第十一章 わかってください


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わたしには、本当の心の居場所がわからない。

形ある帰る場所はある。だがそこは、わたしにとって、常に試練であり、地獄であり、しかし、守りたい人がいる場所だ。

本当は、幼少期からきちんと甘える環境で育ち、自分という者を信じ、意見を言えたり、相談出来る相手がいれば良かった。

しかし、いつしか両親に服従することで、自分を保つようになった。

自由とは何か。自分の考えは何なのか。意思はある。

だが、決して言ってはいけない。逆らってもいけない。

自分が黙っていれば、この家は成り立つ。

そう教えられてきた。

自分の言葉を押さえ込み、何も言わなければ傷つくこともないと、感じるようになった。

そうして、自分が何者なのか、わからなくなってしまった。

自分の感情を押さえてきたから、自分の気持ちを上手く言えなくなった。 そして黙っていることで、自分で自分を守る術を、知らないうちに覚えてしまった。

そしてそのまま大人になり、自分の為にとか、自分の言いたいこととか、自分を甘やかすということが、どうすれば良いのかわからなくなっていた。

わたしには自分という者がない。

常に先に相手のことを考えてしまう。

優しいのとは別。

幼い頃からそう教えられてきたから、相手を中心とした考え方になってしまったのだ。

他人の考えや行動を重視し、それに自分を合わせていく。そこに安らぎを感じる。

そうすることが当たり前だと思ってしまう。

これは幼い頃の家や学校の環境、自分を押し殺すことで、その場が成立するなら…と、思い込んでしまったからだ。

家では安心感が得られず、自分の気持ちにフタをし、意見を言うことを許されなかった。

学校ではイジメられ、反発することを恐れ、もっといじめられないように、ただ自分をガマンさせてきた。

だから、行動力のある人や、自分に対して筋が通っている人、きちんと考えたことや、意見を言える人がうらやましかった。

新しい環境になじむ時もそうだ。

顔色を窺い、その人の思うように応えなければいけない。

相手が自分のことを、どう思っているのか気になる。

人の目を気にしすぎたり、過剰に反応してしまう。

自分がどうしたいのかわからない。

存在価値を感じることや、自己肯定感が低く、こうしなさい、こうでなければいけないと、教わってきた。

だから人との関わり方が上手くいかなくなったり、依存してしまう。

そして息苦しさを感じ、一人がラクとも考えてしまう。

本当は、わたしを認めて欲しい、わたしがいることに気づいて欲しい、わたしの気持ちを伝えたい、わたしを愛して欲しいと、心の奥底で叫んでいる。


それが心の中の小さなわたし…。


前に美鈴ちゃんに、

「うーちゃんが思っている程、誰も見てないよ。それって自意識過剰なんじゃないの?」

と、言われたことがある。

違う、違う、そうじゃない。

他人が怖いから、常に他人の言動や言葉を気にしてしまうのだ。

幼少期に「大丈夫だよ」と優しく言ってくれたり、暖かい手で包んでくれたり、抱きしめてもらえたなら、自分にも自信が持て、他人なんて気にならなかった。

「誰だってツラいし、うつっぽくなるけど、それを頑張って仕事してるんだよ」

とも、言われた。

遂には病院の悪口。

「病院はね、病床を埋めたいから、入院させるんだよ。薬だって全部飲まなくていいんだよ。うーちゃんはだまされてるんだよ」

今、薬をやめたら、わたしは本当に死んでしまう。

入院だってわたしがしたいから、するんだよ。と、何回言っても、理解はしてくれない。

むしろ、そんなわたしに腹を立てる。


あのね、美鈴ちゃん、何回も言うけど、「うつっぽい」と「本当のうつ病」は違うんだよ。

甘えとか、弱さでもない。

考えすぎとか、心配しすぎでもない。


「どうしてポジティブに考えられないのかなぁ…。」


それは病気だから。


うつ病も双極性障害も、脳の病気だから。


まるちゃんに教えてもらわなければ、自分が病気だなんて、ずっと気がつかなかった。

ずっと頑張ってきた、ずっと自分を押さえてきた、だから、もう休んでいいんですよ。という、脳からの司令なんだよ。

ずっと、ずっと、感情を押さえてきて、病気になって、ツラいとか、苦しいとか、しんどいって言えなかった。

遂には死ぬ恐怖さえもなくなり、運転中、交差点に突っ込んだ。

うつ病も、双極性障害も、本当にしんどい。

これは、病気になった人じゃないと、本当のしんどさがわからない。

看護師さんだって、人によって違う。

病院に死ぬ思いで駆け込み、入院したのに、

「あまり寝ないで、作業療法頑張りましょう」

なんて言ってくる。

一つのことを成し遂げて、二日、三日寝ないと、体がもたない。

体がダウンしたまま、また次のことをしなければいけない。

気力も体力も全てなくした。

今まで頑張りすぎたこともわからず、必死になって頑張ってきたのに、限度をこえて、駆け込んだのに、あなたにわたしのしんどさ、ツラさがわかりますか?

体の病気みたいに、包帯巻いたり、血が出たり、傷が出来たのなら、治り具合もわかるかもしれない。

でも、たまたまその時の調子を見て、回復したと思い、「頑張って起きててください」なんて言われたら、ガッカリするし、これまでの信頼関係は薄れていく。

あの時の調子の良さ、声が出たのは、軽躁状態だった。それがまたうつ状態になり、のどがつまり、咳が止まらず、寝込むようになってしまった。

その繰り返し…。


それでも病院は家よりまだマシ。


死にたい、生きている意味がわからない、生きるってしんどいと、いつも思う。

でもその心の中では、助けて欲しい、あるがままの自分で、生きてみたいと思っている。それを受け入れて欲しいと願っている。


幼少期にわたしが愛情に飢えていたことを、それを両親は理解しようとはしなかった。

反対に両親の中にいる子供を、わたしにぶつけ、それに従えば満足し、逆らえば不機嫌になった。

そしていつしか立場は逆転し、両親はわたしに、自分たちが子供の頃に出来なかった甘えを、求めるようになってきた。

だから、「ああしなさい」、「こうしなさい」とわたしに言ってきたのは、両親の中に眠る子供を満足させる為のものだった。

わたしはまだ、一人で何も出来ない年齢だったから、その両親に言われるがまま、従順に従い、そうしなければ、学校へ行くことも、食べることも出来なかった。

しかし、金銭的な面でも、塾通いでも、大きなステレオも、両親が与えてくれたものだ。

それは両親の自己満足でもあるが、わたしたち三姉妹にとっては必要でもあったし、どこかで感謝しなければ、いけないのだろう。

だが、わたしの中の小さなわたしは、いつもフツフツと湧き出す感情を、抑えている。

怒りや憎しみを爆発させたくて、仕方がない。


悪夢は、自分で自分を癒す為らしい。

時には、両親を肉たたきで後ろから殴っていたり、背中を包丁で刺している。

時にはお葬式の夢を見て、自分が死んでいたり、お寺で仏像が動かないように、沢山のロウソクの火を切らさないように、ずっとマッチでつけて歩く。

しまいには、お寺ごと、全て燃やしてしまう。

その時初めは夢の中でお経を唱えるが、次第に目を覚ましながらお経を実際に唱えていた。

悪夢だけではない。

実際に両親を、すりこぎか、すり鉢、肉たたきで殴ってやりたくなる。

背中を包丁で一発刺してみたくなる。

でも、いつも後ろからだ。前からは怖くて出来ない。

そして、自分にも罰を与えようとする。

包丁を持っていると、足の甲に思いっきり刺したくなったり、お腹を切腹のように、切りたくなる。

そんな気持ちと毎日戦っている。


中学三年生の時、母親のピンクのカミソリで、リストカットをしようとした。

カミソリを右手で持ち、左手首をじっと見る。

リストカットすれば、わたしの気持ちに気づいてくれるだろうか、嘆きや苦しみをわかってくれるだろうか。

そう、思った。

でも結局出来なかった。

血を流している自分の姿を想像したら、怖くなって出来なかった。

わたしは愚か者で臆病で、弱い人間だと思った…。

だが、本当は叫びたかった。思いっきり、「うわあああー!」と、叫んでみたかった。

「バカヤロウ!」「ふざけんな!」「アンタに何がわかるんだ!」

ずっと、ずっと、叫びたかった。

心の中で、ずっとガマンしてきた小さなわたしを、叫ぶことで、怒りをぶつけることで、箱から出してあげたかった。

今でもそう。

他の入院中の患者さんのように、叫んだり、物を投げたり、わめき散らし、暴れたい。

そんなことをすると、看護師さんに注意されてしまうけど、叫ぶことで自分の中にいる、甘えの感情を吐き出したい。




35



夫は少しずつ変わってきた。

あの、通帳事件が終わってからだ。

ずいぶん優しくなり、怒りのオーラもずっと感じなくなった。

母親が部屋に勝手に取りつけた、濃いピンクのカーテン。

夫に、本当は嫌だと、見張られているような気がすると、ようやく言えるようになった。

母親は「高かったんだからね」と、恩着せがましく言い、それを押しつけた。

わたしは嫌だけれど、「高かった」と言われ、その言葉にプレッシャーを感じながら、二十五年間、ガマンしてきた。

夫は、

「なんでそこまでガマンする必要があるの?もういい歳なんだから、変えればいいでしょ?」

と言い、新しいカーテンを取りつけてくれた。

その色は、わたしが望んでいた色。

淡いみどり色に、白い小さな小花柄。

夫が、わたしがずっと縛られてきた、濃いピンクのカーテンを、ゴミ袋にガサガサッと捨てた時、少し私自身も解放されたような気がした。

それと、わたしの好きなオレンジ色のソファを、買ってくれた。

わたしが嫌だと言ったクローゼットの扉、吹き抜けに繋がる小窓、そしてピンクのカーテン。

新築する時、全部わたしが嫌だと言ったものたちに囲まれた部屋だった。

カーテンを開けると、ベランダがあり、母親は洗濯物を干しながら、わたしの部屋をチェックしていた。

友達が遊びにきた時、吹き抜けの小窓から会話が筒抜けだった。

わたしはその部屋にずっと支配されながら、「ここがアンタの部屋よ」と言われ、ガマンしてきた。

それが、夫との会話でやっと解き放たれた。

今まではそんな簡単なことさえも、罪悪感を感じ、言えなかった。

今度は、新しいベッドを買ってくれた。

わたしの体の痛みを、少しでも軽減出来るかもしれないと、気遣ってくれた、夫の優しさだ。

そんな中でも、時として、夫に体を触れられると抵抗がある場合がある。

わたしにはもう、性欲が全くない。

双極性障害になってから、ずっとそうだ。

そして、更年期になり、益々そうなってしまった。

わたしは夫に申し訳ないような気がして、仕方なかった。

そのことを美鈴ちゃんに相談すると、

「あのね、うーちゃん、男の人はすごくデリケートで傷つきやすいんだよ。断ったらだめなんだよ」

と、言われた。

そうなんだ、わたしはガマンしなくちゃいけないんだ…。ずっとそう思ってきた。

でもカウンセラーの福富さんに相談すると、

「心と体の方が大切なんですよ。ガマンしなくていいんですよ」

と、教えてくれた。

そうなんだ、わたしはそれもガマンしなくていいんだ。

やっと救われた気がした。

今は夫もわかってくれている。ちゃんと色んな面で、わたしを受け止めてくれようと、努力してくれる。

わたしは自信がないから、愛されていい存在なのか、わからなかった。でも、病気になって入院することも、理解してくれるようになり、わたしという人間を、大切に思ってくれている。

これからは、もっと、もっと、お互い気持ちが言いあえる、本当の夫婦関係になりたい。


まるちゃんを初め、数人の大切な友達。

病気になったわたしを理解し、わたしという存在を認めてくれている。

わたしは今まで、友達と会う時も罪悪感を抱いていた。

わたしは彼女たちが好きだけれど、彼女たちは無理をして、わたしに付き合ってくれているのではないだろうか、本当は嫌なのではないだろうか、と、思ってきた。

でも今は違う。

決別した人もいるけれど、みんなはわたしに優しく接し、笑顔でいてくれる。

それが彼女たちの答えなのだと、思えるようになってきた。

わたしの、でも自分ではわからない長所、短所を知っていても、いつも変わらず接してくれる。

それがとても嬉しいし、ありがたい。

感謝だ。


わたしはもう、元気な昔のわたしには戻れない。

みんなも同じだと思うけど、年齢的にも無理な話だ。

病気だから、ネガティブ思考は当たり前、ポジティブ思考になってきたら、回復してきた証拠。

前向きに…とは、難しい。

だって、頭の中のぐるぐる思考が病気なんですよ、休みなさい。と、言っているのだから…。

だから、お願いだから、「元気そうだね」とか、「前向きになって」とか、言わないで欲しい。

すごいプレッシャーになるし、脳が、一歩前に進んだら、五歩下がるように指示しているのだから。


双極性障害は、一生の病気と言われている。寿命もどうやら、少し短いらしい。

わたしはもう仕方のないことだと、割り切っている。

だからこれ以上無理をしないように、自分自身を愛せるように、ゆっくりマイペースで歩んで生きたい。


わたしはもうすぐ、二回目のヘアドネーションをする。

それは、誰かの役に立ちたい気持ちと、そうすることで、また自分の存在価値を残そうとしているからだ。

髪の毛が長いのは、正直似合わない。

両親からも、短い方がいい、とか、気持ち悪いから切れ!と言われた。

でも、目標を達成するまでは、しばらくこのままにしておく。

二回目の断髪式が終わったら、三回目も目指してみようかな……。








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