第七章 子供たちと、夫
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わたしは四十二歳の厄年払い、つまり、四十一歳の五月に発病した。
和希は高校一年生、温花は中学一年生になったばかりである。
夫もその年の二月には、会社を退職して、関東から家に帰っていた。
その時は、しばらく体と心の異変をガマンしていたが、秋には症状が徐々に悪化していった。
その時点では、まだどこの病院にも行っていなかった。
その次の年の春、完全におかしいと、自分でもわかった。
そんな時に、まるちゃんとランチをし、まるちゃんがわたしの様子がおかしいことを、一番に気づいてくれた。
和希は高校卒業後、希望していた大手企業の会社に入社出来た。
新しい仲間も増えたし、会社のお祭りの時には、来賓の案内係に選ばれた。
お祭りの時、夫と一緒に見に行った。
駐車場からシャトルバスが出て、会社までバスで移動する。
少し、いや、かなり緊張し、頓服を飲む。そして深呼吸。
持ち歩いている水を、一口飲んだ。
「さすが大きな会社だな」
ボソッと、夫が呟いた。
会社の外では様々な食べ物や、飲み物が、テントの下に軒を連ねており、そこに沢山のテーブルと椅子が並べられ、小さな子供たちの家族連れや、おじいちゃん、おばあちゃんたちの姿もあった。
この日は九月末だというのに、厳しい残暑が残り、半袖、長袖と、お客さんたちの服装も別れていた。
時おり、小型のプラスチックの扇風機で、ブーッと髪をなびかせている人や、扇子でパタパタと顔まわりを仰いでいる人もいた。
そんな中、テントのずっと奥、来賓入り口と書かれている看板を見つけた。
そこに、白いワイシャツの袖を腕まくりし、案内係の札を首からぶら下げ、手を横に動かしたり、頭を下げている和希の姿が遠くに見えた。
入社二年目の時だった。
「二年目で、来賓係なんて、頑張ってるんだな」
夫は和希の姿を見て、満足気にしていた。
工場見学も出来、建物の中に入り、エレベーターで二階まで移動。
エレベーターの扉が開くと、そこから長い廊下がずっと続いていた。
大きな機械が沢山並んであった。
作業が終わったら、これを全部掃除するんだな、大変だなと思う。
反対側には、長い、長いレーンがぐるぐるとあり、見ているだけで、目が回りそうになる。
すると、夫がツンツンとわたしの腕を人差し指でつつく。
夫の方を見ると、壁には張り紙があり、何やら資格の合格者の名前が書かれていた。
三名の中の一番上に、和希の名前を見つけた。
「おおおおおー」
わたしは、体をふるふるっと身震いさせ、和希の成長ぶりに驚いた。
家では無口だけど、時々笑顔を見せる和希。
そんな和希は、わたしの知らないところで、社会人として立派に成長しているんだ、と、誇りに思った。
そして季節は流れ、寒さの銀色の世界から、ぽかぽかの暖かい春、ジリジリと照りつける眩しい太陽、あっという間にまた、会社のお祭りがやってきた。
今度は、わたしと夫は、見に行かなかった。
和希はまた、来賓係に選ばれた。
年が明け、和希がもうすぐ入社四年目になろうとしていた頃、突然仕事を辞めたいと、言い出した。
「オレには製造業は合わない」
そう一言、言った。
わたしも夫も特別反対はしなかった。頑張っていたことも知っていたし、仕事の書類を持ってきては、毎日のように目を通し、覚えようと必死だったことも知っている。
まだ若い。知識は色んな場所でも得られる。
そう思い、
「三年間よく頑張ったからいいんじゃない」
と、わたしは言った。
元旦を迎え、食卓に勢ぞろいし、みんなで、
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
と、言って、母親の作ったお雑煮を食べた。
いつもより、遅めの時間の朝食。おもちは胃の中でずっしりとし、存在を大いに示している。
そのうち、恒例の美鈴ちゃんの子供たちの、その子供たちもやって来た。
みんな怪獣のように走りまわり、ソファでポンポンしたり、とにかく一日中賑やかな、大慌てな日が、あっという間に過ぎて行った。
そしてもらう物はしっかりと、もらっていく。
まだみんな小さいから、少額で良いのが何よりだ。
それからまだ肌寒い春がきた頃、和希が突然、
「オレ、福岡まで旅行に行ってくる」
と、行った。
いよいよ彼女でも出来たのか?と、思ったけど、そこはデリケートな部分。男だから、なおさら聞かない方がいい。
そして二日後、飛行機で福岡に行った。
岩手はまだ少し冷たい。
ブルッとするような春だが、この日は快晴日。絶好の旅行日和だった。
和希からぽつりぽつりと、写真がその都度スマートフォンに送られてくる。
飛行機の羽の部分で、上は薄い水色の空、下はどこまでも続いている雲海、まるで色えんぴつでキレイに描かれている、一つの絵画のようだった。
時間が経つと、スマートフォンがまた鳴る。
今度は桜の花が満開の様子。薄くて可愛いピンク色の花々が、枝にビッシリついていた。
枝のすき間から見える、雲一つない青空と、優しいピンク色の桜のコントラストが、とても美しかった。
ピロピロン!
ヤシの木?え?これ本物?
次は青い海をバックに、ヤシの木のブランコの写真が送られてきた。
日本にヤシの木なんてあるんだー。ふむふむ。
ピロピロン!
え?これ夫婦岩?やっぱり彼女でも出来たのかな?しかし彼女と夫婦岩とは…。ま、それもありか。
ピロピロン!
ん?海の中に白い鳥居?へえ、これはいい写真だな。海の色が青々として癒されそう。鳥居、ステキだな。直接見たら絶対感動する!
ピロピロン!
今度はなんだ?ラーメン横丁?へえ、こういう場所もあるんだー。どこに入るか迷いそう。
赤や黄色の、のれんが並んであり、一本道をうめ尽くすように、軒並みならんでいる写真だった。
どの店に入ったんだろう…。
その写真が最後の一枚だった。
次の日、空港からまっすぐ家に帰ってきた。
「福岡どうだった?」
「うん、あったかかった」
「桜、キレイだったもんね」
「うん」
「夫婦岩なんて、しぶいトコ行ったんだね。もしかして…?」
わたしは和希の顔を、下からのぞき込むように見た。和希はニヤニヤし、
「違うよ。渉と行ったんだよ」
渉くんとは、近所の子で、小さい時からの幼なじみである。背が高くて、勉強のし過ぎなのか(想像)、メガネをかけている。
「え?なーんだ。でも、男二人で夫婦岩?」
「あー、なんか観光バスに乗ったら、そこに案内された」
「へー、そうなんだ。でも、良かったね。楽しかったでしょ?」
「ああ。あ、これお土産。適当に買った」
和希は白い袋をわたしにポン!と投げた。
中をガサガサと開けて見ると、中には顔が猫?で、フニフニとやわらかい朱色の生地で、前に「めんたいーこ」と書いてあり、後ろには博多と書いてあるキーホルダー?だった。
何でもいい。和希が選んで買ってくれたものだ。
「わーい、ありがとう!」
親バカなわたしは、和希をギューッとしようとしたが、和希は、「やめろ!オバサン!」と、ニヤニヤしながら、ソファにドン!と寝転んだ。
わたしとまるちゃんが旅行に行ったのも、ちょうど和希くらいの年齢だった。楽しかった、懐かしい思い出を頭に浮かべた。
それから数ヶ月、和希は次の仕事を探し始めた。
だが、製造業ばかりで、なかなかピンとくるものがなかった。
製造業がイヤで辞めたのだが、結局また、製造業を選んだ。
ここも世界で知られている、大手企業の工場だった。
前は交代制ではなかったけど、今回は二交替。「とりあえず、やってみる」と、言い、次の週から通勤し始めた。
毎日残業で、職業安定所に載せていた勤務時間とは、違っていた。
最初は慣れるまでと思い、和希も頑張っていた。
次第にため息が多くなり、疲労と苛立ちで、前のような明るさは消えてきた。
帰ってくると、「メシはいい」と言って、すぐに自分の部屋に閉じこもり、眠っていた。
早番で、六時出勤のはずだった。
わたしは体の痛みで目が覚め、頓服を飲みにキッチンに行った。
時間はまだ四時。真っ暗だ。
その時、壁に向かってお茶漬けを食べている、和希の姿があった。
「え?どうしたの?まだ早いでしょ?」
「会社から呼び出された。人数が足りないって…」
「そうなの?電気つけようか?」
「いい。もう食べ終わるから」
その光景はわたしの胸の中で、ザワザワさせる姿だった。
和希は、歯磨きをし、すぐに会社に向かった。
和希が帰ってきた時間は、夕ご飯にはまだ早かった。
和希は初め、座卓に突っ伏していたが、ソファに移動し、体を任せ、そのまま眠ってしまった。
寝相もいいし、いびきもかかない和希だが、よっぽど疲れていたのか、大いびきをかいてぐっすり寝ていた。
わたしは心配になってきた。
それから数日後、わたしはまた体の痛みで目が覚め、キッチンに行くと、そこには暗闇の中、ズルズルとお茶漬けをすすっている、和希がいた。
また、壁の方を向きながら、体を丸めて黙々と食べている。
時計はまだ夜中の二時。
「また呼び出されたの?」
「ああ」
そう言って、電気をつけずに歯磨きを短時間で済ませ、あっという間にエンジン音をたてながら、会社に行ってしまった。
わたしは嫌な予感がした…。
数日後、そのカンは当たってしまった…。
その後和希は会社を退職。その間、家族で見守るようにした。
しばらくは眠る時が多くなり、食欲もなさそうだった。
でも、無理には食べさせない。
バナナだけは、常にストックしていた。
会社を辞めたことによって、ストレスから解放され、少しずつゲームをしたり、アニメを見たり、趣味の絵を描くようになった。
時々癒しを求めて、あたこちドライブにも出かけた。
一つ動画を送られてきた。一関の厳美渓でそよそよと、時には石にぶつかり、激しくなる川の流れをバックに、無言で自撮りしていた。
それから、フィットネスジムにも通い、汗を流し、すっきりとした顔になってきた。
和希は、自分で自分なりの方法を見つけ、半年後には今までの和希の表情に、戻っていた。
その後、仕事を始める。
今度は製造業ではなく、体力を使うを仕事に就いた。
「オレには今の仕事が向いてる」
と言い、時々、夕ご飯のあと体力作りの為に、夜な夜なランニングをしている。
その後、「オレ、一人暮らししたい」と、言った。
自立の時だ。
もちろんわたしは賛成、大賛成!
わたしがしたくても出来なかったことを、和希はやろうとしている。それが嬉しい。
夫も賛成してくれた、「若いからな」と、一言。
ただ、問題だったのは母親。
父親は、「そうしないと大人になれないんだ」と、言った。
わたしには「お前は絶対出さない!」と言ったくせに、コイツは何なんだ?と、わたしは手のひらをぐーにして手をふるふるさせながら、聞いていた。
母親は、ほろほろと泣き出し、「だって寂しいよ…」と、鼻をグズグズさせた。
わたしはイラッとし、
「ウチから車で十五分の場所だよ!何言ってんの!」
と、言い返した。母親は、
「だって、だって…」
と、ダダをこねて泣きだした。
あきれてわたしは、首を左右にふった。
24
温花が中学一年生の時、わたしは病気と戦い始めた。そして、入院することになり、温花は部屋に閉じこもり、声をあげて泣いた。
階段で後ろから抱きつかれ、「行かないで」と言われたこともある。
でも、わたしは限界だった。心も体もボロボロで、自分でも理性を失いそうになっていた。
中学二年生の時、担任の先生が変わり、剣道部の島田先生が二、三年生の担任になった。
次第に温花の成績が下がり、島田先生は個人面談の時、「どうしたの?」と、温花に訊いた。
「お母さんがうつ病になりました」
温花はそう言った。
わたしは入退院を繰り返し、退院した直後は家事が出来た。
頭の中で色々考えてみる。
温花は人参スープが好きだ。
急に「作って」と言う。
人参スープは、人参と玉ねぎを薄くスライスし、小鍋にほんの少しのご飯と一緒に、コトコト煮る。
その時点で、人参と玉ねぎの甘い匂いが、キッチンとリビングに漂う。
やわらかくなったら、ミキサーでガガガーッとこっぱみじんにやっつける。
その時のミキサーの音は大きくて、何度聞いてもいい気分はしない。
また鍋にやっつけた具材を戻し、牛乳を少しずつ入れ、かき混ぜる。ほったらかしにしてしまうと、具材が底にくっついて、大変なことになるから、常にかき混ぜながら、傍にいなければならない。
いい頃合いになったら、コンソメ少し、塩、コショウ少し入れ、器に入れたら、ハイ!できあがり!
その上に、生クリームをスススーッと丸く描くように、添えてあげると、味はもっと上々。
温花だけは(わたしも)大喜びするが、他の家族には不評だ。そういう時の為に、みそ汁も作っておく。
和希はカレー派、温花はシチュー派。二手に別れる。
余裕があれば両方作る。
まあ、ルーだけ変えればいい話。
両親は「なんで同じもの食べないんだ!」と、言うが、それもいつものグチグチだ。
退院したあとは、わたしには余裕がある。
もっとかかってこい!セイヤー!(投げ飛ばしているつもり)。
ところが、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と、日が経つにつれて、その余裕も、気合いもなくなってくる。
そんな時に限って、剣道は忙しくなった。
島田先生や、遠藤先生から、
「なるべく練習を見に来てください」
と、言われるが、その日、その時間によって、気持ちのアップダウンが激しくなるから、具合の悪い時は、仲良しの子のお母さん、おばあちゃんに、迎えを頼んだ。
親ばかだが、温花は笑顔がものすごく可愛い。
でも、わたしの病気が酷くなったり、剣道と勉強で心の余裕がなくなると、その笑顔はなくなり、美鈴ちゃんに助けを求める。
そんな時だ。
「美鈴ちゃんが、お母さんなら良かった!」
と、言われてしまった。わたしは返す言葉もない。心の中でいつも「ごめんね」と、呟く。
本気ではないことくらい、承知のうえ。だから、わたしは笑ってごまかす。
三年生になり、三者面談。わたしは島田先生が苦手。
とても緊張する。
温花の成績は、志望校に入れる点数だが、島田先生はもっと上にいくように、と、温花に言う。
温花は小さく「はい」と、答える。
わたしは、こんなに頑張っているのに、もっと頑張れなんて…。と、思うが、それを口に出すことが出来ない。 それに温花も、わたしが先生に刃向かうことは、望んでいない。
だからなるべく、温花の気持ちに沿うように頭で色々考えるが、わたしのすることは、たまに、あんぽんたんになるらしい。
逆に温花から説明を受け、「わかった?」と、言われることもしばしば。
志望校見学の日、裏道を走った。
いつも病院に通う時、裏道を走った方が車の台数、信号機の数が少ないから、早く着くと思った。
周りは田んぼと住宅だらけ。
まっすぐ走り、ここだ!と思った道を曲がった。
順調、順調。
そのあとだ。
Y地路にあたり、右か、左か、迷ってしまった。そして、カンで左の道を進んでみる。
ところが行けども行けども、学校にはたどり着かない。気づいた時には逆方向の道を走っていた。
「大丈夫、大丈夫、時間に余裕持って出てきたから」
と、後部座席に座っている温花にそう言って、安心させようとしたが、心配そうに、助手席の頭の部分にしがみつき、「間に合うかなあ」と、まっすぐ前を見ていた。
そしてわたしは遂に「白いビキニの可愛い彼女」に、電話をかけた。
ここは、彼女の地元。わかるかもしれない。
ところが、「白いビキニの可愛い彼女」は、そっちの道、通らないから、わからない。ごめんね。と、答えた。
わたしは心臓が、バクバク、手汗びっしょり。どうしよう、どうしよう、島田先生に温花が叱られる、と、頭の中でパニックを起こしていた。
温花はきっとわたし以上に、不安でいっぱいだったろう。
そしてまたカンで、この道を進めばきっと国道に戻る。そうしたら、道はわかる。と思い、まっすぐ進んでいた道を、途中曲がり、アクセルを踏み込んだ。
その時だった。先生からわたしのスマートフォンに、電話がかかってきたのは……。
わたしはキョロキョロしながら、電話に出ようとした時、目の前に、志望校が見えた。
「今着きました!」
みんなの待つ場所に、温花を下ろすと、温花はみんなに囲まれ、「心配してたよー」と、言われ、背中をボンボン叩かれたり、頭をなでられたり、抱きつかれたりして、安堵の表情を浮かべていた。
わたしも車から下り、先生にひたすら謝った。
帰りは普通の国道を走った。
「黙ってこっちの道、くれば良かったね。ごめんね」
わたしは温花に謝る。
「ほんとだよぉー。絶対間に合わないと思った」
ごめんね、ごめんね。ジュース買うから許して。
そして受験当日。
温花は決戦に挑んだ。
合否。
もちろん合格!
その日の夕ご飯は、家族みんなでお祝いし、お寿司を食べた。
温花の好きな、いくらの軍艦巻きを、みんな「ほれほれ」と言い、温花のお皿にのせた。
高校生活は楽しんでいた。
剣道部は辞め、家庭科クラブに入った。
好きな科目ばかりだし、実践も得意。
温花は高校生活を満喫していた。
学園祭はすごい人、人、人。
人気ぶりがわかる。
わたしは体調があやしくなる前に、頓服を飲んでおいた。
夫と二人で行き、迷いそうな校舎をぐるぐる巡る。
生徒たちによる食堂もあった。
とても混んでいて、座る場所をキョロキョロ探す。そこに笑い声。
一人のぽっちゃり女子が来て、
「こちらの席へどうぞ」
と、案内された。
そこで友達と温花は楽しそうに、調理をしていたようだった。
白い丸いテーブルに、濃紺のパイプイス。その席にわたしと夫は座った。
ぽっちゃり女子に、「オススメは何?」と訊くと、「ハヤシライスです!」と元気に答えた。
それなら…、と、ハヤシライスを二つ注文。
黒いトレーの上に、白いプラスチックの入れ物に、ハヤシライスが入れられていた。上には星型の人参が二個、ちょこんとのせてある。
見た目もぐっと。
その側に、透明の丸い小さな容器に、青くて星型のゼリーものせてあった。
ゼリーの上にはキラキラ光る金粉?(まさかね、予算があると思うからね)、と、ホイップクリームが、脇にフワッとと添えられていた。
青いゼリーは、サイダーのような、ほんのりと甘い味がした。
食べ終わった頃、温花と二人の友達が、テーブルまで近寄って来た。
一人はさっきのぽっちゃり女子、もう一人はメガネをかけた、真面目そうな子だった。
温花はショートカットだが、二人共、黒いゴムで髪の毛を束ねていた。
温花と押し合いっこをし、「こんにちは」と笑いながら挨拶された。
温花の照れくさそうな、でも、歯を思いっきり見せて笑う顔は、久しぶりに見る、とびきりの笑顔だった。
楽しんでいる様子が良く伝わる。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
夫が言うと、「ありがとうございます!」と、ぽっちゃり女子と、メガネっ娘は丁寧にお辞儀をした。
温花はまだガハハ笑いをしていた。
温花のクラスの生徒たちは、殆ど進路が決まっていて、一年生から三年生までクラス替えはない。
担任も同じ女の先生で、化粧が濃く、常に髪の毛をアップにし、タイトスカートを着こなしているようだった。
他のクラスの子よりも、制服や髪の毛にうるさく、常にチェックしている。
温花は基本、真面目だ。
なるべく目立たないようにしている。
もちろん、あのぽっちゃり女子と、メガネっ娘も、似た者通しで、制服の乱れや髪の毛などもきちんとしていた。
それなのに、いつも先生は温花をターゲットにし、「化粧しているんじゃない?」とか、「スカート、ウエスト折って短くしてるでしょ!後が見えるわよ!」と、言ってきた。
温花はそう言われるたびに、プンプンと鼻の穴をふくらませ、わたしに報告していた。
「もっとヒドイ子いるのに!どこが折った後が見えるんだよ!」
わたしは駅まで迎えに行き、温花は車に乗ってすぐにそう言うと、
「頭にきたから、セブンでなんか買ってちょうだい」
うーん。ちょっと話がずれてるかな…。
大学受験。温花は、保健師になりたいと言い、看護師コースのある大学を希望。
倍率は高く、必死に勉強した。
時々ヤケ食いで、セブンで大量のお菓子とジュースを買う。
もちろん支払いはわたしだ。
そしていよいよ受験。
朝ごはんは緊張して、のどが通らなかった。
せめてお弁当は、温花の好きなタマゴとひき肉のそぼろ弁当にした。ところどころにクッキーの花形を置き、そこに桜でんぶで可愛くする。
もちろん愛情をこめて…。
温花の高校生活のお弁当は、殆ど母親が作っていた。
わたしは具合が悪く、朝起きることが出来なかった。
剣道の時は夜中に起きて、色々なおにぎりや、少しのおかず、小さな太巻きを頑張って作っていたのに…。
温花は、「お母さんのお弁当が食べたかった」と、何度も言った。
そのたびに罪悪感が生まれる。
だから、この日だけは…、と思い、簡単だけど、頭をふりながら、お弁当を作った。
元旦に神社で買ったお守りを、忘れずに持たせる。
夫の車に乗り、大学まで向かった。
帰ってくると、「ヤバい、ヤバい、無理かも…」と、言って、落ち着きがなかった。
合格発表までの間、無口で機嫌が悪かった。
そして、合格発表の日。パソコンでもわかるが、いても立ってもいられず、直接大学に向かった。
もちろん運転は夫。
しばらくし、わたしのスマートフォンが、ピロピロン!と音がした。
ラインを見ると、温花の番号が書かれている、掲示板の写真が送られてきた。
わたしは両親にも伝え、仕事中の和希にもラインで知らせ、温花が帰ってくるのを心待ちにしていた。
「お母さん!合格だよ!」
「良かったね!」
と、わたしと温花はぎゅーっと抱きしめ合い、回転しながらぴょんぴょん飛び跳ねた。
それを見た両親は、
「何やってんだ!」「いい歳して気持ち悪い」と、二人で冷ややかな目で、わたしたちを見ていた。
その言葉は、温花に聞こえていたのかわからない。
ただわたしは、親子で抱きしめあって、喜びを分かち合うことが、どうして気持ち悪いことなんだ!と怒りを心の中で殺しながら、言葉を無視し、もっと温花を抱きしめた。
その日の夕ご飯は、何を食べたのか、覚えていない — 。
温花はそれから、アパートに一人暮らしを始めた。時々電話をかけてきたり、ラインでやり取りをしていた。
そのたびに母親は、
「なんてきたんだ?わたしにも教えて」
と、言ってきたが、「うん、元気だって」と適当にごまかした。
わたしは「気持ち悪い」と言った人に対して、温花の情報はあまり教えたくないと、思った。
途中成人式を迎え、久しぶりに幼なじみや、剣道の仲間たち、高校の友達と再会し、みんなで写真を撮りまくった。
この日はとても寒く、みぞれ雪が降っていたが、式典が終わり、外に出てみると、ほんのりと暖かい陽射しが、顔をのぞかせていた。
25
夫とは、ややスピード結婚。
別に妊娠した訳ではないけれど、なんとなく流れで、出会って一年も経たずに結婚した。
つき合い始めたのは11月頃だった。
親の勧めの相手だから、わたしは不安も大きかったけど、会ってみると懐かしい感じがした。
夫はわたしのデパートの仕事が終わるまで、社員駐車場で待っていてくれた。
ちょっとしたサプライズ。
わたしは自然に顔がニヤけた。
しかし、財布の中はいつも、千円か二千しか入っていない。
せっかくサプライズで来てくれたのに、これでご飯代たりるかな?とハラハラすることもあった。
「オレ、お金あるから大丈夫だよ」と、いつも言ってくれたけど、毎回ご馳走してもらうには申し訳ない。
ご飯を食べ車に乗りこみ、サラっとドライブ。
帰り際にせめて自分の分だけでも、と思い、お金を渡すこともあった。
わたしの誕生日の日。
夜勤なのに、わざわざ仕事前に、誕生日プレゼントを届けに、家まで来てくれた。
とても感動。
それと同時に申し訳ない気持ちも強かった。
素直に「ありがとう」と言い、プレゼントを受け取る。
夫が仕事に行ったあと、そっと箱の中身を開けてみると、キャメル色の巾着型のバックが入っていた。
しかも皮のバック。
絶対高そう。
これ、本当にもらっていいのかな?
わたしは今まで付き合った人から、プレゼントなんて殆どもらったことがなかった。だから、驚きと嬉しさがいっぺんに、心の中で騒いでいた。
そして三月に結納。
グレーに花模様の着物を着た姿を見せ、ほめてくれると思っていたのに、夫は、
「グウグウガンモみたいだな」
と、ヘラヘラと笑った。
これは意外な反応。
「いいでしょ?せっかく着物着たのに…」
私は唇を尖らせ、ふんふんと、鼻息を荒くした。そうすると、夫は益々笑った。
照れもあったのかもしれない。
結納の前に、夫の幼なじみと、その彼女たちを、わたしは夫から紹介された。
男の人も、彼女たちも、みんな個性があり、わたしはとても緊張し、手が震えたが、その中にのちに決別する明子さんもいた。
その前から、わたしと明子さんの仲良しが始まっていた。
そして初夏。
みんなでバーベキューをすることになった。
わたしは友達とか、元彼とかと、バーベキューなんてしたことがない。
どうすれば良いのか、全くわからなかった。
夫の友達、和央くんの家ですることになった。
明子さんを含め、他の彼女たちも手際よく野菜を切ったり、外に出て支度をする。
男たちは、直射日光が当たらないように、上だけのテントを張り、椅子とテーブルを用意して、早速ビール缶をシュパッ!と開けて飲んでいた。
わたしはまだ、彼女たちの中には馴染めず、ただウロウロするばかり。
そして、「キャベツを切ってください」と、一人の彼女に言われた。
果穂ちゃん。和央くんの彼女だ。
果穂ちゃんは、ショートカットにインディゴブルーのジーンズを履き、白いTシャツを着こなしていた。
靴も白で、一番爽やかに見えた。
笑うと八重歯が可愛いかった。
さて、どうするか…。一枚ずつはがした方が、万が一残った時、腐れにくいよな…。でも思い切って半分に切ってから、ザクザクした方がいいのかな…。頭のなかで緊張と共に、迷っていた。
そしてわたしは果穂ちゃんに、
「どっちの切り方がいいかな」
と、訊いてみると、
「そんなの自分で考えてください!」と、やや怒りの口調で言われてしまった。
しょんぼり。
わたしは料理が苦手。というか、自信がない。
迷ったあげく、エイッとキャベツを真ん中で切り、そのあとザクザク切った。
いざ、バーベキュー開始。
夫が持ってきた鉄板の上で野菜と肉が、ジュワジュワといい音をたてて、焼かれていく。
夫も焼く方を手伝う。
と、そこで、
「このキャベツ誰が切ったの?」
と、訊いてきた。
「あ、はい」
小さな声でわたしが返事をすると、
「みそ汁に入れるのじゃないんだから、もっと大きく切らなきゃ」
と、みんなの前で公開裁判のように言われた。
わたしは恥ずかしくて、カアーッと顔から火が出るようだった。
みんなは「いいよ、いいよ」と言いながら、大笑いしていた。
果穂ちゃんも、くすくす笑っていた。
わたしは少し切なく惨めな気持ちになって、ウーロン茶をぐびぐび飲んだ。
明子さんは「ドンマイ」と、せせら笑いをしながら、わたしの肩を叩いた。
すると今度は、後ろから、
「これ、みんなで食べよう」
と、重箱を三つ重ねて、もう一人の彼女がテーブルの上にのせた。
一段目はポテトサラダ。サニーレタスや、ミニトマトも添えてある。
二段目は俵おにぎり。ごま塩をふり、真ん中に海苔が巻いてあった。
三段目には杏仁豆腐。独特の香りが食欲をそそる。キレイにひし形に切ってあり、さくらんぼが五個のせてあった。
彼女の名前は、美月ちゃん。彼氏は望くん。
望くんは、どこかポヤーっとしていて、ずっとニコニコ顔で、いるだけでその場の空気がほんわりするタイプだ。
「すげえ!よく作ってきたな」
美月ちゃんもニコニコ顔。
美月ちゃんはぽっちゃり?より、もうちょっとぽっちゃりで、嫌味を感じさせない雰囲気だ。
望くんとお似合いだと思った。
そして明子さんの彼氏。一茂くん。
お酒が弱いようで、すぐ顔が真っ赤になり、そのあと明子さんのひざ枕で寝てしまった。
ぽかぽかの陽射し。
初夏といってもジリジリ感がない。 草木は陽射しを浴びて、キラキラ光る。ときおりイタズラな、生暖かい風が吹いた。
そしていい頃合いになり、片付けをしようとした時、果穂ちゃんが、
「鉄板、汚れが落ちやすいように、水に浸しておきましたから」
と、夫に向かって言った。
「えー!マジで!すごいな。いつの間にやったの?へぇ、気が利くな。ありがとう」
と、大きな声で返事をした。
果穂ちゃんはにっこり。和央くんは、「だろー」とニンマリ。
わたしはしょんぼり。立場がなくて、益々陰が薄くなったような気がした。
そんな慣れない友達づき合いが、年に数回あった。
そのたびに、女子みんなは何かを作って、手土産として持ってきた。
わたしは手作りなんて自信ない。
夫は、「ビールでいいさ」と、気を使ってくれ、いつもビールを手土産として持って行った。
果穂ちゃんと美月ちゃんは、歳が同じということで、とても仲良し。
明子さんはわたしより、かなり歳上だが、なんとなく意気投合し、わたしはしょっちゅう、明子さんの家に遊びに行くようになった。
そしてわたしと夫は結婚。
その次の年から、みんな結婚していった。
わたしの服装は、いつもスカートが多い。
ワンピースにフレアスカート、タイトスカートに、プリーツスカート…。
上は綿のアンサンブルや、花柄Tシャツ、無地のカットソーや、カーディガンスタイル。
しかし、夫はあまり好みではなかった。
どちらかと言えば、果穂ちゃんのような、さり気ないスポーティーな格好が好きだった。
ある日、ジーンズショップに連れていかれ、わたしにジーンズを履いて欲しいと言った。
「ジーンズなら一本あるよ」と、言ったが、「あれはダサい」と、言われた。
色々試着して、最終的にダボダボのジーンズを買ってもらった。わたしはこっぱ恥ずかしかったし、似合っているのかさえも、わからなかった。
まあ、夫がいいと言って選んだのだから、良しとしよう。
そのあと、靴屋さんにも行った。
わたしは、スニーカーが一つもない。
夫は、「スニーカーの方が履きやすい」と、言い、高いスニーカーを買ってくれた。
やはり、こっぱ恥ずかしい…。
結婚してすぐに、仙台で行われている、スポーツカーの展示会を見に行くことにした。
その日はもう九月だというのに、太陽が蜃気楼を映し出す程の暑さだった。
わたしは初めての遠乗りで、ワクワクとドキドキで、緊張していた。
結婚したと言っても、まだ知り合ってから、ようやく一年になるところだ。
新鮮さは残ったまま。
遠慮をまだしている時期だ。
高速道路をひたすらまっすぐ行き、途中サービスエリアで休憩。
お互い缶コーヒーを飲む。
そしてまた高速を走り出す。
好天気。流れるメロディー。のどかな景色。ゆったりした気分になっていた。
ところが、またトイレに行きたくなった。
「高速降りる前に、サービスエリアに寄ってちょうだい」
と、夫に頼む。「わかった」と返事。
だが、あら?おかしい。
トイレに寄るはずが、高速を降りて一般道を走り出す。
見渡す限り田んぼだらけ。
「ねえ、高速降りる前にトイレ行きたいって言ったよね?」
「あ、忘れてた」
そう言いながら、夫はわたしのお腹を押す。
「止めて!ガマンしてるんだから!」
コンビニを探すが、当時は今程コンビニはなかった。
広々とした田んぼの景色。
わたしは脂汗。必死でガマンする。
するとようやく、ガソリンスタンドや、ドラッグストア、電気屋さんが見えてきた。
「どこでもいいから入って!」
と、頼むが、夫は無言のままその場を通り越して行く。
(えー!どうして?どうしよう!)
もうわたしは声にも出せないくらい、生理現象をこらえていた。
体中嫌な汗で、額から益々脂汗。
力を込めた手には、汗がびっしょりとなっていた。
「もうダメ!もれそう!」
「え?もれそうって…。ダメだよ」
それでも車を走らせる。
そして一件のレストランを発見。
やっとのこと、そのレストランの駐車場に車を停めた。
わたしは急いで車から降り、レストランのトイレに駆け込んだ。
ギリギリ、ほんとにギリギリセーフ!
ところが、吐き気と共に、すごい下痢になった。
下痢はなかなか止まらない。
脂汗も止まらない。
お腹も痛くなる…。
水をジャージャーひたすら流し、音が聞こえないようにした。
そして、やっと落ち着き、石けんで手を洗い、ハンカチで手を拭きながら廊下に出ると、そこに長椅子に静かに座った夫がいた。
(音、聞こえたかな…)
「お待たせ。ごめんね」
「ちょうど昼だし、ここで食べて行こう」
中に入ると、高そうな雰囲気のお店で、天井からぶら下がったオレンジ色の電気が、その雰囲気を物語っていた。
わたしと夫は入り口側の席に座る。
「メニューをどうぞ」
黒いパンツに白いワイシャツ、その上に黒いベストを着た店員さんが、姿勢よくメニュー表を持ってきた。
メニューに目を通すと、値段が恐ろしい。
やっぱり全ての料理が高かった。
一番安くてハンバーグステーキ定食。しかも、二千円。
「あ…」
「え…」
「じゃあハンバーグでいいよね?」
「う、うん…」
少しの間があり、さっきの黒服の店員が来た。
「ご注文はお決まりですか?」
「はい、ハンバーグステーキ定食を二つ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
黒服店員は頭をそっと下げ、テーブルから離れて行った。
「ごめんね、なんか高い店だったね」
「仕方ないでしょ。アンタがトイレって言ったから…」
「うん、ごめん…」
その後は、会話もなく静かに待っていた。
数分後、ジュージューと激しい音をたて、分厚い鉄板にのせられた、ハンバーグステーキと、白い丸いお皿に、フワッとのせてあるご飯を、黒服の店員が運んで来た。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
ハンバーグを目にしたわたしは、一気に食欲がなくなる。
夫は、あっつあつのハンバーグを、フォークとナイフで器用に切りながら、ほうばって食べ始めた。切り口からは少し赤みがが見え、肉汁と脂と共に滴り落ちていく。
わたしも夫に合わせて食べてみるが、吐き気がまた上ってきて、お腹も痛くなり、少し食べて、もうダメだ、と、思った。
わたしの手が止まり、鉄板の上にナイフとフォークを置く。
「なんだよ。食べないのか?」
「う…ん。食欲なくて…」
「高いんだぞ、食え」
「うん、でも緊張して食べられない」
「はあ?何言ってるの?勿体ないでしょ?」
夫は自分の分を食べ終え、仕方なくわたしのハンバーグにも手をかけた。
その顔は、本当に嫌そうな顔だった。
わたしの分を半分食べると、
「ダメだ。もうギブ」
と言い、コップの水を一気に飲み干した。
わたしは、ただただ、申し訳なくて、涙が出そうになった。
その嫌な空気のまま、車の展示会へ向かった。車の中では、二人共無言だった。
それがわたしの、過敏性腸症候群の始まりだった。
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