【07-2】犯行の手口(2)

「鏡堂さんと於兎子さんは、<腐敗>という言葉をお聞きになったことがありますよね?

食べ物が腐るという意味です」

二人が頷いたのを見て、栗栖純子は説明を続けた。


「<腐敗>という言葉は、厳密には蛋白質が分解して人体に有害な物質を生成することに対して使われていまして、炭水化物、脂肪などが分解して有害な物質が発生する作用は、これと区別して<変敗>といいます。


そして今回お問い合わせがあったのは、プロテイン飲料の変性についてですので、まさに<腐敗>という言葉が当て嵌まります。

つまり飲料中に含まれる蛋白質が、細菌によって腐敗する過程で分解されて、アンモニアなどが生じるんです」


「つまりプロテイン飲料が細菌によって腐敗すると、アンモニアが発生することがあるということですね?」

鏡堂が念を押すと、栗栖は頷く。


「食べ物が腐ると悪臭がしますよね。

あの中にはアンモニアの刺激臭も含まれるんです」

その言葉を聞いて鏡堂と天宮は、アスレチックジム内にこもっていた悪臭を思い出す。


「例えばですが、プロテイン飲料が非常に短時間の間に腐敗して、アンモニアを発生することはあるんでしょうか?」

鏡堂の質問に栗栖は首を傾げる。

「短時間というのは、どのくらいの時間なのでしょうか?」


「そうですね。

プロテイン飲料を飲んだ直後に、急に胃の中で腐敗するといった状況です」

その答えに栗栖だけでなく、四人のリケジョたちが一斉に笑いを浮かべる。

つまり、そんなことはあり得ないということなのだろうと、鏡堂は解釈した。


「相当大量の細菌が混入していて、それが一気に活性化すれば、或いは起こるかも知れませんが、そんな状況は考えられませんね」

栗栖は最後にそう締めくくった。


鏡堂は彼女に向かって、「ありがとうございます」と礼を述べ、次の質問に移る。

「今アンモニアのことをお伺いしたんですが、アンモニアもやはり、人間にとっては毒になるんでしょうか?」


「そうですね。

アンモニアは非常に刺激性の強い物質ですから、液状のものが眼に入ると失明する可能性がありますし、高濃度のガスを吸入した場合は、刺激によるショックが呼吸停止することがあります。


人体の血中アンモニア濃度が高くなると、中枢神経系に強く働き、意識障害が生じると言われています」


栗栖に代わって答える田村薫に、鏡堂が念を押す。

「間違って飲んだりしたら、大変なことになりますよね?」

「そうですね。

高濃度のアンモニアを呑み込めば、食道と胃粘膜が直ちに障害を受けると思います。

ただ、アンモニアは刺激が強いので、飲み込むこと自体が不可能なんじゃないでしょうか」


その答えに頷く二人の刑事を見て、また弓岡恵子が口を開いた。

「じゃあ最後は窒素酸化物でしたね。

窒素酸化物には色んな種類があるんですけど、どんな種類の物質か分かりますか?」


「実はよく分からないんですが、ちょっと赤味がかった色の、臭いのするものはありますか?」

「ああ、それは二酸化窒素ですね」

鏡堂の問いに弓岡が即座に答える。


「二酸化窒素というのは、大気汚染物質の代表みたいに言われてますね。

今は規制が厳しくなってますけど、車の排気ガス中に大量に含まれていて、昔は公害の原因だったみたいです」


「昔はということは、今はその二酸化窒素は、それほど発生していないんでしょか?」

「発生していないことはないんですが、以前よりは減ってるみたいですよ。

それで今回のお問い合わせは、二酸化窒素が大量に発生するかどうかですよね?」

弓岡の質問に刑事たちは頷く。


「大量というのがどの程度かに依るんですが、一番多いのはやはり車の排気ガスや、工場の排気なんですけど、それ以外となるとどうでしょうね」

弓岡がそう言って考え込むと、栗栖が横から言葉を挟んだ。

「確か化学肥料が近くにある状況でしたよね?」


それを聞いた弓岡が、合点のいった表情で頷く。

「そうか、化学肥料ね。

化学肥料を撒くと、地中の微生物の作用で、一酸化窒素という無色の気体が出来ることがあるんですよ。

その一酸化窒素が、空気中で酸化されて二酸化窒素になるんです」


「それはつまり、化学肥料に微生物が作用して、二酸化窒素が出来るということですか?」

「そうです。

化学肥料中の窒素成分が分解されて、何段階かの過程で二酸化窒素になるんです」


その答えに鏡堂は納得の表情を浮かべた。

肥料工場で発生した赤い色の靄が、肥料から発生した二酸化窒素である可能性が確認出来たからだ。


「それでその二酸化窒素なんですが。

公害の原因になるくらいですから、人間にとっては毒なんですよね?」

鏡堂のその質問には、また田村薫が対応する。

三人の間の連携は、事前に打ち合わせていたのか、非常にスムーズだ。


「そうですね。

二酸化窒素は主に呼吸器系への毒性が強いといわれています。

低濃度でも長期間吸入すると、喘息症状が現れるんですね。

それが公害の原因と言われている理由ですね」


「他には影響はないんですか?」

「そうですね。

低温の水と反応して、硝酸や亜硝酸を生成することがあります。

高濃度の二酸化窒素が皮膚に付着すると、炎症を起こす可能性はありますね」


その言葉を聞いた鏡堂は、捜査会議で報告のあった黒部の遺体の状況を思い出した。

死因は呼吸困難による窒息死で、顔や手の露出した皮膚に炎症が起こっていたのだ。


その時、それまで黙って鏡堂たちのやり取りを聞いていた緑川蘭花みどりかわらんかが口を開く。

「さて、以上で質問への回答は終わったかな?

まだ訊くことある?」


すると天宮がおずおずと切り出した。

「今回の質問とは別なんですけど、以前お伺いした、ヒ素についてお訊きしたいんですが、よろしいですか?」

四人がそれに頷くのを見て、天宮は手帳の中身を確認しながら質問を続けた。


「以前、ヒ素を採り込むことが出来る微生物がいるとお伺いしたんですが。

確か蘭花先生が、『高ヒ素環境でバクテリアを培養して、ヒ素をたっぷり採り込ませてから、それを被害者にぶっかけたらどうか』と仰っていたと…」


最後は口籠った天宮の言葉に、蘭花を除く三人が爆笑する。

「ああ、あの話?於兎子さん、真に受けちゃ駄目だって」

弓岡が言うと、田村もそれに続く。


「確か殺人事件の話でしたよね?

可能性ゼロではないけど、そもそもどうやってそのバクテリアを相手にぶっかけるかが、問題ですよ。

推理小説でも、それは突飛すぎるトリックです」


二人の言葉を聞きながら、栗栖純子は俯いて笑っているし、緑川蘭花はバツの悪そうな苦笑いを浮かべていた。

しかし天宮は、敢えて念を押してみる。

「実際に、ヒ素を蓄えられるバクテリアがいるんですね?」


それには栗栖が答えた。

「はい、微生物のなかには一般的な酸素ではなく、ヒ素の酸化還元反応を利用して光合成を行っているものも存在します。

それは事実です」


その答えに天宮は、「ありがとうございます」と礼を述べて手帳を閉じた。

そしてそれを機に、三人のリケジョが動き出した。


「質問が終わりということであれば、これから写真を撮らせてもらいます」

口火を切ったのは弓岡恵子だった。

すると三人は、そそくさと席を立って鏡堂と天宮の周囲に移動する。


三人に取り囲まれた状態で、二人が面食らっていると、正面の蘭花が携帯電話を取り出し、鏡堂が止める間もなく、パチパチとシャッターを切り始めたではないか。

そして三人は蘭花の元に移動し、写真の写り具合を確認し始めた。


「蘭花先生、この写真、後でラインで送ってくださいね」

そんなことを言っている弓岡の言葉を聞きながら、鏡堂は呆然としていた。


彼は写真を撮られるのが、極端に苦手だったのだ。

その様子を見ながら、天宮於兎子は俯いて必死で笑いを堪えるのだった。

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