【07-1】犯行の手口(1)

その日鏡堂達哉きょうどうたつや天宮於兎子てんきゅうおとこが運転する車で〇〇大学のキャンパスへと向かっていた。

目的は〇〇大学講師で10年以上前に離婚した元妻の、緑川蘭花みどりかわらんかと面会するためだった。


天宮に蘭花のアポを取ってくれと頼んだ時、

「連絡先を知らないんですか?」

と呆れられたことを思い出す。

別れた妻の連絡先など、普通知らないだろうと、彼は憤慨したのだ。


鏡堂も天宮も〇〇大学を卒業していたのだが、二人とも文系学部だったので、理系のキャンパスはあまり馴染みがなかった。

その割に天宮が迷うことなく目的地に歩いて行くのを不審に思いながら、鏡堂は彼女の後に従って歩いて行く。

そして研究棟に入る頃には、すっかり足取りが重くなっていた。


<流体力学講座>と書かれた研究室に入り、<講師室>と書かれた扉の前まで来ると、天宮が躊躇なくドアをノックしようとするので、鏡堂は慌ててその手を止めた。

天宮が「どうしたんですか?」と、不審な目を向けるのを無視して、彼は気持ちを落ち着かせる。


――何で俺はこんなに緊張してるんだろう?

鏡堂はそう思うと、自分の緊張振りが急に馬鹿馬鹿しくなり、天宮に頷いた。


天宮が改めてノックすると、室内から「どうぞ」という声がする。

そして扉を開けた天宮を先頭に、二人は室内に入っていった。

正面には白衣を着た、笑顔の緑川蘭花みどりかわらんかが立っていた。


「あらあ、於兎子ちゃん。

久しぶりね。

あの女子会依頼かしら。

あの後大丈夫だった?」

蘭花のテンションは相変わらず高い。


「私はあまり飲んでいなかったので大丈夫でしたけど、蘭花先生は大丈夫でしたか?」

「当然。あれしきの量でどうにかなる蘭花先生じゃないわよ」


「お前また、テキーラをがぶ飲みしたのか?

そのうち体を壊すぞ」

二人の会話を聞いて鏡堂が思わず口走ると、蘭花が意地悪そうな笑みを彼に向ける。


「あら、達哉ってば、別れた妻の心配してくれるの?

もしかして、まだ私に未練があったりして」

「ば、馬鹿なこと言うな!

天宮の前だぞ」

鏡堂は慌てて否定したが、完全に蘭花のペースだった。


鏡堂を揶揄からかって満足したのか、蘭花は真顔に戻って言った。

「今日は複雑な相談だったわね。

残念ながら私は専門じゃないから、専門家を集めておいたわ。

じゃあ行きましょ」


蘭花は一方的にそう宣言すると、呆気にとられる二人を促して、<講師室>を後にした。

向かった先は学部本棟にある会議室だった。


鏡堂たちが会議室に入ると、既に専門家らしい三人が室内で待機している。

鏡堂は白衣姿のその三人が自分に向けてくる、あからさまに興味深々な視線に、驚いてしまった。


「於兎子さん。お久し振り」

三人のうちの一人が親し気に天宮に声を掛けると、後の二人も彼女に笑顔を向けた。

――天宮の奴、いつの間にこの連中と親しくなったんだろう?

その様子を、鏡堂は不審げに見ていた。


「はいはい、座って。

お互い忙しい身だから、早速始めましょう。

おっとその前に、自己紹介ね。

於兎子ちゃんとは顔見知りだから、鏡堂刑事に自己紹介して」


蘭花の仕切りに頷くと、三人は右から順に自己紹介を始める。

最初は入室時に天宮に声を掛けた女性からだ。


弓岡恵子ゆみおかけいこです。

工学部の地質構造学講座で助教やってます」


栗栖純子くるすじゅんこと申します。

薬学部の微生物講座で助教をしております」


田村薫たむらかおるです。

同じく薬学部の薬物作用学講座で、助教をしてます。

よろしくお願いしますね、鏡堂先輩」


「せ、先輩?」

「あら、於兎子さんから聞いてないんですか?

私たち全員、茶道部なんですよ」


弓岡の答えに、鏡堂は思わず天宮を見た。

彼女は俯いて肩を震わせ、笑いを噛み殺している。

鏡堂が呆然としているのを、前に並んだ四人の科学者たちは、さも嬉し気に眺めていた。


「さあさあ、自己紹介も済んだから、本題に入りましょうか?

確か硫化水素にアンモニア、それから窒素酸化物だったわね。

三人には事前に情報提供しておいたから、考えを言ってくれる?」


蘭花のその言葉に、鏡堂が反応しかけたが、彼女はそれを手で制した。

「心配しなくても、一般論としての情報しか渡してないわ。

三人も、捜査機密に関することだから、深く突っ込まないでね」


そう言って鏡堂と三人を交互に見た蘭花に、弓岡たちは頷いた。

鏡堂もそれ以上は何も言えない。

すると弓岡恵子が最初に口を開く。


「スルファン、硫化水素は、市街地の地質から発生することはないですね。

発生源は主に火山地帯や温泉ですが、下水処理場、ごみ処理場などで発生することも、稀にですがあります」


「ごみ処理場ですか?」

鏡堂が思わず訊き返すと、弓岡が頷いた。

「硫黄が嫌気性細菌で還元されるんですけど、滅多にないですよ。

その辺りは、純子さんの方が詳しいです」


弓岡が隣の栗栖純子に水を向けると、彼女は鏡堂たちに笑顔を向ける。

その小柄で楚々とした女性が、先日の女子会で三人前の料理を平らげた上に、〆のうどんとおにぎりを追加した人と同一人物とは、今もって天宮には信じられなかった。


――そう言えばあの日、女子会の前にラーメン炒飯セットと、餃子を二人前食べて来たと言ってたわね。

その栗栖が、弓岡の話を引き取って説明し始めた。


「今、恵子ちゃんが言っていたのは、通常のゴミ処理場の場合ですが、建築廃棄物の処理場ですと、古い石膏ボードが地下水中の硫酸塩還元細菌に代謝されて、硫化水素を発生し、環境問題になることがあります」

「石膏ボードですか」

栗栖の言葉に、二人の刑事が一斉に食いついた。


それに頷いて、栗栖は説明を続ける。

「今回お問い合わせ頂いたのは、確か建築用の石膏ボードが置かれていた、工事現場の資材置き場でしたね?」

栗栖の問いに鏡堂と天宮は頷いた。


「硫酸塩還元細菌の多くは偏性嫌気性菌ですが、一部は好気呼吸を行いますので、そのような細菌であれば、大気に晒された環境下でも、石膏を代謝することでスルファンを発生すると考えられます」


「つまりその細菌が石膏ボードから、硫化水素を発生させる可能性があると言うことですね?

硫化水素というのは、人間にとっては毒だという認識を持っているんですが、それは合っていますか?」


「それについては私が答えますね」

そう言って説明し始めたのは、田村薫だった。

緑川蘭花みどりかわらんかが専門家を集めたと言っていたのは、間違いないようだ。


「毒性の発生機序については専門的過ぎるので省きますが、高濃度のスルファンを吸い込んだ場合、数呼吸で肺の酸素分圧が低下して呼吸麻痺を起こし、呼吸中枢が活動停止して、人間は昏倒してしまうと言われています」


「大体どれくらいの量を吸い込んだら、人間は死んでしまうんでしょうか?」

「そうですね。

400 ppmを超えると生命に危険が生じ、700 ppmを超えると即死すると言われています」

「それはかなりの量なんでしょうか?」


「どの程度というのは表現しにくいんですけど、大量であることは間違いありませんし、通常はそんな大量に発生することはないですね。


ただ下水道の工事現場や、温泉地で死亡事故が起こっていますので、絶対ないとは言い切れないんですが」


その答えに鏡堂と天宮は大きく頷いた。

少なくとも周囲に石膏ボードが大量にある環境では、致死量の硫化水素が発生する可能性があることが確認されたからだ。


「次はアンモニアでしたね?」

そう言って栗栖純子くるすじゅんこが田村薫の話を引き取った。

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