【03】アンモニア
フォーゲートスタジアム内のアスレチックジムに到着した県警捜査一課の面々は、ジムに足を踏み入れた瞬間に、誰もが顔を顰めることになった。
ジム内に強烈な異臭が立ち込めていたからだ。
その臭いは、先日の
毒ガスという可能性もあったが、ジム内から逃げ出した利用客とスタッフに健康被害がなかったことを考慮して、捜査員数名が中に入り、ジムの窓を全開にすることになった。
そして中の空気が入れ替えられるまでの間、刑事たちはスタジアムの管理事務所内に足止めされていた利用客とスタッフへの、事情聴取を行うことになった。
鏡堂と天宮は、昨年末にこのジムで起こった爆弾事件の際に顔見知りになった、ジムトレーナーの
「大橋さんでしたね。
私たちを憶えていらっしゃいますか?」
鏡堂が声を掛けると、大橋は最初きょとんとした表情を顔に浮かべたが、直ぐに二人を思い出したようだ。
「あ、あの時の刑事さん」
「県警の鏡堂と天宮です。
大変でしたね。
お身体の具合は大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。
ちょっとびっくりしましたけど、体の方は何ともありません」
そう言って大橋は、少し引き攣った笑みを浮かべる。
その表情を見て鏡堂は、それも仕方ないと思った。
普通に生きていれば、そうそう出くわすことのないような事件に、半年余りの間に、二度も巻き込まれたのだから。
「それでは、事故が発生した当時の状況をお訊きしたいんですが、よろしいですか?」
鏡堂は敢えて<事故>という言葉を使った。
<事件>と表現すると相手に無用な緊張感を与えてしまう可能性があり、さらに先入観を持たせてしまう可能性があるからだ。
そして無言で肯いた大橋に向かって、鏡堂は事情聴取を開始した。
「通報では、ジム内に人が倒れているということですが、人数は分かりますか?」
「一人だと思います。
いえ、一人です。
間違いありません」
「分かりました。
その方は会員の方ですよね。
お名前は分かりますか?」
「はい、朝田建設の社長さんです。
確か正道さん」
彼女の答えを聞いた鏡堂と天宮の間に、緊張が走った。
――また朝田一族か。
これまでの事件の中に、必ずと言っていい程現れる<朝田>の名前に、鏡堂は言い知れぬ不快感を覚えずにはいられなかった。
しかし鏡堂はその思いを振り払い、大橋への聴き取りを続ける。
「それでは大橋さん。
憶えていらっしゃる範囲で構いませんので、事故が起こった時の状況について教えて頂けますか?」
その質問に対して、大橋は当時の状況を思い出しながら、言葉を選ぶようにして説明し始めた。
「朝田さんは、多分事故の一時間くらい前に来場されて、ずっと色んな器具を回ってトレーニングをされていました。
私が見た時は、丁度バイクを終えられたところだったと思います。
喉が渇いたのか水分補給をされようとして、手持ちのドリンクを飲もうとされたんですけど、多分中身が空だったんでしょうね。
直ぐにバイクのドリンクホルダーに戻されました。
その後、試供品のプロテインドリンクを手に取られて。
蓋を開けて飲んだ途端に、苦しみ出したんです。
そしてそのまま、バイクから床に落ちてしまって」
「すみません。
そのプロテインを飲んだ直後に、朝田さんは苦しみ出したんですね?」
鏡堂はそう言って大橋を遮った。
「はい、そうです」
「そのドリンクというのは、先程試供品と仰いましたが、どこからの試供品だったのでしょうか?」
「市内の〇〇食品さんから、時々提供されるんですよ。
今日も営業の方が朝から持って来て下さって」
「それは以前からも提供されているものなのでしょうか?」
「はい、今年に入ってから、月に一回くらいのペースで置いていかれます。
今日もフロント前に置いて、来場者が自由に取っていいことになってました。
朝田さんが持っていかれたかどうかまでは、ちょっと憶えてませんけど」
「その営業の方の名刺とかはありますか?」
「ジムの受付にあると思います。
取って来ましょうか?」
「いえ、今は現場検証中なので、後でお願いします。
それで、朝田さんが倒れた後はどうなったんでしょうか?」
「私びっくりして、一瞬フリーズしちゃったんです。
でも異常に気づいた他のお客さんが何人か、朝田さんの様子を見に行こうとされて。
そしたらそのお客さんたちが、途中でフロントの方に逃げて来られたんです。
私、それを見てどうしたんだろうと思っていたら、凄い臭いがしてきたんですよ。
だから取り敢えず入り口のドアを開けて、お客さんたちに外に出てもらって、私も最後に出たんです。
ですから、中の朝田さんの様子は分からないんです。
朝田さん、大丈夫でしょうか?」
最後にそう言って、大橋薫は涙目になった。
――責任感の強い人だな。
大橋の説明を聞いて、鏡堂は彼女の人柄に好意を持った。
「朝田さんの状況は、今上で捜査員が確認しています。
救急隊も到着していますから、あまり気に病まずにいて下さい。
それからジムは、申し訳ないですが、しばらく閉鎖させて頂きます。
それを運営会社の方にお伝え願えますか?」
鏡堂の言葉に大橋は、不安そうな表情で肯いた。
それを見た鏡堂は、大橋に礼を言った後、天宮を促すと、事件現場に向かった。
現場のジム内では、既に現場検証が行われていた。
中に立ち込めていた刺激臭は、窓を全開にしたおかげで、気にならないレベルまで薄れている。
朝田正道らしい人物は、まだ床に横たわったままだった。
恐らく朝田は既に死亡しているのだろうと思い、鏡堂は遺体周辺で検案に当たっている、鑑識課員の
鏡堂たちに気づいた小林は、その場で立ち上がると、首を横に振る。
それは、倒れている人物が既に死亡しているという意味だろうと察して、鏡堂も無言で肯いた。
「目撃者から情報取れたかい?」
手に遺留品の入った袋をぶら下げた小林は、近づいて来た鏡堂に尋ねる。
それに対して鏡堂は、今し方大橋薫から聴取した内容を、掻い摘んで説明した。
それを聞いて小林は、納得したように頷くと、手に持った袋を顔の高さまで持ち上げた。
「これがそのプロテインドリンクだね」
鏡堂たちが見ると、透明の袋に白いボトルが入っている。
「その中に、毒物が入っていたということかな?」
「毒物なあ。毒物には違いないんだが…」
小林から返ってきた答えが、妙に歯切れが悪いので、鏡堂は不審な表情を浮かべた。
その顔を見た小林は、仕方がないなという表情を作って、ぼそぼそと状況を説明し始めた。
「毒物以前に、これの中身は完全に腐っているようなんだよ。
さっきの酷い臭いの元は、プロテインの発酵で生じた、アンモニアだと思われるんだ」
「アンモニア?」
その答えに、鏡堂と天宮は同時に声を上げた。
「そうなんだよ。
ただその量が半端じゃないというか、異常なんだ。
それがこのボトルの中に溜まっていて、一気に噴き出したんじゃないかと推測される。
しかしだな」
そこまで言って小林は、困惑した表情を浮かべた。
「そもそもそんな大量のアンモニアが発生する程、腐敗が進行するためには、かなりの時間を要すると思うんだ。
それにボトル自体が、中のアンモニアの圧力に耐えきれずに破裂する筈なんだよ。
でもさっきの目撃証言だと、これってガイシャがここに来た時に手にした、試供品なんだろう?
そんな短時間に、ここまで腐敗が進行することは、あり得ないんだよな」
その説明を聞いた鏡堂は、疑問を口にする。
「そのボトルだけ、ガイシャが持ち込んだ可能性はないのかい?
そしてそのボトルの中身が腐ってたと考えれば、辻褄が合うんじゃないかな」
しかし小林は、その疑問にも首を横に振って答えた。
「このジム内にある、全部のボトルを調べたんだ。
開封済みのものも未開封のものもね。
すると製造年月日とロット番号が、見事に揃ってたんだよ。
つまりここにあったボトルは、さっきあんたが言ってたように、全部試供品として持ち込まれた物なんだよ」
「その試供品の中の一本だけが、偶然腐ってたということは、考えられないかな?」
鏡堂は尚も食い下がったが、小林はその考えにも否定的だった。
「絶対ないとは言えないけど、同じ製造工程で作られた物だったら、可能性は低いんじゃないかな。
仮にバクテリアが混入したとすると、このボトルだけ汚染されるというのは、ちょっと考えにくいだろうね。
それにこのボトルだけど、どれも製造年月日が新しいんだよ。
だから作られてから短期間で、ここまで腐敗するとは考えにくいんだよね」
その答えに鏡堂は考え込んでしまった。
そして彼に代わって、今度は天宮が疑問を口にする。
「目撃者の証言では、ガイシャはそのプロテインドリンクを一口飲んでから倒れたそうなんですよ。
でも、そんな悪臭がするものなら、蓋を開けた瞬間に気づくと思うんです。
それを飲んだりするでしょうか?」
「確かにそうだなあ。
飲み込んだのは確かだろう。
吐瀉物からもアンモニア臭がするし。
するとボトルの蓋を開けるまでは腐ってなくて、開けた途端に急激に腐敗が進行したということか。
そんなこと、あり得るかなあ」
最後はそう言って、小林は考え込んでしまった。
その時班長の
そして集まった捜査員たちに、初動捜査の役割分担が伝えられる。
鏡堂たちはその分担に従って、各人の捜査に散っていったのだった。
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