第五章 異変


17


母親の口ぐせの一つで、「顔で笑って心で泣いて」という言葉がある。

それを何度も、何度も聞かされた。

だからわたしは、家の中では泣いてはいけない、家族の前では涙を見せてはいけない、と、心に決めていた。

ところが、姉たちが出て行ったあと、母親は泣くようになった。

テレビを見ては泣き、父親から八つ当たりをされては泣き、お祖母ちゃんが認知症になり罵られると泣き、気づけばいつも泣いていた。

ある日、父親が苛立ちを抑えることが出来ず、机の中身をひっくり返したり、母親の大切な着物や帯を、タンスから出し、ぐちゃぐちゃにして、そのままの状態で、どこかにでかけてしまった。

わたしはその状況を見て、泥棒が入ったと思い、母親に警察を呼ぼうと言った。

ところが母親は、

「これはお父さんがやったことだよ。だから誰にも内緒だよ」

と、わたしに口止めをした。

私は頭の中が白くなり、母親は何を言ったのだろうかと、受け止めることが出来なかった。

そして母親は肩をガックリと落とし、背中を丸め、鼻をすすり、泣きながら着物を静かにたたみ始めた。

娘の前でその姿を見せた母親に、苛立ちと怒りを覚えた。

何が、顔で笑って心で泣いてだ!アンタは思いっきり、感情を現しているじゃないか!

その時からわたしは、絶対家族の前では泣かない!と、心に誓った。

和希と温花の入学式や卒業式でも、一切泣かなかった。

子育てで気持ちがいっぱい、いっぱいになっても、泣いてはいけないと思った。

温花の剣道の先生や、ママ友(?)から浮いた存在になり、一人ぼっちを感じても、泣いたりしなかった。

わたしの心の中の、小さなわたしが、透明で四角くて、厚い箱の中で体育座りをしてうつ向いていても、じっとガマンをしていた。


そんな時に、わたしの中に静かに少しずつ暗闇が襲ってきていた。

絶対泣かないはずなのに、洗濯物を干しながら、清くて美しい雫が、勝手に瞳からぽつり、ぽつりと溢れてきた。

え?どうして?

わたしは訳がわからなかった。


季節は五月。

若葉の色が段々と濃くなり、太陽が眩しく見えた。庭の花たちも賑やかに咲き始め、太陽の熱で地面も風の流れも暖かく感じた。

それなのに、わたしの雫は気持ちとうらはらに、頬をつたい、こぼれ落ちていく。

急いで袖口で涙をごしごしと拭き、大きく深呼吸。

そして何事もなかったように、リビングに行った。

気づけば出勤時間。

急いで茶碗を洗い、片付けをし、「行ってきます」と言いながら、玄関の扉を開けた。

車に乗りこみ運転をし始めると、また雫が溢れ出す。

会社に着くまでのほんの短い間、わたしはずっと鼻をグズグズさせ、視界が悪くなるたび、袖口で雫を拭い払った。

会社が近くなると、雫は不思議と収まった。

それからいつも通りに、淡々とやるべき事をこなしていった。

そんな日がずっと続いた。

すると今度は、声がガラガラになり始めた。

風邪かと思い、風邪薬をしばらく飲み続ける。

症状は良くなるどころか、益々悪化していく。

ママ友(?)たちからは、風邪?とか、大丈夫?とか、色々聞かれるが、いつも平気なふりをしていた。

そして遂に、出なくなった。

のどにいつも何かが引っかかり、ぴたっとくっついてる感じがし、食べ物を飲み込む時でも、苦しくなる。

すると、胸の圧迫感が強く現れ、手で抑えながら胸の辺りをなでてみた。

症状は変わらない。

美鈴ちゃんに話すと、「早めの更年期じゃないの?」と、言われた。

まだ四十一歳の時だった。


その前まで、四十二歳の厄年の係を務めた。本当は係とか、役とかとても苦手だ。だけど、他にもメンバーがいたし、わたしの役目は往復ハガキの受け取りで、クラスごとにわけること。そんなに難しいことでもない。

当日。

一次会は広い和室で、クラスの名簿順に、席が設けられており、座布団の前には、天ぶらや、お刺身、しいたけと人参と高野豆腐の煮しめ、玉子焼き、ワカメときゅうりの酢の物に、イチゴなど、色々な食材が朱色のお膳の上に鎮座していた。

最初に司会者のアカネが挨拶し、その後各先生方の挨拶、そして役員の久美ちゃんが声高々に「乾杯!」と言った。

初めは厳かな雰囲気だったが、アルコールが進むと、みんなハイテンションになっていく。

各自ビールビンを持ち、お酌をしながら席を回る人、友達通しで、各グループに別れて話す人、久しぶりの先生との再会に涙する人、様々な会話がバラバラになり聞こえてきた。

そして、次第にわたしの周りには、誰もいなくなっていた。

わたしは大勢でいるのも、お酌をするのも苦手だ。

ずっと一人、同じ座布団に座り、みんなの様子を見ていた。

まるでわたしだけ、小さな透明の

箱の中に閉じ込められているような、そんな気分になった。

周りをキョロキョロしながら、一口ずつ、小鳥のように突っついて食べる。

どれを食べても冷めていて、美味しいとは感じなかった。それは、わたしの気持ちを現しているようだった。

仲の良い千夏や、まるちゃんのところにも行けなかった。

二人は人気者で、既に周りに人だかりが出来ていた。

わたしの入るスキはない。

早くその場から逃げたかった…。

そして二次会。

一応司会を頼まれていたが、既に浴衣を脱ごうとする人、かなりはしゃぐ人、チームを作りゆっくりと話し合う人、マイクを数人が奪い合い、何か、うだうだと言い合う人…。

わたしの司会の出番は、全くなかった。

わたしは少しホッとした。

だが、どの雰囲気にも馴染めなかった。

薄暗い部屋でも、赤いソファが目立ち、ミラーボールがキラキラと輝く中で、一人孤独を感じていた。

思い切って席を動いてみる。

一人の男子が、「相変わらずブスだなあ」と、わたしに言った。

そのあと飲め飲めと話かけられるが、わたしはウーロン茶。

お酒は飲めない。

重くて違う空気が、ゆっくり流れるのがわかった。

無理に話に入ったふりをし、笑いながらうなづくが、最初に話しかけてくれていた人たちも、わたしの方を見なくなり、わたしはまた孤立してしまった。

そんな状態のわたしに、誰も気づくことはなかった。

こんな時に、弥生がいてくれたらな、と思ったけれど、弥生は旦那さんと離婚し、そのあとすぐに再婚。そして県外で暮らすようになり、子育てで忙しくしていた。

弥生だったら、もしかしたら、ベロベロに酔いながらも、わたしの存在に気づいてくれていたかもしれない。


楽しかったような、寂しかったような歳祝いは、一泊二日で無事に終わり、とりあえずわたしは安堵した。

その後、役員だけで、別口で温泉に泊まりに行こうと決まり、温泉も予約したが、リーダー的存在のアカネに不幸ができ、彼女は行けなくなった。

わたしはドタキャンしてしまった。 体の調子が悪いとウソをつき、本当は、行きたくないという気持ちの方が勝っていたのだ。

泊まりに行く当日は、わたしの誕生日だった。

みんなはサプライズで、わたしの為にケーキを買ってくれていた。

その話を聞き、胸がぎゅっと締め付けられ、苦しくなり、弱い自分を責め、声をあげて大泣きしたくなった…。


そのあとからである。

自分を責め続け、みんなに悪いことをしたという、罪悪感をひきずっているうちに、体の異変に気づいたのだった。



18



婦人科や耳鼻咽喉科、胃腸科内科など、次々と病院を渡ったが、診断はいつも、「うつ病」と言われた。

まさか!わたしがなるはずがない!

信じられなかった。

しかし、次第に病状は悪化していく。

朝が苦手になり、起きるのがツラかった。カーテンを開けることが苦痛だった。太陽の光がやけに眩しく感じた。

体全体が重くなり、いつも誰かをおんぶしているかのように、苦しくなった。

足にも重りがついているような気がして、思うように体が動けない。

それでも家族に秘密にし、普通にふる舞い、家事を行い、仕事に行く。

そして夕方は、夕ご飯の準備をし、

中学校に行き、練習を見、温花と一緒に帰ってくる。

そんな毎日を送っていた。

ただただ、家族にバレないようにと、必死だった。

ある日、夕ご飯の支度が終わり、温花を迎えに体育館に行き、出てくるのを待っていると、急に頭から血の気が

サーッと引き、体が小刻みに震え出した。

心臓の音が今まで感じたことのないくらい、ドクンドクンと激しく脈打ち、口から心臓が飛びだすのではないかと思った。

体全体が冷えてくるのがわかる。

襲ってくる吐き気と下痢。

冷や汗、脂汗が流れだしてきた。

呼吸が浅くなり始めた。息ができない。

目の前に、チカチカと斜めに光るものが見え、まばたきが早くなり、ふっと体が軽くなった。

もう倒れそうだった。

もうダメだ。体がもたない。

そう思い、温花の仲良しの子のおばあちゃんに、お迎えを頼み、車のハンドルを強く握りしめながら、急いで家に帰った。

そしてトイレに駆け込み、上から下から、体の中にあるもの全てを出し切った。

両親は驚き、

「温花は一緒じゃないのか?」

とだけ、訊いてきた。

わたしは下痢になった、とだけ答えると、母親は、

「なんだ、それで慌ててきたのか」と、笑いながら言った。

その症状も、幾度か繰り返すようになった。

のちに、これがパニック障害だと知った。


まるちゃんは中学からの友達で、付かず離れずのちょうどいい距離感を保ちながら、一緒に過ごした。

高校は別々だった。

まるちゃんは、ショートカットだった髪の毛を伸ばし、メガネをはずし、コンタクトレンズを目に入れるようになった。

私から見ても、華やかに見えた。

その姿も新鮮で、とてもよく似合っていた。

一時、疎遠の時もあったが、何かあるとわたしは、まるちゃんの家に行った。

いわゆる、駆け込み寺だった。

まるちゃんは活動的で、発想も豊か。行動力もあり、物事をはっきりと言う。たまにはっきり過ぎて、そうか…と、悩むこともあるけど、まるちゃんが言うと、嫌味を全く感じない。

彼女の長所でもある。

だから、自然に人も集まってくるのだと思う。

初めての仕事は、お互い相談などしていなかったけど、たまたま同じ職種になり、二人共驚いた。

そして、二人共、退職が早かったことも驚いた。

笑ってしまう。

その後は、それぞれ全く違う仕事をしたけど、仲良しは変わらなかった。

日帰り温泉に行ったり、旅行に行ったり、まるちゃんといると、心の中の小さなわたしが、少しだけ顔を覗かせていた。

函館に行った時は、当時食器用洗剤(確かチャーミーグリーンだったような?)のコマーシャルで映った場所と、同じ坂道で、海をバックに手を繋ぎ写真を撮った。

夜は函館の、夜景を見た。

エメラルドのグリーン、トパーズの黄色、ルビーの赤、白く輝くダイヤモンド。色とりどりの光るものたちが、まるで宝石箱のように、美しく輝きを放っていた。

風が吹き、寒かったけど、抜群の好天気で空気が澄んでいて、その景色を目に焼き付けた。

とても贅沢な気分だった。

ちょうど、青森と函館を結ぶ、青函トンネルが出来た頃だ。

新幹線で六時間かかり、初めは、景色を見るのが楽しくて、はしゃいでいたけれど、そのうち寝ることにも飽きてしまった。

福島の時は、ピンク色のリカちゃんキャッスルや、いわき市のスパリゾートハワイアンズに泊まった。

水着姿になり、中にある流れるプールで遊び、並んで写真を撮った。

夜はフラダンスを見て、すごいなあと感心した。

あんなに滑らかに、時に激しく腰を振るのは、相当練習したんだろうなと、勝手に妄想し、目を奪われた。

ファイヤー!も危なっかしくて、でもすごく上手で、毎回やっても命がけだと思うから、緊張するだろうなと、感動しながら見ていた。

京都にも行った。寝台列車で長い時間揺られ、起きた頃には京都に着いていた。

京都駅は広かった。

わたしはすごい方向オンチ。

でもまるちゃんは、上の案内板を見て、すぐにバス乗り場がどこかわかって、ズンズン歩いて行くから、すごい頼りになると思った。

わたしはただ迷わないように、必死で、ドキドキしながら、まるちゃんの後ろを歩いた。

市内コースの観光バスに乗り、ガイドさんの案内で、街中を見渡す。

ガイドさんは声が良く、滑らかなトークで、案内してくれた。

金閣寺に、銀閣寺。

銀閣寺の庭園はちょうどいい散策のようだった。

この日はあいにくの曇り空だったけど、晴れていたら、金閣寺の神々しさと、銀閣寺の庭園のみどりも、もっとキレイに見えただろうな、と想像した。

清水寺にも行った。高校の修学旅行以来だ。

母親は少し値の張る買い物をするたび、清水寺から飛び降りたつもりで買ってきた、と、よく言っていた。

もう何十回も飛び降りたであろう。

京都で人気の、顔のあぶらとり紙を買ったり、ブラブラ歩いてあちこちの有名な神社へも行った。

舞妓さんの格好もし、写真を撮った。

顔と首を真っ白く塗り、カツラを被ると、何だかお互い可笑しく見えた。

疲れた時は、お店が沢山並んでいる、甘味処の一つの店に入り、抹茶のアイスに、あんこがのっているものを食べ、のどと体を癒した。

普段なら「旅行?」と言えば、怒りだす両親だけれど、「まるちゃんと一緒なら」と、反対せずに快諾してくれた。

計画や切符の手配は、全てまるちゃんがしてくれた。

わたしにとってこの時のことは、とても懐かしく、自然体の自分になれ、まさに、青春しているなあと感じる程の、楽しい出来事だった。

まるちゃんは太陽で、わたしは月。

まるちゃんが光なら、わたしは影。

まるちゃんが活動的なら、わたしはマイペース。

そんな関係だなと、一人で考えて安心する。

それがちょうどいい。


久しぶりに、ランチの約束をした。 盛岡に集合。

まるちゃんは唐揚げ定食、私はトマトのパスタを注文した。

唐揚げのニンニクとしょう油の香ばしい匂いが、さぞ美味しかろうという期待をさせる。

トマトのパスタには、大きくクシ型に切ったトマトが、たっぷり入っていて、その他にエビや輪切りのイカがのせてあり、思っていた以上にボリュームがあった。

とちらもできたてだから、ほあん、ほあんと、白い湯気が揺れながら、上に向かって上っていた。

わたしは過敏性腸症候群でもある。 二十代からの付き合いだ。

違う場所でのランチの場合、いつもお腹に無難そうなパスタを選ぶ。

この日もそうだった。

料理を堪能し、コーヒーを飲む。

するとまるちゃんが、わたしの顔を見て、いつもと違うと気づいた。

眉間にシワを寄せ、目は半分くらいしか開いてなくて、頬は垂れ下がり、ほうれい線がクッキリとはっきり見えている。

そして声もガラガラ声。

明らかに様子が変だった。

わたしから見れば、いつもより調子が良かったし、まるちゃんにも会いたかったから、頑張って盛岡まで来たのだった。

椅子に座ると体がかなり猫背になり、肩も丸くなる。

首も前に出し、アゴも突き出ていた。

まるちゃんに、最近の体の調子を話した。

今日はガラガラ声だけど、普段は圧迫感があって、声が出なくなる。 いつも黒い何かに取りつかれているようで、背中は像にでも踏まれているようだ。足には重罪人のように、チェーンをつけられて、黒くて丸い鉛を引きずりながら、歩いている感じがする。と、打ち明けた。

まるちゃんは目を丸くした。

そして、ランチを食べ終わり、わたしの車に二人で乗ると、助手席に座ったまるちゃんが、スマートフォンで一つの動画を見せてくれた。

「黒い犬」。

全部英語で、言葉はわからなかったけど、出てくる映像だけで内容がわかった。

全て今のわたしと同じだった。

まるちゃんは、短期のバイトで知り合った人の中に、うつ病にかかった人がいて、それでこの動画を見たと言った。

その人は薬を飲みながら、仕事をしているという。

わたしは黒い犬の動画を見ながら、ボロボロ涙を流した。

それはやっと、自分が病気なのだと確信し、それと同時に、ずっと張り詰めた思いが吹っ切れた気がした。


突然カミナリが鳴り、ボツボツと大きな雨粒が降ってきた。

フロントガラスに、訳のわからないぐにゃぐにゃの雨粒の絵が描かれた。

雨は勢いが強く、あっという間に地面一面がビシャビシャに濡れた。

わたしは益々涙が溢れだす。

この降ってくる雨粒のように…。


しばらくすると、雨は静かにやんだ。

ワイパーを動かし、フロントガラスで、滴り落ちていく水を払う。

曇り空の中に、ところどころ、薄い水色が見えてきた。それと同時に、目の前には、大きな虹が広がっていた。


わたしはまるちゃんに連れ添ってもらいながら、心療内科へ通うことにした。


この時は、まだ両親には秘密にしていた。

病院へは冷え性を治す為に通院することにした、とだけ、伝えた。

夫には正直に話した。夫は終始無言で、短い間があいたあと、「そうか」とだけ呟いた。


仕事にも影響がでた。

仕事中に、パニック障害の発作が出そうになったり、仕事が終わり、お昼ご飯を食べようとした途端、激しい過敏性腸症候群に襲われた。

それが段々と、仕事に悪影響を及ぼすようになり、体と心がバラバラになったような気がして、十年近く働いた仕事を辞めることにした。

家庭科が嫌いで、料理が苦手で、友達から「調理の仕事って大丈夫なの?」と心配された。

でも結局、なんだかんだ言っても、酷い決別があっても、一番長く働けた。

それは、わたし自身も無我夢中だったこともあるし、白石さんは置いといて、上田さんや五所川原さん、靖江さんという、素晴らしい上司に恵まれたからだと思う。

そしてこの仕事を紹介してくれた、由香里ちゃんにも感謝しなければならない。

両親からは「グズだ!のろまだ!三人の中で一番出来ない!」

酷い時には、

「アンタの子育ては失敗した」

と、母親に言われた。

それでもそれなりに頑張った自分を、初めてエラい!と思った。


会社と食堂に深々と礼をし、駐車場をあとにした。



19



大きな総合病院の、心療内科への扉を開けるには、とても勇気がいった。

二、三回まるちゃんに付き添ってもらい、あとは、わたし一人で通院した。

担当の先生は、パンダみたいに丸くて大きい人だった。

中野先生。男の人だ。

わたしは家では泣かないけれど、車で来る途中から、涙が止まらなかった。

運転中、死にたいと隠していた思いが、顔を出す。

大型トラックが来るたびに、自然にハンドルが反対側に向かおうとする。

死にたい、死にたい、死にたい…。

みんな大きくなったから、わたしの役目は殆ど終わり。死んでもいいよね。と、心の中で悪魔がささやく。

ボーッとしていると、赤信号でも前に進んでいて、クラクションを鳴らされた。

両脇の車がキキーッ!と、大きな音をたてて、急ブレーキを踏んだ。

その時わたしの車は、交差点のど真ん中にいた。

それでも死への恐怖はなかった。

中野先生にもそのことを話をする。中野先生は、最後までうなづきながら、わたしの話を聞き、共感するが、死んだら家族が悲しみますよ、と、静かな声で口を開いた。

薬もなかなか合うのがなくて、安定剤も、うつの薬も、殆ど効いてる感じはしなかった。

途中で女性のカウンセラーさんと、話をすることになったが、そのカウンセラーさんは、わたしが話さなければ、全く話をしない。

無言が続くか、泣き声だけ部屋中に響くか…。

ある時にはわたしが泣くと、一緒に泣きだした。

時々、片足で、貧乏ゆすりをしているのがわかった。

話を逃す為なのだろうか…。

わたしはもう、カウンセラーは要らないと、中野先生に言った。

中野先生は一生懸命薬を考えて、変えてくれていたが、副作用が出来、酷い過食になったり、全身じんましんになり、皮膚科に行き、完治するのに二週間程かかった。

そして遂に、「ここではもう無理です」と、言われた。

頭の中が真っ白になり、わたしは見捨てられたと思った。

ガックリと全身の力が抜け、ヒザを抱え、頭を下げたまま、もうどうしていいのか、わからなくなった。

やっぱり死ぬしかない…。

そう思っていたら、

「もっと専門の病院を紹介します」と、先生は言った。

たまたま新患の空きがあり、次の日精神科に一人で来た。

精神科に着いた時は、歩くこともままならなかった。

看護師さんに両脇を抱えられ、待合室で名前を呼ばれるのを待つ。

そして、背の高い先生が、白衣を着ながら診察室、三番の部屋に入って行った。

わたしも殆ど同時に、看護師さんに支えられながら、診察室に入り、椅子に座った。

泣きはらし、顔全体が赤くなっていた。体に力が入らず、顔をあげることすら出来なかった。

先生はしばらく無言のまま、パソコンに目を通す。

そして、一言。

「入院しましょう」

と、言った。

「入院はイヤです!通院じゃダメですか?」

「もうあなたは、普通の判断が出来ませんから、ご主人に電話しますね」と、言って、先生は部屋を出た。

(嫌だ、嫌だ、怒られる。どうしよう)

数分後、先生は戻ってきて、

「ご主人の許可が出ましたから、入院しましょう」

と言った。

(まさか?怒らなかったの?)

「わ、わかり、ました…。でも準備があるので、三日ください」

「いいですよ」


それが、初めて担当になった、X先生とのやり取りだった。

そしてすぐに、違う看護師さんに病棟を案内してもらい、何が必要か、メモを取った。

この時わたしは、冷静になっていた。

「メモを取る人、初めて見ました」

病棟を案内してくれた、男の看護師さんが、ポロッと口にした。

わたしは、「変ですか?」と訊くと、「いいえ、真面目なんですね」と、言われた。

夕ご飯の時、みんなに今までの病院通いと、経緯を話した。

体のこと、気持ちのこと、ずっとガマンしてたこと…。

そして遂に、入院しなければならなくなったこと…。

夫は怒りのオーラを放ち、無言だった。

母親は唖然として、般若のような顔をした。

父親は赤鬼のような顔をし、

「己の精神力が弱いからだ!オレみたいに強くなれ!」

と、言った。

わたしはその言葉で、怒りの感情が一気に湧き出した。そして、

「じゃあ、言ってやろうか!アンタのせいだよ!」

と、父親に指を指し、声を荒らげた。

父親は半分笑い、

「オレは自分の力で、のし上がってここまできたんだ。人のせいにするな!」

と、返ってきた。

わたしはそれ以上、何も言わなかった。

言ってもムダだと思った。

次の日から、入院の為の買い物を、一人で全部揃えた。

心の中で、悔しさと、虚しさと、でも、助けて欲しいと叫んでいた。


そして三日後、大部屋に入院した。

わたしはお産以来の入院だった。

体の異変が起きてから、三年目を迎えようとしていた — 。


















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