第3章 月夜の風
皐月の雲
第52話
「本当に、突然おじゃましてすいません」
野々村が出されたコーヒーのカップをテーブルに置いてすまなそうに言った。
「いえいえ、僕たちはちょうど家にいましたので大丈夫ですよ」
アサトはリビングで遊んでいる月子と杏に目をやりながら答える。
「・・・実は、別れた妻が突然日本に帰国しましてね。杏を引き取りたいと言いだして・・・」
月子が少しおどろいて、野々村を見つめている。
「こんな話、関係ないお二人にするのは申し訳ないんですが、
僕は日本にあまり友人もいないもので、どうしたら良いものかと・・・」
「・・・」
アサトは黙って野々村の話を黙って聞いている。
「今年中には杏を連れて日本を離れるつもりでいましたし。
あ、月子さんには黙っていて申し訳ありませんでした。
ご主人には少しご相談させていただいてたんですが・・・」
「そうだったんですか」
月子もテーブルについて話の続きを聞く。
「で、野々村さんは、今は奥さん、いや、彼女の事はどう思っているんですか?」
アサトが静かに口をひらいた。
「彼女のことですか、、、もう今では他人ですし、杏の母親かもしれませんが、今さらそんなこと言われたって。
嫌いで別れたわけじゃありませんでしたけど、
母になることより、自分のダンサーとしての人生を選んだのは彼女です。あまりに自分勝手で、少し腹がたっていますよ。杏は渡せません」
野々村はやり場のない怒りをかみしめるように深呼吸した。
「野々村さんの気持ちはわかりますけど、もう少し、彼女とちゃんと話をしたほうがいいんじゃないですか?」
アサトがつづける。
「ええ、そうなんですけどね。なんか感情的になっちゃって、僕たちはすぐ口論になってしまって、駄目なんです。
彼女は1月に帰国したんですが、電話でもいつも喧嘩になってしまって、まだ直接会うのをためらっているんです」
「・・・うん。どうですか?今からここに奥さんを呼んだら、彼女は来ますかね?」
アサトが野々村にそう言った。
「ええっ!?今から、ここに?ですか?」
「ええ。直接会わないと話にならないんじゃないかな?
会えば喧嘩してしまうんなら、ここへ呼べばいいじゃないですか?
・・・僕ら夫婦が今野々村さんにできることは、この場を提供することぐらいですよ。
僕らがあなたの相談にのっても何の解決にもならない。
ですよね?」
柔らかな口調ではあるが、厳しい視線を野々村にむけている。
(ううう、アサトったら。すごいドライな意見。
だけど、的を得ているんだよな・・・さすが)
月子は二人を黙って見ていた。
1時間ほどして、彼女がやってきた。
化粧もしておらず、慌てて出てきたのがうかがえる。
杏は奥の部屋で昼寝をしていたので、彼女はこの家に杏がいるとは思っていないようだった。
ひとしきり僕たち夫婦に頭をさげると、野々村の目は見ずにダイニングテーブルに座った。
とりあえず、二人で話したほうがいいというのを断り、同席することになった。
(しかたない・・・乗りかかった船だ)
月子もどういう顔をして良いのかわからない風で、
お茶の用意をしたり、そわそわしていたが、観念したのか、テーブルついた。
「・・・杏を、育てたいの。お願い」
元妻の杏子(きょうこ)は、静かにそう言った。
「・・・君はいつだってそうだ、何もかも突然なんだよ。
別れるとき、子供に興味がない、ダンスをつづけたい。子供には似度と会うつもりはないって、言ったのは君だぞ」
「ええ。あの時はそうだった。でも、変わったのよ私」
「なにが・・・変わったんだよ。バレエはどうしたんだ。
それに、君の彼氏とはどうなったんだ。
都合が良すぎるんじゃないのか!」
野々村の口調がだんだんと怒りに満ちてくる。
「・・・彼とは、ジャンとは何もなかったわ。
あの時、私は子供を産んだばかりで、あなたは公演でずっといなくて、私は一人でこれからのこと考えて不安だった。
バレエに復帰するのも不安だったし。
ジャンは色々と相談にのってくれたわ!
私たちは何もなかった。
それなのに、あなたが勝手に誤解して!冷たくなって!そして・・・」
「でも、僕と杏から去ったのは・・・君だ。
悪いけど、君とはこれ以上、話すことは何もない。杏はわたさない。
君は君の夢を追いかけていけばいいだろう!」
突き放すような野々村の態度に、杏子は泣きながらも、
「私の夢なんて・・・もう、無いわ
もう、バレエはやめたんだもの!もう私は踊らないのよ!」
月子は思わず見ていられなくなって杏子の肩を抱いた。
「・・・すいません。初対面の方のまえで、こんな恥ずかしいところをお見せして」
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