【02】第二の事件

リゾート開発現場で発見された、〇山市会議員高島咲恵たかしまさきえの死因は、やはり急性の硫化水素中毒であった。

第一発見者である寺田の証言から、彼女は開発予定地の視察を終えて、自分の車に戻ったところで、大量の硫化水素を吸引したと考えられる。


捜査会議において報告されたその死因を聞いて、捜査員たちの脳裏を過ったのは、一か月ほど前に発生した、建築デザイナー渡会恒わたらいひさしの事件だった。

彼の死因も今回の被害者とまったく同様の、急性硫化水素中毒だったからだ。


硫化水素による自死ということが考えられなくもなかったが、高島の場合は現場にそれらしい遺留物が残されておらず、渡会は死後に第三者によって遺体が運ばれて遺棄された形跡があることから、捜査本部では殺人事件を視野に捜査を進める方針が決定された。


しかし、いざ殺人事件としてみた場合、どのようにして大量の硫化水素を、短時間のうちに発生させたのか、その方法の検討がつかない。

その点について訊かれた鑑識課の小林誠司こばやしせいじは、頭を掻きながら困惑した表情を浮かべた。


「硫化水素の発生源は状況から見て、現場に山積みされていた、石膏ボードの可能性が高いと思います。

ただ、石膏を溶かして硫化水素を発生させるような化学物質が、現状ではまったく見当がつかないんですよ。

鑑識総動員で調べた結果でも、そういう化学物質の存在は確認されていません」


その報告を聞いた捜査員一同も首を傾げる。

その時鏡堂達哉きょうどうたつやが挙手して発言した。

「硫化水素の発生方法は不明ということですが、今回の事件と同じ方法が、渡会恒の殺害にも用いられたということはないでしょうか」

「どうしてそう思うんだ?」

捜査一課長を兼任している高階邦正たかしなくにまさ刑事部長が、彼の意図を質した。


「自殺に硫化水素を使う場合、その場で薬品を混ぜる必要があるようです。

仮にその様な方法を殺人に使おうとしたら、犯人もその場にいて、ガイシャと一緒に硫化水素を吸ってしまうことになります。


もちろん防毒マスクみたいなものを着けて、犯行に及ぶということも考えられますが、それよりも僅か一か月間の間に、硫化水素なんて聞き慣れないものを犯行に使っていることから、同じ方法を採った可能性はあるんじゃないかと思います」


結果鏡堂のその意見は採用され、県内の建設会社に石膏ボードが破損される事故の有無について問い合わせが行われたのだった。

そして結果はすぐに表れた。


今回の現場ではないが、リゾート開発予定地の別の現場において、一か月前によく似た石膏ボードの破損事故が起こっていたのだ。

そして捜査員が派遣されて訊き込みを行った結果、いくつかの事実が明らかになった。


一つは、その現場の石膏ボード破損は一日の作業が終わって、作業員が全員帰宅した後に発生したことだった。

翌朝出勤した作業員が発見して騒ぎになったそうだが、破損したボードは前日現場に搬入された新品だったので、一晩で腐食したような状態になることは考えられないと、事情を訊かれた現場監督は首を捻っていたらしい。


そして今回の高島咲恵たかしまさきえ殺害現場で撮影された、破損したボードの写真を見せたところ、非常によく似ているとの証言が取れていた。

さらにその破損したボードから、微かに異臭がしたことを、複数の作業員が言っていたということも確認された。


そのことによって、渡会恒わたらいひさしの殺人現場であると、断定することは出来なかったが、少なくも現場である可能性が浮上し、鑑識による現場検証が行われることになった。

事件から既に一か月が経過していることもあり、検証結果は果々しいものではなかったのだが、それでも幾つかの遺留品が採取され、詳細な鑑定に回されることになったのだ。


***

〇山市内の外れにある<フォーゲートスタジアム>内のアスレチックジムは、平日の昼過ぎということもあり、閑散としていた。

広いジム内では、数人の利用者が、思い思いの場所でトレーニングを行っている。


――ここのジム、大丈夫かな?潰れたりしないかな?

ジムのトレーナー兼事務員である大橋薫おおはしかおるは、フロントのカウンターに座って、所在なさげにジム内を見渡している。


彼女の心配も尤もで、このアスレチックジムもそうだが、スタジアム自体、閑古鳥が鳴いている状況なのだ。

予定していたプロサッカーチームの誘致も頓挫してしまっていて、近代設備を備えたスタジアムの利用は、不定期のイベントに限られていたのだ。


――大体、立地が悪すぎるのよね。

結局彼女の考えは、いつもそこに行きつくのだが、だからと言って今更それを変えることも出来ないし、そもそも大橋がとやかく言うことでもなかった。

彼女はジムの一従業員に過ぎないからだ。


しかしこのジムがもし閉鎖された場合のことを考えると、大橋は憂鬱にならざるを得なかった。

県内のジムのトレーナー需要がそれ程多い訳ではなく、転職するのは相当大変だと思われるからだ。


そんな憂鬱を抱えながら、ぼんやりとジム内を見ている彼女の視線の先には、一人の中年男性がいた。

――あの人確か、建設会社の社長さんだったよね。平日の昼間から、トレーニングなんかしてていいのかしら?


彼女がそう思って眺めている男性は、県内の大手ゼネコンである朝田建設社長の朝田正道あさだまさみちで、同時に県会議員の地位にある。

朝田は一時間ほど前にジムに来場して、汗だくになりながらトレーニングに取り組んでいる。

そしてその直後に、彼に災厄が降りかかることを、大橋薫が予測出来る筈もなかった。


朝田正道は日頃の鬱憤を器具にぶつけるようにして、筋力トレーニングを行っていた。

昨年父親の朝田正義と、長男で会社の専務を務めていた正行が不慮の事故で全身に火傷を負って以来、彼の周辺では意に沿わない出来事が次々と起こっていたからだ。


まず父親で衆院議員である正義が、長期間ICUでの治療を余儀なくされたことで、彼が握っていた県内の権力基盤が大きく揺らぎ始めたのだ。

正義が権力を握っている間、媚び諂っていた連中が、見る見るうちに離れていったのだ。

特に同じ県選出の衆院議員である、嵯峨利満さがとしみつの態度が露骨で酷かった。


事故が起きるまでは、正義に対してまるで頭の上がらなかった男が、父の政界復帰が困難であることを見越した途端、手の平を反すように態度を一変させた。

今では、まるで自分が県内の政治権力を、一手に握ったかのように振る舞っているのだ。

中央政界でも、正義の党内派閥を乗っ取ろうと画策しているらしい。


さらに父の肝煎りで進めていたリゾート開発計画にも入り込んできて、利権を漁ろうとしている。

自分が経営する朝田建設が全面的に受注する筈だった工事を、悉く日埜建設に奪われたのも嵯峨の画策した結果だった。


――このままでは済まさんぞ。

正道はその場にいない嵯峨に対して、激しい憎悪を向けた。

父の政界引退に伴って、彼が後を継いで補欠選挙に立候補する予定なのだ。

衆院に当選した暁には、必ず嵯峨を蹴落としてやると、彼は固く決意していた。


かれこれ一時間近くもトレーニングを続けていたので、流石に朝田正道は喉の渇きを覚えた。

そして持ってきたスポーツドリンクを飲もうと手を伸ばして、既に空になっていることに気づく。


腹立たし気に、空のペットボトルをドリンクホルダーに置いた正道は、ジムの入口で手に取った試供品のプロテイン飲料の口を開いた。

そして中身を勢いよく飲み干した途端に、激痛が胃から込み上げてくるのを感じた。

同時に彼が手にしたボトルから、凄まじい刺激臭が立ち昇ったのだ。


正道はその場に倒れ伏して、激しく嘔吐する。

しかし急激に呼吸が困難になり、彼は間もなく絶息してしまった。


その一部始終を、トレーナーの大橋薫はカウンター越しに見ていた。

ジム内にいた何人かの客が、異変に気付いて慌てて朝田に駆け寄ろうとしたが、その全員が途中で足を止め、こちらに向かって逃げてくる。


一瞬何が起こったのか分からなかったのだが、やがてその理由が彼女にも理解できた。

凄まじい刺激臭が、客たちを追い越して、こちらに迫ってきたのだ。


大橋は大急ぎで入口のドアを全開にして、逃げて来た客を外に逃がすと、自分も耐え切れずに飛び出しドアを閉める。

外の空気を吸って漸く一息ついた彼女は、一緒に脱出した客の誰とはなしに問い掛けた。

「一体何が起こったんですか?」


すると一人の男性客が、息を切らせながら彼女に答えた。

「何が起こったのか私には分からん。

しかし急いで救急車を呼んだ方がいい」


その声に弾かれるように、大橋はスタジアムの管理事務所に向かって駆け出した。

――去年の爆弾騒ぎと言い、一体何なのよ?

走りながら彼女は、泣きそうな気分になっていた。

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