第31話
まだ、軽い目眩がつづいている月子を気づかいながら、毅彦は彼女を支え自分の車に乗せた。
「・・・本当に、どうもすいません。朝からご迷惑をかけてしまって・・・」
助手席で月子が申し訳なさそうに毅彦に言うと、
「浅井さん、ちゃんと食事は摂っていますか?」
「えっ、は、はい。食べています。ちょっと食欲は無いんですけれど、なんとか」
「ダンサーは食事も大事ですから、しっかり栄養とってくださいね。僕が言うのも変ですが」
「はい。すいません」
(情けないな、私。食事の指導までされちゃうなんて、はぁ)
毅彦は月子をチラリと横目で見ながら、彼女が、肉体的にも精神的にもかなり疲労していると感じていた。
「浅井さん。気分はどうですか?もし、食事ができそうだったら、今からランチでも食べてお送りしますが・・・ああ、無理にとは言いませんが」
月子の目眩はほとんど治まっていた。
このまま家に帰っても昼間から寝ているだけだったので、月子は毅彦の誘いに応じた。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えてランチご一緒していただこうかしら。そのあと、家に帰ってゆっくり寝ちゃいます」
アサト以外の男の人と二人で食事。ランチとは言え、少し後ろめたい気がした。アサトはきっと何とも思わないだろうけど、今の月子は正直なところ、一人で家に帰りたくなかった。
少し気分転換になればと思っていた。
毅彦の行きつけの店は、都心にしては珍しく一軒家のレストランで、明るく美しい庭が見える店だった。
ヘルシーで美味しい食事は、意外にも月子の食を刺激し、久しぶりに食が進んだ。
「とっても素敵なお店ですね。お食事もとっても美味しくて、沢山食べちゃいました」
「・・・それは良かった。顔色もだいぶ良くなりましたね」
月子は少し恥ずかしくなって、
「私、お腹が空いて、目眩がしちゃったんですね、きっと。これからは、気を付けるようにします」
毅彦は満足そうに頷きながら、
「食欲が無くても、食べてください。疲れすぎていると、食欲もわかないでしょうが、
ランチぐらいなら、いつでもご一緒しますよ。
私でよかったら。・・・っと、変な意味ではありませんよ。
旦那さんに怒られてしまいますね、こんなこと言ったら」
そう言うと、毅彦は頭に手をやり、小さく咳払いをした。
彼女のご主人が有名な芸能人だということは、周りから何となく聞いて知っていた。
しかし、それ以上は何も知らなかった。
それでなくても、野々村は高校を卒業するとすぐにバレエの留学でフランスに渡り、アメリカを経て、去年日本に帰ってきたばかりだった。
「えっ?私の主人ですか。
彼は、私がダンスのパートナーと食事をしても怒ったりしませんよ。かえって、とても感謝すると思います。
今は、彼は日本にいないので・・・本当にありがとうございます」
そう言いながら少しはにかんで目を伏せる月子を、毅彦は無表情で見つめた。
「・・・あの、野々村さんは、奥様とか・・・すいません」
「えっ?ああ、私ですか?私は今は独身ですよ。
妻とは一昨年に離婚しました。今は気楽なもんです」
「あっ、そうだったんですね。すいません。
余計なこと聞いてしまって・・・」
月子が話題を変えようと、考えていると、
「あはは、浅井さん、あなたは気を遣いすぎですよ。
私は、見ての通り府愛想な人間ですが、海外生活が長いせいか、見た目よりも頭はやわらかいつもりですよ。
ご主人は今、海外なんですね。それは寂しいですね。
私でよければ、何か困ったことがあれば言ってください。
大事な同僚ですから」
ふいに、毅彦に優しい言葉をかけられて、
月子は不覚にも泣きそうになってしまいそうになった。
こんなに、明るい陽射しの気持ちの良いお昼なのに。
全然知らない人に、優しくされただけで心が根をあげてしまいそうだった。
自分では気づいてはいなかったが、月子は予想以上のプレッシャーと孤独の中にいた。
こんなふうに、昼間の陽射しの中でアサトと普通にランチをすることなんてしたこともない。
酔っぱらって二人で夜道を腕を組んで歩くこともない。
最初から覚悟していたことなのに、ごく当たり前のことが制約されてしまう、アーティストとの結婚生活。
その現実が、こうして一般の男性とランチをしただけで、つい比べてしまう。
(わたしったら、何をいまさら。
本当に、どうかしている。疲れているのかも。少し眠りたい・・・)
月子の気配を察したのか、野々村は会計をすませると、
彼女を家まで送って行った。
去り際、
「本当に、大丈夫ですか?」
おもわず、そう声をかけてしまうほど彼女が心配だった。
彼女は、少し微笑んで会釈をすると、マンションのエントランスに消えていった。
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