第十章 HSPと、PTSD
32
わたしはHSP、つまり繊細さんと呼ばれている。
これは生まれもった気質が殆どの理由で、他の人よりも敏感で、感受性が強い。
わたしの場合は、特に音に敏感である。
足音でも、とても大きく聞こえ、自分の方に向かってくるような気がする。
それに、テーブルにコップを置く音、換気扇の音、ドアの開け閉め、物がぶつかる音、電車の出発の音など、色んな音に怯えてしまう。
テレビのボリューム、時計の秒針も苦手だ。
打ち上げ花火はとても苦手。見るのは好きだけど、ヒューッと上がってくる時点で、「くるぞ、くるぞ」とわかっていても、ドドン!と鳴ると、体がびくっと反応し、肩があがる。
心臓もバクバクだ。
大きな声も苦手だ。
普通の話声だとしても、わたしには大きく聞こえてしまうことがある。
例えばお店にいる時に、後ろから声をかけられると、普通の人より驚いてしまう。
声をかけた人も驚く程だ。
怒鳴り声なんてもってのほか。
いつまでも頭にこびりつき、終わったことでもビクビクする。
それから、他人の言動や行動がとても気になり、自分のことを言っているのではないか、と思ってしまったり、後ろで誰かが、何かしている気配を感じたりする。
空気もよんでしまう。今置かれている場所の雰囲気、この人は今怒りをこらえているな、とか、わたしが何かして怒らせてしまったかも…、とか、悪い方へ考えてしまう。
家の中では、父親の無愛想、不機嫌ぶり、無表情をビクビクしながら、その場の空気や雰囲気を、敏感に感じ取ってしまう。
だから、愛想笑いをしたり、逆に怖くて、どうしたら良いのかわからず、その場を動けなくなる。
光も敏感。特に夜の運転が苦手。対向車のライトがとても眩しくて、伏せ目がちになる。
中央車線や歩行者道が、ライトでわかりにくくなる。
眉間にシワがよる。
対人関係も難しい。
深く相手に共感しすぎて、頭がすごく疲れてしまったり、酷い時は自分のことのように思い、考え込み泣いてしまう。
とても体が疲れる。
人混みもダメ。行列もムリ。
不思議なのは、音楽を聴く時は、ボリュームをあげる。
特に車の運転の時は、少し外に音がもれる程の音量にする。それでも不快感は感じない。むしろ、リラックスする。
カラオケもそうだ。
大好きな音楽だからだろうか。
それとも、単なるわがままなのだろうか。
病気になってから、これらが全て益々敏感になってしまった。
二階の部屋にいても、両親の会話や足音が聞こえ、怖くなる。怯えてしまう。
時々、優しいと言われる。
でも、わたしの場合は、怒鳴られたり、八つ当たりの声や音、怒りのオーラに耐えられないから、その前に何とかしようと先に考え、先に一手を打つ。
それが、優しいと思われているのかもしれない。
そんな毎日だから、とても生きづらい。
深く考えこんでしまったり、この人の役に立ちたいとか、何かしてあげたいと、思ってしまう。
それが時にストレスや、体に異常をきたしてしまう。
わたしは病気になったことで、体が敏感に反応し、頭痛や、肩こり、背中の張り、強ばり、緊張が酷い。
背中の痛みが酷いと、寝ていても全く動けなくなったり、寝返りを打つと、背骨や肩、首の音がボキボキボキッと鳴る。
わたしがHSPになった原因の一つで、幼少期のトラウマやストレスもある。
常に両親の顔色を窺い、怒鳴られ、罵られ、甘えることも出来なかった。
「 三つ子の魂百まで」ということわざがある。
これは、殆どが習いごとの始める時期と思っている。
しかし精神面では、幼少期の子供の殆どの性格は、百歳になっても変わらないということで、脳の発達や性格が、だいたい決まるということらしい。
三つ子というのは、昔から三歳頃までには言葉が発達し、自分の考えも持ち、色んなものへの好奇心が出始め、個性が出てきたなという目安。
だから、三つ子、三歳を目安ではなく、幼少期全体を示していて、それまでに親からの愛情をたっぷりと受け入れることだと、わたしは思う。
わたしは生まれた時、父親に拒絶された。
それは、わたしが男の子ではなかったからだ。
父親は女の子と知ると、母親とわたしが退院するまで、病院へ来なかった。
そして母親は母乳が出なくなり、泣くわたしを、となりのお祖母ちゃんに預け、そのお祖母ちゃんの母乳の出ないおっぱいを吸わせていた。
「アンタはカスを吸ってきたんだよ。先に生まれない方が悪い」
そう、言われた。
この幼少期の時期に愛情を惜しみなく受け取り、抱っこや体を触ったり、話しかけたりすると、愛情の受け渡しが上手くなる。
ところがわたしは違った。
成長しても両親からの信頼感を得られず、愛情不足。そのことで自分に自信がなくなり、ヤル気や好きなことがわからなくなってしまった。
感受性が強いのも、この幼少期での親子関係に問題があったのかもしれない。
親の不機嫌さを常に感じとり、空気をよみ、その場の雰囲気を、なんとか丸めなくてはいけないと、思うようになった。
他人に対してもそうだ。
アンタがガマンすれば…と、母親から言われてきたから、なるべく影を薄くし、時には愛想笑いをし、体がぐったりと疲れてしまう。
いつも緊張感があり、それが過敏性腸症候群につながる。
本当に心を許せる友達には、そんなことはないが、初めての場所や初めての経験をすると、いつもに増して、更に緊張してしまう。
まるちゃんの新築祝いで、絵画を持って行った。
その絵はぶたさんの家族の絵。
お母さんが洗濯物を干し、周りに二人の子供たち、それを優しい気持ちで見守るお父さん。
イメージを伝え、絵の上手な人に描いてもらった。
わたしの理想でもあったのかもしれない。
家に着く直前から、密かに緊張していた。
新築だから、汚してはいけないと頭で考えながら、おしゃべりを楽しんだ。
その帰り際である。
突然の吐き気と、お腹の痛み。グルグル、キューッと、お腹が鳴りヤバい!と思った。
そしてトイレに駆け込み、お腹にあるもの全部出してしまった。
情けない…。
あれ程汚してはいけないと、慎重に思っていたのに、最後になってトイレを汚してしまった。
それを数回繰り返す。
まるちゃんは、
「音が気になるなら、二階のトイレ使ってもいいよ」
と、気遣ってくれた。
それは今でも、わたしの中で消えない罪悪感。
まるちゃん、あの時はごめんね。
反対に、気遣ってくれてありがとう。
32
わたしが二十歳頃、町役場にパートで務めていた。
「町役場で働く」ということは、両親にとって、体裁が良く、自慢出来ることだった。
わたしは地下一階で仕事をしていた。
朝は掃除から始まる。
仕事は、パソコンで案内文の作成や、時間を見て、社員さんたちへのお茶くみ、封筒の宛名書き、郵便局や銀行へのお使いなど、決して難しいものではなかった。
ある秋、かなりの大型の台風の影響で、町で管理している果樹園が、大きなダメージを受ける。
そこはりんご果樹園で、真っ赤になり、たわわに実ったりんごを、もう間もなくもぎ取って出荷する、という直前だった。
半分くらいのりんごが、ブルーシートの上に落ちてしまっていた。
りんご農家の人たちは、肩をガックリ落とし、まだ木に頑張って残ったりんごを、見つめるだけだった。
その残ったりんごたちは、小さな傷が沢山ついてしまい、それを全部処分するには、勿体ない。
役場職員とりんご農家で、話し合いが設けられる。
そこでひらめいたのが、「えくぼりんご」。
傷のことをえくぼに例え、通常より安く提供するということだ。
見た目はともかく、味や香り、みずみすしさや食感などは、通常のりんごと変わりはない。
さて、それが決まると、次はポスターにするデザイン構成と、印刷で忙しくなる。
わたしは、印刷を頼まれた。
印刷室は、五階にある。エレベーターなど、ない時代。
印刷室から沢山のポスターを五階から、地下一階まで、一日中往復した。
出来上がったポスターは、かなり重く、それを持ちながらの階段の上り下りは、重労働。
他の人たちからは、「大変だね」とか、「重そうだね」、「大丈夫?」と、声をかけられるが、みんな笑って見ているだけで、誰も手伝ってくれる人はいなかった。
それでも、今目の前でやるべきことを、必死になってやるしかない。
そう自分に言い聞かせ、腕がプルプルしても、手首が痛くても、「やるべきこと」を、一生懸命していた。
印刷室には、一人の中年の男の人が一人いた。
背が低く、お腹が出ていて、丸い人だった。
最初のうちは、わたしを応援し、「よくやってるよ」と、言ってくれた。
だが、次第に本性が現れてくる。
わたしの後ろを通るたび、さり気なくお尻をさーっと触るようになった。
次は、印刷が終わるのを待っている間、小さな窓から外の景色を眺めていると、肩に手を置かれ男の人の方へ、グイッと体を近づけられるようになった。
しまいには、ぶつかったふりをし、胸を触られた。
誰にも言えなかった。
わたしはお金をもらっている限り、ガマンしなくてはいけない、と、思った。
それは、幼少期からの両親の教え、「ガマンすること、お前がガマンすれば、全て丸く収まる」と言われ続けたこと。
その言葉を思い出し、一人でこらえていた。
家に帰っても、もちろん言えるはずもない。わかってくれるはずもない。
それを知っていたから、ずっとポスターの印刷が終わるまで、耐えていた。
それは、寒さがだいぶ厳しくなり始め、粉雪が、結晶のように光を放ちながら、舞い落ちてくる季節まで続いた。
のちに、その中年の男の人は、同級生のお父さんだと知る。
今ならセクハラだと訴えることも出来るが、同級生のお父さんなら、尚更言えない。
時給は四百二十円。
それでも、「お金をもらっている」という気持ちが強かったから、触られても仕方ないと、自分に言い聞かせていた…。
両親は幼い自分を持っている。大人だけど、心は子供のままだ。
美百合お姉ちゃんに対しては、自分たちが依存することによって、
「あなたの為にしてあげているのよ」と、行動で示している。
それで自分の価値を上げ、満足している。
美鈴ちゃんには「しっかり者」に仕立て上げ、自分たちの甘えの欲求を美鈴ちゃんに仕向けていた。
だからいつしか美鈴ちゃんは、「三姉妹の中で一番のしっかり者」という、レッテルを貼られ、それに応えようと必死になった。
そして、自分の弱さを人前に出すことを、許せなくなっているし、弱い人間を許せなくなってしまった。
わたしのことを「ひまわり」と呼んでいた、あの時の優しい美鈴ちゃんは、今はきっと、わたしに怒りをぶつけてもいると思う。
そして両親は、わたしが望むこと、好きになること、楽しむこと、怒りや泣く感情を押さえつけることで、自分たちの欲求不満を、満たすようになった。
そして、わたしを両親の思い通りの「良い子」にしようとした。
だから母親は、
「小さい時は言うことをきいて可愛かったけど、大きくなったら可愛くない」
と、言った。
それは、わたしの自我が目覚め、大人になることを、許せなかったのだろう。
それは、自分の思い通りにならなくなり、いつまでもすがり付くわたしでいて欲しかった。
大人になったわたしを見て、今度は自分のグチのはけ口、他人の悪口を聞いてもらえる、都合の良い人間にしようとした。
父親は「もっとしっかりしろ!」「もっと大人になれ!」「そんなんじゃ世の中生きていけないぞ!」と、威厳を放ち、脅しながらも、大人になっていくわたしを、認めたくなかった。
本当はわたしを、一番ダメな奴と言いながらも、見捨てられることが怖いのだ。
一番八つ当たりしやすく、グチを聞いたり、悪口を言っても黙っている。
わたしが末っ子だから、親としての威厳をいつまでも放ち、自分たちの立場を優位に置きたがる。
そしてわたしは、PTSD、つまり、心的外傷後ストレス障害になった。
いつも家の中では緊張し、自分を吐き出すことが出来なかった。
「大人しくしろ!」「言うことを聞け!」「オレが言うことが一番正しい!」と、脳にインプットされ、怒鳴られ、HSPの症状も現れ、いつもビクビクし怯えながら、生活をする。
罵りあいや、ものを投げたり、それを黙って片付けたり、母親のいないところで、父親は発散した。
家庭内でのイジメ、モラハラ、もしくは、わたしは、両親のおもちゃにされていたのかもしれない。
牛小屋に閉じ込められたのも、そうだ。
わたしはなぜそうされたのか、わからないけれど、おそらく、父親のイライラのはけ口で、牛小屋に閉じ込められたのだろう。
そして、学校のイジメがあり、先生からのパワハラとモラハラ、いきなり決められた先祖代々の跡取り、町役場でのセクハラ、調理補助の時の上司からのモラハラ、全てがトラウマとなり、何年経ってもフラッシュバックや、悪夢となってうなされる。
双極性障害となってからは、特に酷い。
忘れかけていた数々の記憶がよみがえり、それがストレスになり、体にまで影響してくる。
この息苦しさ、恐怖心は誰にもわからないだろう。
それでも家を出ていかないのは、母親の涙を何度も見てきたからということと、普段決して泣くことのない父親が、姉二人一度に出てしまった時に、泣いた姿をわたしは見てしまったからだ。
農作業を必死にし、今では体もおとろえ小さくなり、背中を丸めて年老いた両親を、今更見捨てることなんて出来ない。
それから、もし子供たちがそれぞれ独立した時に、安心してたまに帰って来れる場所を、わたしは大切にしたいと思っている。
33
美百合お姉ちゃんが、まだ東京で活躍していた頃、休みが出来たと言い、帰ってきた。
その時、「母親の実家に遊びに行きたい」と、言い、わたしも行くと言うと、母親は珍しく「いいよ」と、機嫌よく言ってくれた。
それは前の晩の出来事。
わたしは喜び、ベッドに入り安心して眠った。
和希を妊娠し、ちょうど安定期に入ったばかりの時だった。
そして当日。母親と美百合お姉ちゃんは支度をする。
わたしは特に用意するものなどないから、出かけるよ、の合図を待っていた。
すると母親は、「アンタ、本当に行くのか?」と、わたしに訊ねてきた。
わたしは「うん」と、普通に答える。
母親は、
「アンタが一緒だと早く帰ってこなくちゃいけない。ご飯の支度が遅くなる」
と、急に言い出した。
それは、わたしがいつもご飯の支度をしているからだ。
つまり、わたしには行くなということだ。
いつもそうだ。母親は期待をさせておいて、当日になると、ダメだと言う。
そして行っていいよ、と言いながら、その日になると本当に行くのか?と訊いてくる。
その空気は「くるな!」ということだと、すぐに察知した。
結局、美百合お姉ちゃんと母親二人で、実家へ行くことになった。
母親は、
「おまえがくぅーるとジャマになるぅー」
と、楽しそうに歌った。
わたしは、ジャマ者なのだ。
二人が行ったあと、家の中がやけに広く感じた。
シーンと静まり返り、すずめとカラスの鳴き声だけが響き渡る。
わたしは、たたずんだまま、瞳からつーっと熱く長れるものを、頬に感じていた。
遠野に行く時もそうだった。前の日まで「行ってもいいよ」と、言われたが、当日になって、
「やっぱりアンタが来るとゆっくり出来ないから」
と言われ、一人家に残された。
そして出かける間際に、母親から同じ歌を歌われた。
わたしはそんなにジャマ者なのか、存在価値はないのか、わたしの居場所はどこにもない、と、改めて感じた。
母親はいつもわたしを上にもち上げたり、見下し卑下することで、欲求不満を満たそうとしていた。
毎日がその繰り返し。
そうしている自分に気づいていない。
わたしは病気になり、少しずつ理解し始めた。
これは一種の母親からのイジメ。
わたしは、母親の気分次第で、毎日地獄の底から引き上げられたり、つき落とされたりしている。
つまりその時々で、わたしの存在は異なり、都合が良ければいて欲しい、都合が悪ければジャマ者と言う風に、取られているのだ。
わたしは気づけば、同等の人間ではなく、父親からも母親からも、扱いやすい末っ子とにしか、見られていなかった。
これが、現実だった — 。
「親が嫌なら出て行けばいいのに」とか、「わたしだったら、絶対家出している」とか、美鈴ちゃんにも「出て行けば?」と、言われたことがある。
実際、先生にも「環境を変えれば良くなるかもしれない」と、言われている。
数年前、夫に「近くでいいからアパートを借りたい」と、言ったこともある。それは、入院しないで休める環境が欲しかったからだ。
だが夫は、「二重生活はお金がかかる」と、言った。
確かにそうだ。
それと、「老後、貧乏生活を送りたくない」とも、言った。それも言われて見れば納得。
それなら、
「調子悪くなったら、一週間くらい、ビジネスホテルに泊まりたい」
と、言った。
だが、それも、
「それじゃあ、入院しているのと変わらない」
と、言われた。
わたしの本当に休める場所、安心出来る場所は、いったいどこにあるのだろうか……。
ただ孤独にガマンしながら、生活しなくてはいけない。
これも現実 — 。
先日母親が、美百合お姉ちゃんに電話をかけたが、ずっと留守電のままだった。
母親は極度の心配になり、
「アパートまで見に行った方がいいかな、中で倒れてるんじゃないかな」
と、ずっとソワソワしていた。
わたしは、
「大丈夫だよ。トイレかもしれないんだし、もし倒れても自分で救急車呼べるでしょ」
と言った。母親はムキになり、
「アンタは倒れても、自分の足ですぐ携帯取れるからいいけど、美百合は足が不自由だから、電話もかけれないかもしれないんだよ!」
と、言った。
は?わたしのこと、何だと思ってるの?
結局、美百合お姉ちゃんは、携帯の電源を切っていたことを、忘れていただけだった。
そういえば、以前わたしが流し台の側で倒れた時、父親は洗面台で頭を洗っていて、お風呂の掃除をしていた母親に、
「おーい、倒れたぞ」
と、言いながら、そのまま頭を洗い続けた。
母親は慌てて洗濯機を回した。
この日、二人は買い物に行く予定だった。だから母親は、わたしが倒れたことよりも、早く洗濯を終わらさなければ、と、洗濯を優先させた。
わたしは情けなかった。
美百合お姉ちゃんだったら、心配するのに、わたしには声をかけることも、頓服さえも渡してくれなかった。
この差はなんだろう。
わたしはこんなにも差別され、愛されてはいなかったのだと、実感した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます