第三章 運命

12


家庭環境はめちゃくちゃだった。

特に母親が踊りのお稽古でいない時、父親はいつに増してもイライラし、日本酒を入れたコップを、ドン!とわざと大きく音を立てて、テーブルに置いた。

貧乏ゆすりも激しくなり、とてもじゃないけど、一言でも口を開ける状態ではなかった。

母親が調理していったおかずには、迷い箸をし、自分の箸で突っつき始める。

使用人(男は)、ご飯をよそった茶碗に、牛乳をなみなみとかけて、ズルズルと音を出しながら口にかっ込む。 お祖母ちゃんは民謡を歌ったり、お皿を舐める。それに対して父親は、

「うるさい!黙っていろ!」

と、言い、タバコの量も増えていく。

「まだ生きてるつもりなのか?クソババア!」

「それが親に言う言葉か!」

「うるせえ!早く死ね!」

「殺せっ!殺せー!」

父親もお祖母ちゃんも、どちらも譲らず、激しい罵倒を繰り返し、父親は怒りに任せ、食器を手と腕でザザーッと床に落とす。

ガシャッ、ガッシャーン!と割れる音がキッチンとリビングに鳴り響き、食器はバラバラに床に散らばった。

それがものすごい音に聞こえた。

わたしは驚き、硬直してしまう。

その後、使用人(男)とわたしと二人で、投げ出されたおかずと、壊れた食器を無言で片付けた。

わたしは込み上げてくる憎しみを、必死で抑え、唇をキュッと噛み、あまりの恐怖で、泣くことも出来なかった。

そんなことが、当たり前の日々が続いた。

母親に言っても信じてもらえず、

「わたしはそんなこと知らない」

と答えるだけだった。


高校生の時、部活動が終わった頃、わたしは大嫌いな日本舞踊のお稽古に、母親と共に行ったことが二回程ある。

母親はいつも踊り、踊りと言っては、お稽古を頑張り、県民会館に行って発表会をし、その為に家を留守にすることが多かった。

きっと、意地悪なお祖母ちゃんから、逃れる為だったのだろう。母親にとっては唯一の趣味で、楽しい時間だったと思う。

わたしはいつもいない母親に、不満と苛立ちを抱いていた。

ところが、突然踊りのお稽古に行ってみたくなった。

母親は「えー?」と不服そうな顔をしていたが、最終的に一緒に連れて行ってくれた。

私は踊りの先生と、その他の人たちに挨拶し、早速「八戸小唄」というのを教わった。

「娘さん、お母さんに似て、センスあるわね」

「初めての割には上手ね」

と、先生や他の人たちが口々にほめてくれた。

わたしはお世辞だとわかっていたけど、少し母親に近づけたような気がした。

ところが母親は、

「そんなお世辞やめて。本気にするから」

と、笑いながら言った。

みんなは「そんなことないわよー」と、その場は笑顔で、初日が終わった。

帰りの車の中で母親は、

「本気にするんじゃないよ!あんな踊りで恥ずかしい。顔から火が出そうなくらいだった!」

と、改めてダメ出しをされた。

(あー、そうなんだ…。お母さんはわたしのこと、恥ずかしいと思ったんだ…)

そして二回目も練習しに行ったけれど、結局母親から同じことを言われ、ダメ出しだけされて、そこでわたしの踊りに対する勢いは、すっかり冷めてしまった。

わたしは母親に、ほめてもらいたかったのだ。

こんな出来損ないのわたしでも、一緒に何かを行動することで、認めて欲しいと、思っていた。

だが現実は違った。

わたしは何をやっても「ダメな子、恥ずかしい子」であり、ほめてもらったことはなかった。

わたしの存在はないのだ。と、確信した。


就職しても、一つの仕事には長く続けることが、出来なかった。

だいたい一年か、一年半か、そのペースで辞めていた。

職業安定所で相談した時、わたしは、

「人からありがとうって言われる仕事がしたい」

と、言うと、担当になった人は小声でバカにしたように笑い、

「そんな夢のような仕事なんてありませんよ」

と、返された。

だが、いつも仕事は、向こうからやってきた。

役場の手伝い、町でやってる道の駅の仕事、カフェetc…。

仕事がフリーになると、誰かしらからいつも連絡が来て、仕事に困ることはなかった。

だが、どれも正社員ではない。

両親は周りの体裁を気にし、

「アンタは何をやらせてもダメだ!」と、言い、他の真面目に働いている同級生と比べ、「どうせ」と言う言葉を常にわたしに浴びせるようになった。


両親はいつも製造業を望んでいた。 しかしわたしは、製造業だけは嫌だった。

何より、両親と同じ仕事は絶対したくない!という気持ちが強かった。

わたしはやりたい仕事がわからない。両親からダメ出しを沢山聞かされ、そのうち、その言葉にも慣れてしまっていた。

その後、また職場安定所に行き、そして運命の仕事を見つける。


新しくできるデパートの仕事だった。

用紙を担当の人に見せると、電話をすぐにかけてくれた。すると、今すぐ面接したいと、返事がきた。

わたしの格好は、デニムのタイトスカートに、くすんだ黄色のヨレヨレのトレーナー。こんな姿で面接するなんて、いいのだろうか。と尋ねると、そのままでいいからすぐに来て欲しいと、言われた。

体がカアーッ熱くなり、手に汗がにじむ。こんな格好してくるんじゃなかった、と後悔した。

そしてすぐに面接。

指定された場所は、国道沿いのひんやりとした大きなコンクリートの建物で、中には五人程椅子に座っていた。 長いテーブルに肘を置いてる人、腕を組んでいる人、わたしと同じ歳頃の人は、きちっと両足を揃え、その上に手を置いていた。

極度の緊張で、手汗をびっしょりとかき、背中にもツーッと汗が流れ、着ていたトレーナーが冷たく感じる。

五対一で目線を合わせ、話をした。

わたしの声はかすかに震えていた。

今までの職歴を話し、転々と仕事を変えてきたから、不採用だと思っていた。

ところが、真ん中に座り、茶色のスーツを着、髪の毛がもじゃもじゃで、一番背の高そうな男の人が、

「これからよろしくお願いします」と、言った。

わたしはものすごく驚き、

「え?本当にいいのですか?」

と、改めて訊き返した。

五人ともお互いに顔を合わせ、目配せし、笑顔でうなづいてくれた。

わたしはなんて幸運なんだろう、きっとこの日の為に正社員にはならずにきたのだ。と、良い方へ思い込み、有頂天で家に帰って行った。

のちに、髪の毛がもじゃもじゃの、茶色のスーツの人が、店長だと知った。


その一方で、わたしの知らないうちに、家を解体し、新築の話が決まっていた。

わたしはその時まだ、全く聞かされていない状態だった。



13



両親はわたしに一言も言わないまま、急に荷物をまとめて引っ越し作業をする。と、突然言ってきた。

わたしは「はぁ?」と驚き、ただ言われるがまま、両親の言う通りに従った。

おそらく、一年以上前から話し合ってきたことだろう。

展示場とかも、コソコソと見て回っていたと思う。

わたしのことは、全部知りたがるけれど、自分たちの肝心なことは、ギリギリになるまで、言わない人たちだった。

当時お祖母ちゃんは、糖尿病の悪化で病院に入院していた。使用人(男)は知的障害だったから、両親に指示されたことを守り、少ない荷物をまとめ、倉庫に入れた。

その引っ越し作業の時に、大好きだった大きな深みどり色のステレオも、処分した。

父親の自慢の応接間も、茶色のソファも、大きなシャンデリアも、全てなくなり、父親はコンテナ部屋を借り、そこに全員布団を並べて寝ることになった。

最悪。

第二の居間だったところは、とりあえずそのまま残し、そこでテレビを見たり、電話をかけたりして生活していた。

プライベートも何もなかった。

両親の愚痴と、他人の悪口。

いつも聞かされ、いつしかそれがわたしにとっても、普通の会話だと頭にすり込まれた。


デパートの仕事は順調だった。

まだ建物が完成していなくて、面接をした建物の二階に出勤し、そこで、代わる代わる講師を迎え、接客業の云々を教えてもらった。

毎日、教訓のように、

「おはようございます」

「いらっしゃいませ」

「何かお探しですか?」

などと、全員で大きな声で言った。

わたしは家では殆ど喋らないから、声を出しことが楽しかった。

そしてパラパラと、新しいメンバーも増えてきた。

それから一年後、ようやくデパートが完成した。名前は、花崎デパート。

わたしは下着売り場を希望し、そのとなりには、エプロンと少しのパジャマ売り場が出来た。

そして、高校卒業したばかりの女の子、「小田切萌果」が、わたしの後輩になり、一緒に一泊二日、仙台のデパートへ研修に行った。

わたしは新幹線に乗った時から、ドキドキは頂点に達していたが、萌果にとっては、もっと緊張していたと思う。

慣れない靴を履き、着こなしにくいスーツを着、わたしという人間が、どんな人なのかも良くわからずに、ただ必死に着いてきたのだから…。

わたしは、わたしが緊張したり、戸惑ってしまうと、萌果がもっと不安になると思い、なるべく堂々としようと心がけた。でも、実際はどうだったか…。

萌果は靴ずれが酷くなり、ストッキングの下でも、はっきりわかる程、かかとは真っ赤になり、皮ふがべろりと剥けてあった。

先輩だけど、未熟なわたしは、「頑張れ」とか、「大丈夫?」とか、そんな言葉しか出てこなかった。

今思えば、頑張ってる人に、更に追い討ちをかけてしまったことと、全然大丈夫じゃなかったのに、あんなに痛そうだったのに、大丈夫?としか、声をかけてあげられなかった自分が、情けなかったと後悔している。

萌果は、マシュマロみたいに色が白く、つぅるんと肌がやわらかくて、優しくて、良く気が利く人だ。

最初はわたしのサポートを一生懸命にしてくれていた。

そのうち、わたしよりしっかりするようになり、先輩、後輩というよりは、同じ土俵、もしくは頼もしい味方になってくれている。

ありがたい存在だ。

そして、わたしは下着の魅力にすっかりハマり、自分で仕入れに東京の浅草橋まで行き、お店に入れるイメージを頭で想像しながら、上限高内に収まるように、丁寧に選んでいった。

この形はあのお客様、あちらの色は別のお客様、などと、色んなお客様を思い出しながら、仕入れをする。

とても楽しかった。

何より人に喜んでもらえるし、自分で選ぶ作業が出来ることが、とてもわくわく出来た。

そのお陰で、お客様に慕われ、こっそりと旅行に行ったお土産や、手作りクッキーなどをもらっていた。(本当はダメだけど…)

わざわざ仙台から、二、三ヶ月に一度、訪ねてくれるお客様がいた。

仙台の方が品揃えも豊富だし、こんな小さなデパートに来てくれるなんて、とてもありがたかった。

「店員さんが、姉妹サイズだから合いますよ、と、言った下着を買ったけど、着けて動いているうちにやっぱりサイズが合わなかった。あなたは本当のことを言ってくれるから、ここに来ている」

と、言われた時は、自分が認められた喜びと、フワッとしたかろやかな気分になり、心底この仕事をしていて良かったと、感じることが出来た。

ここにはわたしの居場所がある。

これがやり甲斐のある仕事なんだ。

わたしは、この仕事に着いたことが、自分の自信にも繋がり、わたしという人間を見つけた気がした。


もう一人仲が良くなった子がいて、その子はアイドル歌手のように、ものすごく可愛い。

服のセンスも良く、いつもボブヘアでサラサラの髪の毛。 時々いい匂いがしていた。

わたしが男だったら、是非付き合いたい!と思う程で、わたしの方から強引に話しかけ、仲良くなった。

今はもうないが、けんじワールドがあった頃、一緒に行こうと誘い、途中のお店で彼女の水着を選んであげ、それは白いビキニだったが、彼女は恥ずかしそうにしていたけれど、本当に似合っていた。

女のわたしから見ても、可愛い!という言葉しか浮かばなかった。

男の子たちは彼女を見て、声をかけたそうにしているのがわかった。

しかし、わたしのガードが見るからにも硬い。彼女には既に彼氏がいたし、わたしは守らなければと、勝手な思い込みをしていた。

そんなわたしは、たぶん、男の人からみれば、ウザい存在だったろう。

彼女の白い車に乗り、龍泉洞にも行った。

当時、TRFの歌が流行っていて、曲のボリュームを高くしたり、ダンスミュージックを車の中で聴いて、二人でノリノリと首を振ったことも覚えている。

龍泉洞の水は、テレビで見た時よりも美しく、エメラルドグリーンの色がとても鮮やかで、目を奪われた。

だが、そのあと、階段を上らなければならない。

階段は下が丸見えで、一歩踏み出すにも、足がすくんでしまう。

彼女は「大丈夫?ゆっくりね」と、励ましてくれたが、後ろにはかなりの行列が出来ていた。

無言の「早く行けよ」の視線が強く背中に刺さった。


彼女とは、今でも一年に一度のペースで会うが、彼女も忙しく、なかなか時間が合わなくなってきた。

でも、また彼女とランチするのが、楽しみだ。


デパートの仕事を初めて、間もなく家が完成した。

その一年後、寝たきりになったお祖母ちゃんは、他界した。


それからまた一年後、突然お見合いの話をされた。

わたしは結婚願望が全くなく、もっと遊んでいたいと思っていた。だが、親どおしがもう決めたお見合い。

断ることなど出来なかった。

当日、いざ本人に会ってみると、わたしの頭の上にアンテナが立った。きっとこの人と結婚する!と、直感で感じた。

それが今の夫で、運命の人だ。

その後準備は着々と進められ、わたしたちは結婚した。

新築した家の二階、わたしの部屋のとなりにもう一部屋増築し、その部屋が、わたしたちの寝室となった。

その寝室の下にも、一部屋増築。そこに両親は寝ることになった。

次いでに、第二の居間だった部屋はもっと広く増築され、中にはトイレと、洗面台が設けられた。

わたしが介護出来るようにと、入浴車が、部屋近くまで入れるように、わざわざ大きな窓を取り付けた。

「これで介護がしやすいな」

と、両親は言った。

母親が介護が大変だったから、と言い、トイレと洗面台のある部屋に変えたのだった。

わたしはゾッとした。怒りが込み上げてくる。何でもかんでも、わたしの知らないうちに、自然に、両親の思うがままに動いている。

でも、母親からいつも、

「お前がガマンすれば、全て丸く収まる」

と、言われてきたから、それ以上何も言うことが出来なかった。

この時、

「お前は家政婦と同じなんだから」

と、母親から言われたことを、思い出した。


そしてわたしは、結婚退職し、デパートを辞めた。

別に辞めなくても良かったのだが、夫は製造業の会社で、二交替勤務な為、わたしとすれ違いになるのが嫌だったから、仕事を辞める決断をした。

結婚式には、千夏も、まるちゃんも、萌果も、可愛い彼女も、その他にも友達を呼んで、盛大な披露宴になった。



14



三年後、息子が誕生する。名前は「和希」。

とても甘えん坊で、わたしから離れなかった。

わたしは仕事を辞めて、良かったと思った。

息子にはわたしと同じような、寂しい気持ちになって欲しくないと、思っていた。

お昼寝をする時も、わたしが座椅子に座り、そのまま抱っこして眠った。 少し大きくなったら、座椅子を倒し、わたしの胸とお腹の上で眠った。

両親からは散々、甘やかせ過ぎだ!と、言われたが、甘えたい時にはしっかり甘えさせようと思い、言葉を無視した。

和希が二歳になり、二人目を妊娠。 一年後、今度は生まれたのは女の子。

名前は「温花」。

温花が生まれた次の年から、和希は保育園に入った。

わたしは手を繋いで、歌を歌いながら保育園に通うのが夢だった。母親にしてもらいたくても、出来なかったことだったから、つくしがでたね、たんぽぽが咲いてきたね、と、話しかけながら、一緒に和希と通った。

三歳児組の担任の先生は、とても優しく、穏やかな笑顔で子供たちを見守ってくれた。

しかし、夏休み前に妊娠がきっかけで、退職。和希は大好きな先生だったから、寂しそうにしていた。

その後に引き継いで担任になったのは、若くて活発な先生で、差別することなく、みんなを満べんなく見てくれた。

わたしが迎えに行くと、

「プールしたけど、怖がってました」と、嫌味なく笑っていた。

わたしは小さい時の水が怖かった頃を思い出した。心の中で、似てしまったんだなと、罪悪感を感じた。

ちょうどその時、近くにスイミングスクールができ、

「和希、行ってみない?」

と、わたしと夫と訊いてみたが、和希は「絶対イヤ!」と、言った。

わたしは、相当プールを頑張っているんだなということが、手に取るようにわかった。

そして年中さん。

和希にとってもわたしにとってもツラい時期だった。

和希は家では活発で、走り回ったり、ティッシュの空き箱を重ねては、「ガシャーン」と言いながら、自分が怪獣たちと戦っているように、空き箱を潰していた。

虫取り名人でもあった。

蝉やトカゲを素手で掴んでは、虫取りカゴの中に入れた。

玄関に置いていたから、蝉の鳴き声がものすごくうるさかった。その声は扉を閉めても、二階まで響き渡った。

だが、その二日後、蝉はカゴの中で静かに息を引き取っていた。

それから和希は、蝉が可愛そうに思い、捕まえなくなった。


保育園では、積み木やおままごと、電車ごっこが好きだった。

担任の先生と副園長先生は、そんな和希にイライラしていた。

副園長先生は、髪が茶髪で目が細く、化粧も濃くて、いつも紫のアイシャドウをつけていた。

副園長先生は腕を組み、右足のつま先をパタパタと動かし、わたしが迎えに行くと、

「和希くんのお母さん、ちょっと」

と、目を吊り上げ、アゴをしゃくりながらクイッと動かし、副園長先生の傍へ行くように、わたしを誘導させた。

わたしは怖々と傍に行くと、

「どうして和希くんは、女の子としか遊ばないんですか?」

と、突然言われた。

そんなことを言われても、本人がそうしたいのであって、何も、とがめられる必要などないのに、副園長先生はふんふんと鼻息を荒くして、わたしに言ってきた。

わたしはただ謝ることしか出来なかった。

そして和希と手を繋いで帰った。

謝ったのは、その行動しか思いつかなかったし、みんなが帰った後でも、ずっと色々言われていたからだ。

そんな毎日が続いていた。

いつしか和希は、保育園に行くことを嫌がるようになり、園の玄関に着くと、くるっと背中を向け、道路に向かって走り出した。

急いでわたしと別の先生が追いかける。

危なく道路に飛び出すところだった。

給食も苦手。特に海藻類。

ある日、わたしが作ったヒジキの煮物を、美味しいと言い、何回もおかわりして食べた。そして、その日の夜に自家中毒をおこし、その吐いた臭いで、海藻類が嫌になった。

もちろん、その話も担任の先生に話してある。

担任の先生はニコニコと笑い、こちらでも無理しないようにしますから。と、言ってくれた。

ところが、やっていたことは全く違った。

副園長先生に、

「明日給食の時間にきてください」と、言われ、お昼にみに行くと、既に全員食べ終わり、中には、お昼寝の準備をしている子もいた。

そんな中で、和希は一人ボロボロ泣きながら、椅子に座り、机の上の給食に向かっていた。

わたしの胸は張り裂けそうになった。

しかも、苦手だと教えていた、すき昆布の煮物。

和希は毎日給食の匂いがしてくると、窓越しにその調理の様子を、心配しながら見ていると言う。

和希は少食でもあった。赤ちゃんの時から、みんなよりミルクの量が少なかった。

その「少食」というのも伝えていた。

しかし先生は、カレーの時はおかわりするから少食ではないと、詰め寄ってくる。

わたしは和希の傍に行き、しゃがんで、頑張って食べてと、声をかけてしまった。

和希は本当は助けてもらいたかったはず。その味方のはずのわたしまで、給食を食べるように促し、しまいには、おおきな声で、

「食べなさい!」

と、怒鳴ってしまった。

やってることは、両親と同じことだと思った。

自分が情けなかった。

その姿を見ていた副園長先生と、担任の先生は、ニヤニヤしながら満足そうにしていた。

翌日、和希の送り迎えをしたあと、副園長先生から、夕方五時に一人で来てください、と言われた。

寒気がする程、嫌な予感がした。

言われた時間に保育園に行くと、子供たちはみんな帰ったあとで、園長先生も含め、五人程残っていた。

園長先生は、我が家と近所で、普通に挨拶する仲だ。

それから、その中には、母親と同じ踊りのお稽古を一緒に習っている、母親の友達もいた。

顔を見た時は少し、ホッとする。だか、その後だった。

「どうして和希くんは、女の子としか遊ばないのですか?」

「どうして和希くんは給食を全部食べられないのですか?」

「どうして和希くんは、他の男の子みたいに活発じゃないのですか?」

どうして、どうして、どうして…。

待ってましたと言わんばかりに、一斉にわたしは、先生たちに吊り上げられた。

わたしはひたすら謝り、泣くことしか出来なかった。下を向き、誰の顔も見ていられない。

ダアダアと涙が頬全体を濡らし、着ていたTシャツが濡れ、ジーンズの上にまで滴り落ちていく。

仲のいい園長先生も、母親の友達の先生も黙ったままで、わたしの顔を見ることすら、しなかった。

誰もわかってくれない…。

昨日の給食の時の和希を思い出した。

和希はきっと、いつも耐えていたのだろう。友達と遊べるからここにくるのであって、それが楽しくなければ、絶対に通わない。和希にとってもしかしたら、毎日が地獄なのかもしれない。

わたしもこのまま、こんな先生たちに、和希を頼んでよいのだろうか?通わせていいのだろうか、と、迷い始めた。

泣いても泣いても、胸が締め付けられても、ここにいる人たちは全員、敵。

この状態を和希に見せなくて良かった。と、思った。

それから二時間くらい経過した頃、夫が和希を連れて迎えに来た。

わたしは、泣いてぐしゃぐしゃの顔を、和希に見せてはいけないと思い、必死で涙をハンカチで拭き、笑顔を見せた。

先生たちは言うだけ言って、満足し、すぐにわたしを解放させてくれた。

わたしの小学校の時の、イジメを思い出した…。


季節は生活発表会になり、お便り帳に、「どうして和希くんは竹馬ができないのですか?」と、書かれていた。 また、どうしてが始まる…。

家には竹があるから、父親が竹馬を作り、和希は一生懸命練習した。わたしはその姿を目に焼き付けた。

そして、本番の日。

女の子も男の子も、高い竹馬に乗り、ステージの上でカタッカタッと、歩いて行く。見ていた父兄たちは、おーっと歓声を上げる。

そしてあとから、低い竹馬に乗った和希が、とぼとぼと、歩く。

会場は少し笑ったり、拍手をしてくれる人もいた。

わたしは泣きそうになったが、一生懸命喜びの拍手だけした。

その時からわたしは、家族の前では絶対泣かないと誓った。


それから、新しい春がきた。

福寿草が咲き初め、チューリップやクロッカス、エリゲリオンや、ヒヤシンスなどの花々が、暖かな陽射しを浴びて芽を出すようになった。

これからは和希だけではなく、温花も一緒に手を繋いで歩いていく。

風がピューッと吹いて、着ていた服にイタズラを仕掛けてきた。それでも手の温もりは暖かい。

和希も温花がいることで、笑顔が多くなってきた。

少しだけだが、和希の家で食べるご飯の量も増えてきた。

わたしは和希が給食のトラウマ、わたしが怒鳴ってしまったことへのトラウマがなければいいと、ずっと心配していた。

今度は嫌だった副園長先生が移動し、園長先生も変わり、わたしが教わった時の、ハツラツとした先生になった。

懐かしさで気持ちも安堵する。

「よろしくお願いします」

と、挨拶すると、

「うーちゃんは全然変わってないね」

と、笑顔いっぱいに答えてくれた。

この先生なら和希も温花も任せられる。そう確信した。

和希の担任の先生は、変わらなかった。

どこか副園長先生に似ていて、笑顔を見せても目が笑っていなくて、アゴは自然にしゃくれていた。

休み中、副園長先生と担任の先生が、二人でデパートにいたところを、わたしと子供たちは見てしまった。

二人は、和希と、何も言い返せないわたしをターゲットにし、面白がっていたのかもしれない。八つ当たりをしたかったのかもしれない。そう思った。

和希が中学生になった時、突然、

「オレ、保育園の時、ご飯の上にみそ汁をぶっかけられ、猫飯にされて吐いたことがある」

と、言った。

もっと早くに教えてくれていれば、夫にも頼んで、教育委員会にでも訴えたのに…。

わたしは、なんて酷い人たちだったのだろうと、唇に力を込め、手はぎっちりとグーにして握りしめていた。

手に爪の跡が残った。


和希は給食時間は、相変わらず泣いていた。でも、新しい園長先生は無理強いはしなかった。

プールも和希は怖がったが、以前よりたくましくなっていった。

温花はお兄ちゃん、お兄ちゃんと、後を追いかけ、和希がハイハイの形になると、その上にまたがり、二人で喜んでいた。

園長先生は、園庭の土の部分に畑を作り、みんなでさつまいもの苗を植えた。

裸足になり、泥んこ遊びもした。

洗濯は大変だったけど、二人の笑顔と話を聞くたび、肩の力がふ〜っと抜け、穏やかな気持ちになった。

とにかく園長先生は、自然に触れさせる遊びを優先した。

わたしはたくましくなっていく二人を、ほほ笑ましく、見つめていた。


そして和希が保育園を卒園し、温花だけが保育園に残った。

温花は和希がいてくれたお陰で、毎日のびのびと遊んでいた。

ところが、夜泣きが酷くなったり、逆に昼間突然泣き出し、かんしゃくをおこし、物を投げたり、人から逃げようとした。

わたしも抱っこをしようとしても、ギャーギャー泣きわめき、足で蹴られたこともあった。

しばらく長い間泣くとスッキリしたように、すやすやと眠る。その顔はさっきと全く違い、とても愛おしく思った。

両親からは、「こんな子みたことない!」と言われ、滅多に怒らない夫も眠れなくて、「何とかしろ!」と、言ったり、保育園の先生からは、

「和希くんも温花ちゃんも、甘やかせ過ぎじゃないの?」

と、言われるようになった。

更に両親は、

「どこか悪いかもしれないから、遠野の良く当たる占い師のところに行って、拝んでもらってこい!」

と、ふざけた話もしてきた。

みんながわたしを責めている、と、感じるようになった。

だが、その夜泣きも、かんしゃくも、四歳を過ぎたら全くしなくなった。

わたしはホッとしたし、誰にも責められなくなった。


その後、和希は保育園の時からたびたび自家中毒になっていたが、温花までしょっちゅうなるようになった。

心と体のバランスが、上手く取れなくなっていた。


和希は無事に小学校へ上がったが、わたしはイジメられないか、心配で仕方なかった。

ところが、一年生の夏休みが終わった頃、突然自分から、「スイミングに行きたい」と言いだし、スイミングスクールにバスで通うようになった。

夏休みの自由研究や、冬休みの工作も、いつもクラス代表に選ばれ、みんなの前で発表するようになった。

同級生の子たちの家に遊びに行ったり、反対に遊びにきたり、行動範囲も広がった。

スイミングスクールは六年生の春まで行き、やめてしまったが、自分から率先して行き、具合が悪くない限り、毎日通った。

それには夫もわたしも、とても感心した。

そして六年生の市の水泳大会では、自由形でクロールをし、一気に五人ごぼう抜きして、二位になった。

小さい頃からずっと心配だったけど、和希は色んなことにどんどんチャレンジし、自信を持ち、男女共に友達にも恵まれ、自分という者をしっかりと持つようになった。

弱虫のわたしとは違うと思い、自分の意思を伝えるようになれた、と、それがわたしは誇らしく思えた。

そして温花も家での遊びを工夫し、ダンボールで家(隠れ家)を作り、その家にはちゃんと窓と入口をつけたり、壁にはキラキラシールや楽しい絵を描いては、わたしに見せてくれた。

和希も温花も絵が得意。それを今でも発揮して、ストレス発散にしている。


我が家の玄関には、和希が描いた絵を額縁に入れ、飾っている。

温花はわたしと違って、手先も器用。想像力も豊か。やっぱり市の発表会で、工作や自由研究や、絵を飾られた。

すごいと思ったのは、二年生の自由研究で「人はどうやっててきたのか」に興味を持ち、もちろんまだ小さいから夫の手を借りて、とことん突き詰めて調べたことだった。

それから、フェルトで作った着せ替え人形。ちゃんと人形を縫い、それに合わせて洋服を作った。服は人形にぴったりのサイズ。

それから色んな物を縫って、手芸を楽しんだ。

わたしは家庭科に嫌な思い出しかない。むしろ、トラウマになっている。 しかし温花は、家庭科の授業を教わる前に、想像力で色々作っていく。わたしから言わせれば、大したもんだなあと、感心するばかりだ。

それと同時に、エレクトーンも習った。

わたしの大好きなルパン三世のテーマや、アララの呪文、笑点の曲、情熱大陸のテーマなど、次々と弾き、発表会で緊張しながらも、堂々と練習の成果を発揮していた。

すごいと思った。


そして和希が六年生、温花が三年生の時に、東日本大震災が起こる。

大変だった — 。

ガソリンは、指定されたくらいしか、入れてもらえなかった。スタンドが七時半に開く前、四時には車の行列が出来た。

チラホラと粉雪が舞う中、スーパーには二時間並び、ようやくカゴを手にした時は、店内の食べ物は全てなかった。

残っていたのは、しょう油とみりんと油。

結局何も買わずにカゴを戻し、スーパーをあとにした。

電気がこないのは、ものすごく寂しさを感じさせた。

仏だんのロウソクを持ってきて、ダイニングテーブルに置く。

キャンプ用のライトも灯した。

幸い、水は出た。ガスも大丈夫だった。

農家だから、米だけはある。

土鍋に米と水を入れ、ガスでことこと、炊いた。

最初のご飯は、コゲだらけで失敗したが、食べる物があるということは、恵まれていると思った。

テレビがやっとついた時、津波の映像が流れた。沿岸には従姉妹や親戚がいる。大きな不安に駆られた。

ラジオでアナウンサーが交代で、行方不明者の名前や、生存者の名前を読み上げる。何度も大きな余震が襲う。

幸い、従姉妹も親戚も無事だったが、家は全て流され、後に、仮設住宅に入った。

わたしはその時の新聞を、未だに残してある。忘れてはいけない。


そして和希は中学生になり、温花は、五つの小学校が一つに集まった、新しい校舎で小学校生活が始まることになった。

その時既に、地震の影響で、校舎の壁にヒビが入り、体育館の地面のコンクリートは破損していた。


そして夫の会社もダメージを受け、半年後、夫は関東方面の工場で働くことが決まり、単身赴任をすることになってしまった— 。











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