣な表情で、「死因は何なんだい?」と尋ねる。
「うーん、感染症がどうのとか言ってたなあ」
梶木が曖昧に返事をする傍らで、「ありました」と
素早くネットニュースを検索したらしい。
鏡堂が彼女のパソコンの画面を覗き込むと、地方ニュースの記事が表示されていた。
『元衆院議員朝田正義氏死亡』という見出しの下に、正義死亡時の状況が書かれている。
記事によると、車椅子で院内を移動中に、突然倒れて間もなく死亡したらしい。
死因は<急性
「気になりますか?」
不審そうな表情を浮かべて記事を見る鏡堂に、天宮が尋ねた。
鏡堂はそれには答えずに、
「蜂窩織炎というのが、どんな病気なのか調べてくれ」
と、彼女に依頼する。
天宮が素早く手を動かして検索すると、すぐさま大量の情報がヒットした。
それによると、蜂窩織炎はブドウ球菌とレンサ球菌などの細菌が引き起こす感染症であるらしい。
鏡堂と天宮は、<細菌>という単語を眼にして顔を見合わせた。
「朝田の入院先は、〇山市立病院だったな」
そう言って鏡堂は、自席の椅子に掛けたスーツの上着を手に取った。
天宮も素早くパソコンの電源を落とすと、バッグを手に取り席を立つ。
二人の刑事は速足で刑事部を後にすると、〇山市立病院に向かった。
病院に到着した鏡堂たちは、受付で身分を名乗り、朝田正義が倒れた現場の病棟に連絡を取ってもらった。
そして病棟の責任者に許可をもらうと、急いで現場に向かう。
ナースセンターで彼らを応対してくれたのは、主任看護師の久米島という女性だった。
「朝田さんの件ということですが、何か事件の疑いがあるんですか?」
久米島は怪訝そうな表情で鏡堂に訊く。
「実は他の事件との関連でお伺いしたんです。
朝田さんの件が、直接関係あるかどうかは、話をお訊きしてみないと分からないのですが」
そう言って鏡堂が語尾を濁すと、久米島はまだ不審そうではあったが、坂田という男性看護師を呼んでくれた。
彼が、朝田が倒れた際に付き添っていたらしい。
坂田は突発的な事態にかなり動揺しているようだ。
朝田が死亡した前後の状況を訊くと、彼は何度も詰まりながら説明してくれた。
その話を聞く限り、特に事件性はないようにも思われたが、最後に彼が言った言葉に、鏡堂たちは俄然興味を惹かれる。
「
「そんなに急だったんですか?」
「そうなんですよ。
病室で車椅子にお乗せした時は、何ともなかったんですよ。
それなのに、廊下に出て10mもいかないうちに、急に苦しみ出して。
『大丈夫ですか?』って声を掛けたら、体中真っ赤に腫れあがって、酷い熱だったんです。
いくら何でも、あんな急性症状がでることはあり得ないです。
先生も驚いてました」
その説明を聞いた鏡堂は、事件である疑惑を益々濃くする。
その時ふと天井を見た鏡堂の眼が、監視カメラを捉えた。
「あの監視カメラの映像を見せていただくことは可能ですか?」
鏡堂が天井のカメラを指さしながら訊くと、坂田は「主任に訊いてみます」と言って、席を離れた。
ナースセンターの隅で仕事をしていた久米島に、坂田が話し掛けると、彼女は鏡堂たちをちらりと見た後、内線電話の受話器を取った。
そして電話を切った後、鏡堂たちのところに歩み寄ってくる。
「一応、上の許可は取れましたので、守衛室に行ってもらえますか?
監視カメラの映像記録は、そこで一元管理していて、ここでは現在の映像しか見れないんですよ」
久米島と坂田に礼を述べて、鏡堂と天宮は教えてもらった守衛室に向かった。
守衛室では既に話が通っていたらしく、すぐに彼らを迎え入れてくれる。
鏡堂は監視カメラの映像を管理する警備会社のスタッフに、朝田正義が倒れた前後の時間を告げ、その時の映像を見せてくれるよう頼んだ。
スタッフはそれに頷くと、手元の機器を操作して、幾つもある画面の一つに記録映像を映し出してくれた。
病棟の監視カメラは、死角が生じないように4機が配置されていて、全方位の映像が見れるようになっていた。
そしてそのうちの1機の映像を見て、鏡堂と天宮は思わず声を上げそうになる。
そこには公安課の
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