第35話 ぼくの好きな人。①


 B棟の階段を駆け下り、光と会っていた場所から一番遠いトイレに駆け込み個室に鍵をガチャリとかける。


 色々な物が込み上げてきて吐きそうになりながら、咲太郎は必死に口を押さえた。


(――泣くな。泣くな!)


「ふ……ぅっ……ぅ」



 お前が泣ける立場か。



 さっきの、光の顔が目に焼き付いている。


 咲太郎の放った言葉に、間違いなく傷ついてショックを受けていた。

 いつも明るい光の顔が、あんなに絶望に歪むのを初めて見た。


 そして、光にそんな顔をさせたのは紛れもなく自分だ。


 あんなに、あんなに光は咲太郎に勇気をくれて、一人傷ついていた咲太郎に寄り添ってくれた。


 華やかな世界で生きる彼が、自分なんかに笑いかけて、好きだなんて。


 なのにその気持を全部踏みつけて壊した。

 彼が、一番傷つく言葉を選んだ。


 もう二度と、咲太郎を好きだなんて思わないように。


 あの、大切な場所で、光を傷つける事に躊躇した。咲太郎と気持ちが通じていると信じて疑わない光を裏切るのが怖くて足が竦んだ。


 でも、嘘をつけるのは今しかない。

 ここでやらなきゃ、もう二度とできる気がしなかった。


 彼の気持ちが死ぬほど嬉しくて、けれど自分のせいで彼の夢や仕事に影がさすのはごめんだった。

 光には、いつも笑っていて欲しい。


 きっと、今彼を苦しめているのは自分だけれど。


「ごめん……ごめんな」


 許してくれなくていい。いっそ嫌いになって欲しい。


 それで、彼の未来が守られるのなら。


 自分で招いた胸の痛みが、ジクジクと傷んで咲太郎を苦しめる。咲太郎は、早く光もこの痛みが無くなりますようにと嗚咽を堪えながら祈った。



 その後、二人は教室に戻ったけれど、咲太郎は教科書しか見ていなかったし、光はずっと机に突っ伏していた。

 六限が始まる前には光は仕事で早退し、二人が言葉を交わす事もない。流石に心配した紺野が六限の終わり、教室から出ようとする咲太郎の肩を掴んだ。


「おい……!」


 何があったんだと尋ねる紺野に、咲太郎は一瞬口を開きかけたけれど、ぐっと奥歯を噛んで堪えた。


「……俺が、光を傷つけるようなこと言っただけ。ごめん。紺野も、もう俺に構わなくていいから」


 それだけ言って咲太郎は教室を出ていった。



*****     *****



「……」


 今日の仕事は散々だった。


 メイクさんには顔色の悪さを心配されるし、仕事中も普段ならありえないようなミスを連発した。


 私生活の感情を、今まで仕事に持ち込んだ事はなかったのに、気持ちの整理がつかずひとつも集中出来ない。


 幸い、今日の光のシーンは数シーンだけだったのでなんとかなった。


 タクシーを待ちながら、九時には自宅に帰れそうだなとスマホの時計を眺める。

 明日はまた県外でのロケが入っていて今週いっぱいは学校には行けない。そのことにちょっとホッとしつつも、このままではいけないとも思う。


 ……けれど、咲太郎のあの様子からすると、彼の近くに自分がいる事は、もう彼にとっては苦行でしかないのではと思えた。


「……帰りたく、ないな」


 誰とも会いたくないのに、今は誰もいない自宅に帰るのが嫌だった。


 光は迎えに来たタクシーに自宅ではない行き先を告げた。




 タクシーから降りた時には雨が降り出していて、光の頭や肩を濡らしたけれど目的地までは近いからまあいいかと傘もささずに歩く。

 思いの外雨脚は強くて、あっという間に濡れてしまったけれどどうでもよかった。

 肩で押すように店のドアを開ける。


「いらっしゃ――光くん?!」


 ちょっと! 濡れてるじゃない! とオミが慌ててカウンターの中から出てくる。

「トーヤ! バスタオル持ってきて!」と厨房にいる藤哉に怒鳴って、オミはとりあえず店の布巾で光を拭いた。


「なにやってんの?! 風邪ひくでしょ!」


 藤哉が投げてよこしたタオルで頭から包まれる。力なく「ごめん……」と答えた光に、オミは「ちょっとここに座ってな」と着ていたコートや濡れたカバンを光から脱がせていった。


 バタバタと忙しなく行き来して、オミがカーディガンを持ってくる。


「これ、トーヤのしかなかったからちょっとデカいけど、着て」


 ちゃんと袖通して、と親の様に世話をする。どうしちゃったの、と頭に手を置かれて光は泣きたくなった。


「ごめん……営業中に……」


 今日は水曜日じゃないから通常営業日だ。オミにも他のお客さんにも迷惑がかかってしまう。けれど泣き言を言える場所はここしか思いつかなかった。


「……大丈夫だよ。さっきClosedの札下げてきたから、お客さんも今日は――」

「あたし帰ろうか?」


 突然聞こえた凛とした聞き覚えのある声に驚いて顔を上げる。店には光の他に客はいなかったけれど、カウンターに一人、光にとって忘れられない人が座っていた。


「亜希子さん――」


 呟いた光に、彼女は今も見惚れる綺麗な顔で「久しぶり、光」と口の端をあげた。



【つづく】



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