第六章 病気
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我が家は兼業農家。
独身の時は手伝っていたが、子育てで忙しかった頃は、田んぼの仕事は殆ど両親と、夫に任せていた。
わたしは、農作業の格好がとても恥ずかしくて、嫌だった。
母親と同じ、つばが麦わら半分で、頭部から半分は布で出来てある帽子を被り、布の腕抜きをし、青くてがんじようなゴム手袋と、赤い長靴を履く。
上は首の辺りが伸びた灰色のトレーナーを着て、下は部活で履いていたジャージに足をとおしていた。
「後ろ姿がお母さんそっくりね」
なんて、近所のおばさんたちからよく言われていた。
ちっとも嬉しくない。唇をすぼませ鼻の下にシワがよる。
近所の人なら仕方ないが、もし同級生にでも見られたら、その場にしゃがみこんで体を丸くしていただろう。
昔は三町歩、つまり畳六千枚の三倍くらいの田んぼがあった。
今はその半分。それでも多い。
夫が単身赴任で不在だった頃、父親から、
「これからは田んぼや、地区のこともやらなきゃダメだぞ。お前は十一代目なんだから、覚えておかないとダメだ」
と、言われるようになった。
田植えの時は、父親が運転する田植え機械に、苗を渡す。
今は薬かけは自動だが、当時は苗箱一枚、一枚に、紙コップの小さい計量カップで、サラサラと満べんなく上からかけていった。
風の強い日は、苗が乾きやすいから、こまめに見て歩き、じょうろで水をかけていく。
その苗箱から苗が取り出しやすいように、箱をドンドンと、前後地面に叩きつけ、専用のプラスチックの板を苗を持ち上げ、一枚ずつ入れておく。
田植え機械が、田んぼの端に戻ってくる前に、その作業を全てしておかなければならない。
父親は何時になくピリピリしている。
作業が遅いと、「何やってんだ!遅い!」と怒鳴られることも当たり前だった。
田植え作業は、雨が降っても、風が強くても、時期がきたらやらなくてはならない。
普段使わない体の筋肉が悲鳴をあげるが、終わるまで耐えなければならない。
その後は、深い堰に分厚い板を横に入れ、水の流れをゆるくし、泥水をためる。
その中にわたしが入り、苗箱をタワシでガシガシ洗っていく。
もちろん、青い手袋よりもがんじょうな、腕まで長さのある、オレンジ色のゴム手袋に変え、首から長靴まで長い、オレンジ色のビニール製のぶ厚いエプロンをかける。
別に、おそろいの色コーデにしたかった訳ではない。
たまたまウチにあるものを装着したまでだ。
その作業も大変で、泥水が顔にはねたり、長靴や手袋に泥水が入るのも当たり前。途中蛇やら、ネズミやら、モグラの死がいが流れてくる。
それは、それは、とても気持ち悪い。
その気持ち悪さもグッとガマンして、唇の上下に力を込め、何も言わずに三百枚近くの苗箱を、集中して洗っていく。
そこまでが、わたしの仕事だった。
顔は、日焼け止めをぬっても全く効果なしで、気づけばシミだらけ。長靴と手袋を逆さまにすると、ジャーと勢いよく泥水が流れる。
とても嫌な作業だ。
だが、田植えが終わったあとの田んぼの景色は、見応えがある。
青々と茂る苗が、水面に反射して、朝日が登る時も、夕日が照らす時も、それは美しく、自然の良さを感じることが出来る。
農家をしていない人は、田植えの良いところだけ見て、堪能するだろうが、実際やってみると、ものすごく重労働だ。
世界遺産の棚田の夕焼けのシーンを、テレビで見たことがある。
小さくて、形も様々な田んぼがとても素敵で、そこに更に夕日があたる光景は、テレビで見ても、絶景だと思った。
たが、それを守っていく人たちの苦労は、身に染みる程良くわかる。見えない大変な苦労も多いと思う。
わたしはその棚田の景色が、脳裏に焼きついて美しさに感動していた。
やり甲斐を感じる人もいるだろう。だけど、「伝統を守る」ということの、プレッシャーもあるだろうと、人ごとのようには思えなかった。
自然の力は素晴らしいが、わたしはその農作業の他に、家事もこなさなければならない。
ぐしゃぐしゃの頭を鏡を見ながら、さっと整え、(でも結局、酷いぐしゃぐしゃのままだ)、着替えをし、スーパーに駆け込む。
急いで家事を、こなさなければならないが、包丁を持つ手がぷるぷる震え、なかなか作業がはかどらない。
しかしそれにも負けず、頑張って料理も作っていく。
過酷だった。
稲刈り時期は、好天気の時ではないと、モミの水分量が高くなり、ライスセンターに運ぶと嫌な顔をされる。
コンバインが入れるくらいに、稲の束を手作業で、カマでザクザク刈り取っていく。
わたしはそれが下手だから、たまに長靴に切れ目が入れる時もあるし、勢い余って、手袋を切ってしまうこともある。
一枚の田んぼ、全てに四隅を刈らなければならない。
時には母親から、「猫の手より役にたつ」と、言われたり、作業が遅いと、父親から、「やる気がないから遅いんだ!」と、罵声を浴びせられた。
腰はかなり痛くなる。それでも怒鳴られないように、必死になって作業を繰り返す。
帽子を被った頭の上を、イナゴやトンボ、カエルなどが、喜んでぴょんぴょん飛び跳ねる。
わたしはトラウマで、とにかく虫が嫌いだ。
それでもに「嫌い」とは言ってはいけない。
時に母親は笑いながら、わざとこっちにイナゴを飛ばしてくることもあった。
「イナゴは貴重なんだよ。炒めて佃煮にして食べるんだ」
と言う。
だが、我が家では、テーブルの上に並んだことはない。
想像しただけで、無理!と思ってしまう。
田んぼ一枚、一枚にも名前もついている。それを何度教えられても、間違えてしまう。やはり、やる気がないからだろうか…。
頭は正直だ。
両親の勝手に、先祖代々を受け継ぐことになってしまったわたし。
地域の行事や、婦人部、農協の係なども、覚えなければならない。
散々両親から文句や嫌味を言われても、「やらなければいけないこと」だから、言われた通りに仕方なく、地味にこなしていく。
「頑張れ、もっと頑張れ」
「努力が足りない」
「情けない。それで家を守っていけるのか?」
毎日のように言い聞かせられる。
いったい、どこまで頑張ればゴールは見えてくるのだろう。
どこまで努力すれば、両親は満足するのだろう。
夫が留守の間、両親は、「それが当たり前の仕事」だと言い、今のうちに覚えさせようとしていた。
だが、家事と子育て、和希の高校の面談や、その先どうするかの先生との話し合い。
特に温花の剣道の付き合い、人間関係は、わたしを益々苦しめていくばかりだった。
たまにくる夫からの電話。
難しいことや相談しなければいけないことは、常に話していた。でも、納得しなければ、夫も話の途中でプチッ!とくることがあった。
顔が見れない分、声のトーンで、そのプチさ加減を判断しなければならない。
たまに怯えた。
わたしはとにかく、目の前でやるべきことが多くて、抱えきれなかった。
そのストレスからなのか、洋服を一気に十枚以上も買ってしまうこともあった。見たもの、手に取ったもの、全て欲しいと思った。
調子が良いと思った時は、大量のお肉や魚を買い、鼻歌をふんふんと歌いながら、料理の下ごしらえをし、冷凍保存していた。
美容院に行った時は、髪の毛をブリーチなしで、できるだけ明るくした。 時にはオレンジ、時にはピンク、黄色に下の方は赤く染めてもうこともあった。
家族にはかなり不評だった。
だが、そうでもしないと、ストレス発散が出来ない。
そのツラさを友達に、たまに吐き出していたが、他人の悪口を聞くのは良い気はしないだろうと、いつも頭の中で考え、途中でストップをかけることもあった。
友達はみな優しい。いつも共感してくれていた。大変だね、とか、よくやってると思うよ、と、言われただけで、心のぽっかり空いた部分が救われていた。
病棟の大部屋に入って一週間。こまめにX先生は顔を見に来てくれた。
「今日は顔色がいいですね」と、言われた時には、ホッとした。
「調子はどうですか?」
と、訊かれた時、
「窓から風がすぅすぅ入って、足が寒いです」
と、ちぐはぐな答えをしてしまった。
こっそりと本を読んでいると、
「まだ寝てなくちゃダメです!」
と、注意された。
よっぽど入院した時の様子が、悪かったのだろう。
今ならそれもわかる。
ご飯を食べる時、いつも罪悪感に苛まされた。
わたし一人だけ、こんなご馳走を食べていいのだろうか、デザートも毎日食べていいのだろうか、子供たちはちゃんと食べているだろうか…。
頭の中で毎日、毎日考えていた。
それから一週間後、個室に移動した。
わたしは思いっきり泣いた。
体は小刻みに震え、鼻はグズグズ、目は真っ赤になり、体中熱くなる。
その時、担当の看護師さんが挨拶にきた。
「挨拶が遅くなってごめんなさい。わたし、春日井と言います。よろしくお願いします」
とても若くて顔が小さくて、背は少し高いけど、体つきはきゃしゃで、可愛い女の人だった。
わたしも、
「よろしくお願いします」
と、ぐちゃぐちゃの顔のまま、挨拶した。
「あんまり目をこすると、はれぼったくなるから、タオルを水で濡らして、目を冷やした方がいいですよ」
と、アドバイスをくれた。
春日井さんは、いつも忙しい。わたしの目から見て、他の看護師さんたちより、常に動いているようだった。
顔が小さいわりには声が大きくて、存在感がある。
担当じゃない患者さんにも、時に厳しく、時に優しく、その人にあった声がけをしていた。
もちろんわたしのところにも、少しでも時間があれば、様子を見にきてくれた。
春日井さんとの相性はとても良く、そのうちお互いタメ口になり、内緒で個人的な話もするようになった。
年齢差はかなりあるのに、お互いの気持ちが手に取るように、わかるようになった。
わたしは春日井さんにすっかりハマり、依存してしまった。
X先生の診察はマメだった。長い時間をかけて、じっくりと話を聞いてくれた。
X先生との相性も良く、100%信頼出来る人だと、確信した。
今日の点数の話を聞かされ、
「十点満点で、今、何点くらいですか?」
その判断は、とてもわかりやすい診察方法だった。
ゼロの時もあれば、六点、七点の時もあった。
ゼロは全く動けずただしんどいだけ。六点は調子がいい。七点までいくとハイテンション。
これはあくまでも、わたしの場合であって、人それぞれ違うと思う。
気持ちはずっと不安定だったが、X先生との診察で、かなり癒された。
そして、病名がはっきりした。
双極性障害Ⅱ型。
普通のうつ病ではなかった。
声が出ないのは失声症。
ガラガラ声や、全く声が出なくなる時、のどの違和感でわかる。
そして胸にバーン!と押し寄せる圧迫感。胸がギューッと苦しくなり、のとがピタっとくっつき、声が全く出なくなる。
トイレの中で「あ、あ」と、練習してみるが、やはり出ない。
緊張で冷や汗が出たり、声の出ない苦しさで、涙が溢れる。
不思議なことに、頭で何も考えず、リラックスしていると、突然声は出た。
家にいる時は、殆ど声が出なかった。
家族やママ友(?)に風邪?と聞かれるが、違うと答えた。
そのうち、心配よりも笑われる方が多くなり、胸元を抑えるしぐさや、かすかな声で、「あ、あ」というのを真似され、ジブリに出てくる「カオナシ」みたいと、言われた時もあった。
わたしは泣くのをこらえ、苦笑いするしかなかった。
病気は、まだあった。
過敏性腸症候群、パニック障害、過呼吸。
パニック障害や過呼吸になった時は、死ぬ!と思った。
あれ程、死にたいと思っていたのに、いざとなると死が怖くなった。
X先生は、わたしが頓服を飲むと、すぐに部屋にきてくれた。
そして診察室へ移動し、わたしの話すことをパソコンに打ち込んだ。
「これは打たないでください」
と、わたしが言うと、わたしの目をまっすぐ見て、最後まで話を聞いてくれた。
ダアダアと、涙が止まらなかった。
そんなわたしを常に受け止めてくれた。
普段怒らないX先生が、一度だけわたしを叱ったことがある。
それは、わたしの人間関係。
人との距離感が、上手くとれなかったからだ。
わたしはすぐに、他人から話しかけられる。入院中も色んな患者さんから話しかけられたり、手紙を渡された。
そして、先生や看護師さんに相談できない内容や、看護師さんの悪口や、家族の問題など、しょっちゅう相談されるようになった。
それに答えてあげなければ…。と、必死に考えているうちに、わたし自身が折れてしまった。
しかも、回復に向かっていた時である。
わたしが頓服を飲んだと、先生が知った時、夜七時を過ぎた頃、わたしの部屋にいつもと違う顔つきで来た。
そのときわたしは、自分の不甲斐なさに、溢れでる涙と共に、自分で自分を責め続けていた。
その時、
「あなたは誰ですか!医者ですか!看護師ですか!」
と、訊かれ、わたしは泣いたまま、「何者かわからない」
と答えた。
X先生は大きく深呼吸し、いったん部屋を出る。三秒程たってから部屋の戸を開けて、
「あなたは患者でしょ?他の人の話を聞くことは、医者と看護師の仕事です。自分のことだけ考えてください」
と、冷静に言った。
わたしは、ああ、そうだ、相談されても困るだけなんだ。と、わかった。
自分のエゴだったのかもしれない。
X先生は真剣になって、わたしが苦しまないように、叱ってくれた。
それがありがたかった。
外来診察の時も泣いたり笑ったり、わたしは激しかったが、X先生はいつも真剣に寄り添い、わたしが笑うと満面な笑顔を見せてくれた。
「ボクの喜びは、患者さんが回復してくれることですよ」
と、言ってくれたことを、今でもはっきり覚えている。
途中、カウンセラーさんが、入ることになった。
わたしは前の病院のカウンセラーさんを思い出し、「入りません」と、言った。しかし、X先生は、「そういう決まりだから…」と言い、次回から診察前に、カウンセリングをすることになった。
カウンセラーさんは、福富さんという、女性の人だ。
相性は抜群だった。
前の病院の人とは全く違い、わたしが色々話したり悩んだことを、一緒に考えてくれた。
わたしは福富さんには、何でも正直に話が出来る。
素晴らしいカウンセラーさんに、出会えたと、思った。
それから二年後。
七月末の診察日、突然X先生が辞めると言いだした。
そのことを聞いた時は、「ああ、そうですか」と、わたしはまだピンとこなかった。
その二週間後、頭の中ですっかり理解出来た時、診察室でぼたぼた涙を流しながら、
「X先生以外の先生は嫌です!」
と、訴えた。
「あなたなら、どの先生でも上手くいくと思いますよ」
と、言われた。
X先生は県外から通勤していて、「子供のことで…」
と、辞める理由を話した。
わたしは、その日は納得しないまま、ふわふわと、地に足がついていないような感覚をし、そのまま椅子から立ち上がり、信じられない!と思いながら、病院をあとにした。
そして、二週間後。
その時はもう、頭の中で整理し、泣きながらも「わかりました」と、返事をした。
X先生は「ごめんなさい」と深々と、頭を下げていた。
X先生に、別れの挨拶をしたその日の夜、全身じんましんになっていた。 かゆくて、かゆくて、一晩中ガマンはしたつもりだったが、手で届く範囲内を、ガリガリ爪を立ててかいていた。
次の日に鏡を見ると、左目のまつ毛が全て抜け落ちていた。
夜中に、体中をかきむしったあとが、真っ赤になって残っていた。
21
次の外来日、X先生がもういないとわかっていても、待合室前の曜日ごとの担当医表で、X先生の名前を常に探していた。
いつかまた、戻ってくるかもしれない。
そう半分期待しながら、そのたびにぽつりぽつりと涙を流し、数年、待っていた。
しかしX先生は二度と来ることはなかった…。
X先生の次の担当の先生はY先生だった。
Y先生はX先生よりも背が高く、歩く姿も豪快だ。わたしは一瞬で嫌な雰囲気を感じ取ってしまった。
「調子はどうですか?」
「……」
「どこか具合でも悪いですか?」
「家にいると、二階の屋根から飛び降りたくなります。死にたい……」
「うーん、上手くいけば死ねるけど、失敗したら複雑骨折か、下半身不随で一生車椅子生活ですよ。家族に迷惑かけるだけですね」
「……?」
わたしはX先生がいないことも、まだ受け止められない状態で、ずっと泣いてばかりだったが、Y先生の言った一言に驚き、泣き止んだ。
(この先生は何なんだろう)
わたしは、別に優しい言葉を期待していた訳ではない。ただ、今の苦しい気持ちを吐き出したかった。
両親のことも伝えたかった。
でも、この先生にはこれ以上何も言えない。信頼なんて、全く出来ない。 (X先生、誰とでも合うなんて、そんなことないよ。助けて、助けて……)
わたしは震える手で、ハンカチをギュッと、握りしめ、返す言葉が見つからなかった。
「じゃあ、今日は同じ薬を出しておきますね」
そう言われて、席を立つように促された。
診察室を出たわたしは、少し放心状態だった。
思ってもいない言葉を言われ、待合室の椅子に座り、背中を丸め下を向いた。
そしてまばたきが、ようやく出来た頃、ほろほろと切ない涙が流れてきた。
ハンカチで顔を隠し、声を殺した。
二週間後、またY先生と会った。
何を話したらいいのだろう。言葉が見つからなかった。
ただどうしようもない気持ちだけが、心の中で空回りしていた。
そして大粒の涙を流し、緊張し、肩に力が入っていた。
「まだ死にたいですか?」
「うっうっうっ……」
「泣いてもX先生はもういませんよ」
わたしは顔をあげ、Y先生の目をまっすぐ見た。
トドメを刺された気がした。
「じゃあ、同じ薬を出しておきますね。はい、どうも」
そう言われ、席を立つように促された。
わたしは、先生を変えてもらいたくなった。このままだと、わたしがもっと壊れてしまう。そう思った。
すぐ傍にいた看護師さんに声をかけ、わたしは椅子に座った。
そして、小声で、
「あ、あの…、先生、を…か、変えて、…ほ、ほ、ほし、い……」
のどを振り絞るように、思い切って伝えた。
看護師さんは、
「あと一回、続けてみましょう。先生は変えられるけど、自分で直接、先生に言わないとダメなんですよ」
と、サラっと言われた。
わたしはその場でうずくまり、うおん、うおんと、声をあげて泣いた。
他の患者さんや、看護師さんの視線が、わたしに向けられているのがわかった。
薬をもらい、会計が済み、泣きはらした顔で外に出てみると、風が少し冷たくなってきていた。
残暑は続いていたが、蝉の鳴き声は、もう、聞こえなくなっていた。
そして、二週間後、覚悟を決めて
病院へ来た。
病院は唯一のわたしの居場所だった。それを取り戻す為に、全身に力を入れ、手の指と指を組み、力いっぱい握った。
緊張の汗が、背中をツーッと、一筋流れていくのがわかる。
薄手の長袖シャツを着ていたが、少し腕まくりをした。
今日は戦いだ。
表情がこわばっているのが、わかった。
「調子はどうてすか?」
Y先生の口が開く。
そしてすぐに、
「先生、担当を変えて欲しいです」
と、唇に力を入れ、かすかに震えているのがわかった。
Y先生の顔色が変わる。
「患者が医者を選べないように、医者だって患者を選べないんですよ!」
大きな声が、廊下まで響いているのが、背中で感じた。
「じゃあ、誰がいいんですか?次も合わないからって、もう変えることは出来ませんよ!」
「Z先生、が、いいです…」
「じゃあ、Z先生と相談してみますから、また二週間後来てください」
と、先生は吐き捨てるように言い、先生の方から席を立ち、診察室を出て行った。
一人診察室に残されたわたしは、ぼう然とし、でも、自分の口で話が出来たことに、納得していた。
すると、看護師さんが診察室に来て、その場から出るように促された。 わたしは待合室の椅子に、力尽きたようにヘトヘトになって座った。
体全体から、力がぬけていく…。
そしてすぐに、「わぁぁぁぁー」と、こらえていた涙を滝のように流した。
看護師さんは、わたしの背中をさすりながら、
「よく頑張って言えましたね。良かったですね」
と、他の患者さんに聞こえないように、小さな声で言ってくれた。
わたしはしばらく、その場で泣き続けた。
そして、また二週間後。
診察室に入る。
「Z先生の許可が出たので、次の診察日は水曜日にしてください。薬は同じに出しておきます」
Y先生はそう一言、言い、また先に診察室を出て行った。
わたしは安堵の涙をつつつーっと流し、「勝った」と思った。
Z先生の初めての診察日。
以前とは違う緊張感を持っていた。 この時点では、まだ泣いていなかった。
待合室の椅子にそっと座り、名前を呼ばれるのを待った。
カバンの中のペットボトルのお茶を取りだし、ごくん、ごくん、と、のどをうるおす。
そして、すぐに名前が呼ばれ、一番の診察室へ入った。
Z先生は体が丸くて、メガネをかけていた。一瞬身を引いたが、よく見ると、前の病院の中野先生に、雰囲気が似ていた。
Y先生より大丈夫だ、と、空気をよんだ。
「今回から担当になりました。よろしくお願いします」
Z先生は淡々と、挨拶をした。
「よろしくお願いします。すみません、わがまま言って…」
「いえ、いいですよ。X先生からすぐに気持ちを切り替えろと言われても、難しいと思いますからね」
「ありがとうございます」
「ただ、Y先生も悪気はなかったと思いますよ。それだけはわかってください」
「はい…」
Z先生は穏やかな表情で、受け止めてくれた。これでようやく、またわたしの居場所が出来た、と、思った。
そして、ストレスでじんましんが出ていることを、やっと相談出来た。
Z先生は、
「今日からじんましんの薬も追加しますね」
と、言いながら、パソコンを打った。
ストレス性のじんましんは、それから三年続いた。
Z先生の診察方法は、X先生と全く違った。
時々「ん?」とわからないこともあったが、一生懸命考えてくれていることは、感じ取れた。
話もわかりやすく、「いつも見守っていますからね」、「大変な環境でよく頑張っていまね」と、理解してくれた。
わたしが泣きじゃくり、家にすぐに帰りたくないと言うと、
「別室で休めるように看護師に伝えておきますから、遠慮なく言ってくださいね」
と、気遣ってくれた。
そう言われ肩の力がぬけたけど、そう言われたことで気がラクになり、別室で休むことはなかった。
一年に一度のペースで入院しているが、いつも個室を希望すると、なるべくその意志を、看護師さんに伝えてくれ、個室を準備してくれている。
だが、看護師長さんが変わると、病棟の雰囲気や決まりごとも変わってくる。
少しずつ厳しくなり、その都度それに合わせていくのが、大変になってきた。
それでもここが、わたしにとって安らぎの場所。
今こうして、時々外を見ながら、スマートフォンでつらつらと打ち込んでいると、心がなごむ。
Z先生との関係は、X先生みたいに100%とはいかなくても、70%くらいだ。そのくらいでも充分だと思う。
22
双極性障害。
I型と、Ⅱ型がある。
I型は躁状態が長く、激しく、うつ状態が短い。
I型の人を見たことがあるが、わたしとはまるで逆で、声がものすごく大きく、態度もでかい。
興奮していると、早口になり、壁やガラスを蹴ったり、看護師さんに怒鳴ることもしばしば。
状態が安定してくると、普通の人に戻る。
感情があんなに乱れると、人が寄りつかなくなることもあるのではないか、と、つい気にしてしまう。
怖く見えた時と、落ち着いている時のギャップが激しい。自分でも絶対傷ついているだろうなと、思う。
だから、周りの人は、急に性格が変わったとか、離れた方がいいとか思わず、怖いかもしれないけれど、病院へ行くことを、勧めて欲しいと願う。
時に病気に気づかず、事故を起こしてしまう可能性もあると思うから
…。
わたしの出会ったI型の人は、有名大学を出て管理職に就いていた。話してみると、とても頭がいいのがわかった。
冷静に人を判断し、見極める力がある。
こんな人が病気になるなんて、神様は酷いなと思った。
退院する前日、コーヒーを飲みながらホールで話した。
「誰にも見送られず、そっと退院したい。でもあなたにはなぜか、伝えておきたかった。部屋から出ずに、時間になったらそっと見送って欲しい」
そう言われた — 。
わたしは双極性Ⅱ型。
I型の人と違って、うつ状態が長くて、躁状態は軽くて短い。
うつ状態が長いから、うつ病に間違われる可能性もある。
躁状態は軽いから、今日はよく動くな、とか、やけに元気だなと思う時が危ない。
うつ状態だとすぐにわかるが、躁状態の時は、殆ど気づかれにくいと思う。
「なんだ。調子いいじゃないか。治ったんだな」
と、思われるが、本人からしてみれば、かなりのSOSを出している。
うつ状態の時は、うつ病と同じ症状。
でも、同じうつ状態でも、「うつっぽい」と、完全な「うつ状態」とは、全く別もの。
うつっぽいだったら、自分の状態、状況を判断できる。その時に病院に行けば、早めの対策で、治る可能性も高い。
完全なうつ状態は、自分の置かれている状況がわからない。自分ではうつということを、絶対認めない。認めたくないのだ。
朝起きれない。カーテンを開けたくない。顔を洗えない。歯磨きも出来ない。着替えも嫌だ。寝ぐせなんてどうでもいい。
人に会うのが怖い。乗り物が怖い。
誰かが、自分の悪口を言っているような気がする。
太陽がやけに眩しい。陽にあたりたくない。
でも、仕事は頑張らねば…。
家に死ぬ思いで帰る。その場に倒れこむ。動きたくない。誰の話も聞きたくない。
背中が丸くなり猫背になる。下を向いて歩く。顔の皮ふが全部垂れ下がり、アゴと首の境い目がなくなる。目が開かなくなる。
歩き方もとぼとぼになる。動作がゆっくり。
ご飯も食べたくない。むしろ吐き気がする。のどがやけに乾く。お風呂なんて入りたくないし、そんな気力も体力もない。
下痢になる。
トイレに行きたい。でも行きたくない。めんどくさい。でも行かなくちゃ。仕方ない。ハイハイしてゆっくり移動。
眠れない。もしくはずっと寝ていたい。まぶたが開かない。
体に脱力感がある。もしくは緊張して体が痛い。こわばる。
息が浅い。背伸びなんてむり。頭がフラフラする。
目の前がチカチカする。頭の中が真っ白になる。頭が重い。
体が重い。かったるい。動けない。心臓がバクバクする。疲れた。ただ疲れた…。
部屋の片付けが出来ない。部屋があっという間に散らかっていく。洗濯してたたんだ洗濯物が、どんどん積み重なっていく。何とかしなくちゃ。頭ではわかっている。でも、体が動けない。
誰も話しかけないで欲しい。期待なんてしないで欲しい。ほっといて欲しい。一人になりたい。
この場から逃げたい。でも勇気がない。
性欲がなくなる。うっとおしい。
幻覚と幻聴に悩まされる。
悪夢にうなされる。
苦しい。ツラい。しんどい。
死にたくなる。
死にたい、死にたい、死にたい…。
でも、一人にしないで。誰か助けて。わたしを抱きしめて — 。
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