第二章 ひまわり

6


わたしは中学生になった。

制服は美鈴ちゃんのお下がりで、上着の肘の部分と、プリーツスカートのお尻の部分がテカテカと光っていた。 それでもわたしは、少し大人に近づいたような気がして、恥ずかしくも喜んでいた。

今度はカズエに負けない!新しい友達を作るんだ!と、自信はなくても気合いを入れた。


学校の扉に、各クラスごとに名前が書かれていた紙が、張られていた。

「カズエとだけは、一緒じゃなければいい」

そう思っていたら、違うクラスでホッとした。

アカネとは同じクラスだった。

アカネは積極的で負けず嫌い。頭が良く、ポジティブに物事を考えるタイプ。

小学校の時はカズエの手下になり、わたしをイジメていたが、わたしはアカネのことは仲良くしていた時もあったから、差程恨んではいなかった。

カズエからイジメをうけて、心をズタズタにされたわたしは、深く傷つき、しばらくは引きずったままだった。

だが、日は一日、一日と過ぎていく。

自分が変わらなければ、何も始まらない。


朝のまだ肌寒い時から陽はまた上り、少しずつ春の暖かさを感じさせてくれる。

そして、南の方から桜便りも、ちらほら聞こえてくるようになっきた。

日毎に景色が変わっていくように、気持ちだって、きっと変われる。

そう思いながら、昇降口から静かに教室へと向かった。


入学式も無事に終わり、各クラスにまた戻る。

知らない顔ばかりでわたしの顔は緊張し、冷たくなっていた。

教室は、新しい上履きの匂いで包まれていた。わたしの鼻が、キューッと縮むように痛くなり、ピタッとくっついてしまうかと思った。



7



中学生活の出だしは良かった。

部活はバレー部に入り、家で声を出したり感情を出せない分、部活でおもいっきり声を出した。

それがストレス発散でもあり、清々しい気持ちにさせてくれた。

友達も出来た。

名前は弥生。少し痩せていて背が高かった。

弥生はみんなと雰囲気が違っていて、大人っぽくて、他の女子よりも何となく色気を感じさせた。

わたしとは雰囲気は全く違うのに、なぜか引き合うものがあり、自然と仲良くなっていった。

弥生のお兄さんは美鈴ちゃんと同じ学年で、ヤンキーで知られていた。

だから弥生が入学した時も、すぐに先生たちは、弥生の行動を常にマークしていた。

わたしたちは、授業中に手紙のやり取りをしたり、業間にはいつも一緒にいて話をしては、笑いあった。

とても賑やかでドキドキする程、楽しい時間だった。

部活は違ったけれど、帰りに待ち合わせをし、近くの喫茶店でパフェを食べたりして、帰り時間を遅くさせた。

それはわたしの自我が目覚め初め、家に帰りたくないという気持ちが出てきたからだ。

我が家の門限は六時。

部活が長引いたとウソをつき、わたしは弥生と、時間が流れていくのを惜しみながら、二人きり、喫茶店で、思春期ならではの会話を弾ませた。

そして二年生。

弥生とはクラスは違ったが、お互い手紙のやり取りは続いていた。それを授業中に読むことが、心を踊らせていた。

二、三年生はクラス替えはない。同じ担任の先生が受け持つ。

担任の先生は森山優子という名前だった。

優子先生は美百合お姉ちゃんのことも、美鈴ちゃんのことも知っている。 美鈴ちゃんの担任もしていたから、わたしのことはすぐに知られた。

体育の先生でもあり、いつも美鈴ちゃんと比べられた。

「お姉さんはもっと、運動神経が良かったのにねぇ」

そんなことを言われても、わたしは美鈴ちゃんみたいに早く走れないし、体が鈍くさかった。

他にも美百合お姉ちゃんと、美鈴ちゃんを知っている先生はいた。

美術の先生だ。

「シュウちゃん」とみんなから呼ばれていた。シュウちゃんはひょろひょろと背が高く、人を差別するような先生ではなかった。

口ぐせで「群青色キレイ」といつも言っていた。

ある日の授業で、画用紙に、

「好きなように立体図を描き、少しずつ色の変化をつけて、自由に描いてください」

という、課題を言い渡された。

さて?

自由ってなに?

好きなようにってどういうこと?

わたしは小さい頃から、親に決められた物、事、与えられた物で育ったから、自由とか好きに…と言われても、とても難しくてわからなかった。

周りの子たちは、キョロキョロする人、すぐに取りかかる人、しばらく考え込む人、それぞれだったが、わたしが描き初めて完成させるのは、一番最後だった。

立体図は最終的にとなりの子の真似をし、色の変化は、濃い色から薄い色へ向かうように描いたが、その色彩がよっぽど下手だったらしく、大きな声のシュウちゃんは、変顔をし、笑いだして、

「美鈴さんは色彩感覚も豊かだったし、立体図もとても素晴らしかったのになぁ…」

と、みんなの前で大きく呟いた。

美術室にその声は響き渡り、同級生たちはわたしの描いた絵を見ては、クスクス、ゲラゲラ笑い出した。

私は苦笑いをし、えへへとごまかし、その場の雰囲気を壊さないように、ガマンした。

心の中では、また比べられた。と、泣きたいくらいだった。


一番酷かったのは、家庭科だ。

美百合お姉ちゃんは家庭科クラブに入り、先生のお気に入りだった。

久保田玲子という先生で、通称、「クボレイ」と呼ばれていた。

クボレイは初めから、変な期待をわたしに向け、

「あなたのお姉さんは手先が器用で、何でも上手だったのよ」

と、みんなの前で笑顔で言い放った。

わたしは「またか」と心の中で呟いた。


わたしは臆病で自信がない。どんなに中学で変わろうと思っても、奥底の隠れた自分が常にいた。

クボレイは背が高くない。比較的低い方だ。身体が丸くて、白衣を着て、前のボタンをきっちり止めていた。胸の辺りのボタンは、今にもはち切れそうだ。

髪はちんちくりんのパーマをかけていて、威圧感のある大きな声を、高々に出していた。

まず初めに、クボレイの長い長い人生劇場の話を聞く。みんな真剣に聞き、時々うなづく。そのみんなの姿をみてクボレイは、満足した表情をし笑みを浮かべた。

ある日、軍手で好きなように人形を作ることになった。そこでも、

「好きなようにって、どういうこと?」

と、わたしの頭を悩ませた。

周りの女子をみると、軍手を裏返してみたり、指の部分を切ったりと、悩みながらも着々と作業を進めている。

わたしは軍手を持ちながらキョロキョロし、一向に作業が進まない。

首を傾げたり、ため息をついたりしているうちに、冷や汗が額から頬を伝い、背中まで、ツーッと流れていく感覚がわかった。

結局クボレイは見兼ねて、クボレイが作った作品の形を真似し、完成させた。


その頃から、クボレイの目線が気になり始めた。


生地を切る時は他の子よりも、一層慎重にする。一度、布を切るたびごとにため息をつく。

ミシンをかけようと、数台あるミシンの前に並ぶ。

「本当にこれで大丈夫なのかな…」

そこにも大きな不安が出てきた。

考え込んでいるうちに、後ろから声がして、

「使わないの?だったら先に貸して」

と言われ、

「う、うん。いいよ」

と、その場に流されながら、うなづく。

クボレイはそんなわたしの様子を、腕を組み、唇を尖らせ、にらみつけるようにしっかりと見ていた。

その視線は背中に強く感じていた。


そんなことが続き、クボレイの足音が家庭科室に近づくと、わたしは極度の緊張で生つばをゴクリと飲み、大きく深呼吸するようになった。

クボレイは機嫌が悪いと、教卓の横に椅子を一つ持ってきては、わたしに向かい、「椅子の上に立ちなさい」と言った。

まるで拷問だ。まだ何もしていない。言葉も発していない。目が熱くなり涙がこぼれ落ちそうになる。

そしてそのまま一時間、わたしの存在を否定するかのように、授業を始めた。


そんなことは日常茶飯事だった。


三年生になり、文化祭の展示作品で、パジャマを作ることになった。

関東方面の短大に行っていた美百合お姉ちゃんが、たまたまウチに帰ってきた時に、 わたしは、美百合お姉ちゃんと一緒に生地屋に行き、布を選んだ。

生地屋には、色とりどりの沢山の可愛い柄の布ばかりで、わたしはかなり迷ったが、美百合お姉ちゃんは一枚の生地を選び、

「これ可愛いよ。先生も好きそうな柄だよ」

と言って、取り出してくれた。

それは全体が黄みどり色で、小さなオレンジ色の人参がバラバラに描かれていた。

わたしも一目で気に入り、何よりクボレイが好きそうという言葉が良かった。

生地は設定されている長さより、多めに切ってもらい、少しだけ次の家庭科の授業が楽しみになった。

美百合お姉ちゃんが言った通り、珍しくクボレイはわたしの布を見て、「良い柄ね」とかすかにほほ笑んでくれた。

わたしは美百合お姉ちゃんに、心の中で感謝した。

だが、そのあとである。


型紙に合わせて生地をハサミで切っていく。クボレイは、

「一度ハサミで切ったら、失敗は許されないからね!」

と、カツカツと足音を立てながら、歩いてみんなの作業を見て回る。

そして、わたしの前で立ち止まり、しばらくそのまま、わたしの様子を窺って黙って見ていた。

わたしは極度の緊張に襲われる。

少し手が震え、まち針を一つずつ指すのも、ハサミを持つ仕草も、全て見られていて、心臓がバクバクと脈打つのがわかる。

クボレイはフンッ!と鼻を鳴らし、ようやくわたしから離れた。


そしてミシンの番。

わたしは落ち着かず、本当にこれでいいのか、生地を持ちながら周りを見渡す。そうしているうちに、また後ろから声がして、

「先に借りるね」

と言われ、うなづいてしまった。

それが何度か続き、結局また最後に出来上がった。


つもりだった…。


完成作品を、おそるおそるクボレイに見せると、「何これ」と、冷ややかな目をし、低い声で言った。

わたしはボタンホールの穴を右に開けてしまい、ボタンを左に付けていた。

つまり、左右逆に完成させてしまったのである。


その後は想像の通り。

クボレイは逆上し、わめき散らし、わたしは下を向きながら体を震わせ、ぼたぼたと、大きな雫を床に落とした。

「こんなモノ、展示できない!」

クボレイは最後にそう叫び、パジャマを机の上に投げ捨てた。

しかし、わたし一人だけ展示しない訳にはいかない。

放課後一人家庭科室に残り、クボレイと一対一で指導され、間違って開けたボタンホールには、小さな当て布をし、そこにオレンジ色のボタンを一つずつ付けた。

反対側には、もう一度穴を開け、手縫いで細かくボタンホールを作った。

そして何とか文化祭には間に合った。


驚いたことに、左右間違えたわたしの作品が、壁に広げて展示されていた…。


それから三学期になり、先生方に班ごとに手作りのお弁当を作ることになった。

それが家庭科最後の授業である。

班ごとに教科書や料理本を広げ、何を作るか考える。

カロリーや栄養バランス、彩りなどを考えて決め、調理実習となった。

クボレイはまた、わたしに目を集中させていた。

わたしは、ワカメと人参の酢の物の担当だった。

本の中では、歯ごたえを残すように、薄く切った生の人参を、ワカメと一緒に和える、と、書いてあった。

わたしは心配になり、本当に人参が生でいいのか考える。

しかし、本にはやっぱり「生」と書いてあった。同じ班の子にも確認してもらい、ワカメを準備し、わたしなりに、人参を包丁で薄くスライスし、ワカメと和えた。

その時である。待ってましたと言わんばかりに、クボレイがカツカツという大きな足音を立てながら、わたしの傍にきた。

わたしの体は無意識にビクッと反応する。

そして、クボレイはわたしの作った酢の物を食べ、

「何やってんの!人参が生でしょ!こんなの食べさせる訳にはいかない!全部捨ててやり直し!」

と、叫びながら、私の左側の頭と頬を、みんなの前で思いっきり引っぱたいた。

三角巾は右側にずれ、頭はチカチカし、光るものが斜めに、行ったり来たりした。

耳はキーンと音がし、左頬はビリビリと熱くなり、痛みは引かなかった。 わたしはあまりの驚きで、泣くことさえもできなかった。

同じ班の子たちも、本に「生」と書いてあることを、確認してもらっていたから、知っているはずなのに、怖くて誰も何も言わなかった。

そして少しの間、教室はシーンとなり、嫌な空気と、野菜とお肉の混じりあった、もあっとした臭いを漂わせたまま、みんな何事もなかったかのように、調理を進めていった。

わたしの班のお弁当は、教頭先生のところへ回った。


中学三年生、技術の時間。

いつもは男子が技術で、女子が家庭科の授業をしていた。

三学期になってから、女子も数回技術の教科をすることになった。

先生から一枚の厚い板を渡され、その上に、

「好きな言葉を習字で書くように」と、指示された。

また好きな…。

わたしは迷った。いつも好きなこととか、自由にと言われると戸惑ってしまう。

わからない。

しかし、数分悩んだあと、半紙で何度も練習し、本番で木の板に言葉を書いた。

「温もり」

わたしが、小さかった時から欲しかったもの、願っていたもの…。

その書いた字の上を、彫刻刀で少しずつ、少しずつ、丁寧に彫り続けた。


唯一姉たちとは比べず、わたしを認めてくれたのが、音楽の先生だった。 小柄で頭の毛は少し薄く、声の大きな男の先生だった。

通称、そら豆と呼ばれていた。

音楽はわたしの得意分野。

小さい時から深みどり色の大きなステレオで、色々な音楽を聴いていたし、歌うことがとても楽しかった。

歌う時だけ、わたしの中の小さなわたしが出て来てくれた。

そら豆先生はだいたいいつも、声出しとして、校歌をピアノで弾き始める。それに合わせて、みんなで声を大きく出しながら歌う。

そのピアノの強弱と速さで、機嫌が良いか、悪いかすぐにわかった。


卒業式には合唱曲で「大地讃頌」が歌われる。

わたしはソプラノで、声が伸び、声高々に自信を持って歌えた。

そら豆先生もわたしの声をほめてくれ、「歌うのも上手だ」と言ってくれた。

初めてだった。わたしを認めてくれた人は…。

両親からも怪訝そうに「ダメな子」といつも言われ、小学生の時の先生も、わたしを見てくれてはいなかった。

そら豆先生は感情の波が激しく、他の生徒たちから嫌われていたが、わたしから見れば、心の中の小さなわたしを、救ってくれた先生だった。



8



中学三年生の時に

「自分の居場所がない!」

と、父親に叫んだことがある。父親は、

「こんな立派な家なのに、居場所ないなんて、部屋もいっぱいあるだろ!」

と、反撃してきた。


そういう意味ではない…。


わたしは言葉でも態度でも、両親には叶わない。でもあまりの寂しさに、放った言葉だった。もちろん、理解はされない。


当時、美百合お姉ちゃんは、関東方面の短大に行き、美鈴ちゃんと二人で子供部屋にいた。

美鈴ちゃんも大学に進むようにと、両親から言われていたが、早く働いてお金を貯めたいと言っていた。

わたしは一人部屋が欲しいと言うと、父親が「わがままだ!」と言い、わたしは父親に向かって、

「アンタは父親失格だ!」

と、込み上げてくる怒りと共に、まっすぐ前を見て叫んだ。

「お前に嫌われたってどうってことない!」

捨て台詞。

わたしは父親に勝てないと、改めて自覚した。

だが、わたしは益々自由が欲しくて、一人になれる部屋が欲しかった。

そして勝手に、お祖母ちゃんと使用人(男)のとなりに、荷物を運び始めた。

部屋の間には襖があり、常に閉めっぱなしだ。

部屋には窓がなくていつも暗い。昼間でも電気をつけないと、何かにぶつかったりしてしまう。

畳は腐り、一部分がブニョブニョしていた。

それでもわたしには、天国の部屋だった。

両親は仕方なくピンクのじゅうたんを買い、六畳の部屋に敷いた。

その頃から母親は、わたしのことを、

「小さい時は可愛いかったけど、今は言うことを聞かないから可愛くない」

と言っていた。

美鈴ちゃんにも同じ言葉を言っていたらしく、美鈴ちゃんもわたしに、わざわざ同じことを伝えてくれた…。



9



美百合お姉ちゃんは、大学卒業後、一度銀行に就職し、その後イラストレーターへと転職した。

両親は驚いたが、活躍するようになると、目をまん丸く見開き「すごい!すごい!」と喜んだ。


美百合お姉ちゃんは自由を手に入れた。

忙しい合間をぬって、たまに帰ってきた時の美百合お姉ちゃんは、イジメをうけていたとは思えない程、生き生きし、化粧を施し笑顔を見せてくれた。

そして美鈴ちゃんは高校卒業後、となり街の製造会社に勤めた。

その一方で、相変わらず母親を気遣い、会社からまっすぐ帰って来ては、夕ご飯の支度を毎日していた。


しばらくすると会社で、新入社員の歓迎会が行われることになり、美鈴ちゃんは前日にその話をし、遅くなると言った。

父親は激怒し、

「誰が飯の支度をするんだ!」

と、美鈴ちゃんに怒鳴りつけた。

歓迎会当日、美鈴ちゃんは一度家に帰り、ご飯の支度をして、集合場所へと急いで向かった。

門限は九時。

一番楽しい時間に帰らなければなかった。

それから美鈴ちゃんは、一日も早く、この家を出たいと決心していた。

そして間もなく、職場で知り合った一つ上の彼と付き合い、十九歳で妊娠。

二十歳でお嫁に行ってしまった。

両親はとてもガッカリし、肩を下ろした。

その半年後、今度は美百合お姉ちゃんが、彼氏を家に連れてきた。

彼は普通の人で、目立ちもせず、静かな人に見えた。

意外なことに、同棲すると報告してきた。

父親は激怒。母親は黙り込む。 最終的には同棲を承諾し、日帰りで美百合お姉ちゃんと彼は、東京へ戻って行った。


父親は二人が家を出て行ったあと、怒りの矛先をどこに向けていいのかわからず、座卓をひっくり返し、畳にガクリと力尽きたように座り、声を押し殺しながら鳴き始めた。

わたしはその時、初めて父親の涙を見てしまった…。


美鈴ちゃんの結婚式は、わたしが中学二年生の時の秋で、陽射しは暖かく空は澄んで、雲との境目をはっきりさせていた。

風がひんやりと吹き、時々枯葉が地面に落ちると、渦を小さく巻いていた。

美百合お姉ちゃんの同棲報告は、わたしが中学三年生の、初夏の出来事だった。

空気がカラッとしていて、素晴らしい好天気。少し肌寒かった春を忘れさせるような、やわらかな陽が、辺り一面照らし、若葉が賑やかになってきた頃だった。


どちらも、両親の気持ちとは正反対の清々しい一日だった。


それからというもの、両親の視線が

一気にわたしに向けられる。

友達の名前、住所と電話番号、兄弟、家庭環境、両親の仕事など、全てを訊くようになってきた。

今まで散々放ったらかしにさせておいて、自由になりたい時に、カゴの中の鳥のようにさせる。なんて卑怯な人たちだ。

いつか弥生が泊まりに来た時に、雰囲気が気にくわなかったのか、

「あの子とは付き合いをやめろ!」と、母親から言われた。

「はあ?何言ってんの?」

わたしは、頭にカーッと血が上り、腸が煮えくり返るような怒りを覚えた。

どうして友達付き合いまで、親の言う通りにしなければならないのか?

わたしは無視し、弥生との付き合いを止めなかった。

弥生は自由で、でも孤独だった。だからお互い惹かれるところがあり、何となく仲良くなったのだろう。


わたしは中学一年生の時、美百合お姉ちゃんのお古じゃなく、新しい下着を買って欲しいと、母親にねだった。だが母親は、

「アンタは胸がペッタンコなんだから、そのままでいい」

と言った。

胸があってもなくても、周りの女の子ちは、可愛い下着を着けていた。

わたしは惨めだった。

そして母親の目を盗み、緊張で手を震わせながら、財布から、お金を盗むようになる。

それで新しい下着を買った。

弥生との喫茶店通いも、三年生になっても続いていた。

夜中に駅に集合したり、万引きや、時には気に入らない下級生を、引っぱたいたこともある。

弥生との付き合いは、新しいわたしを引きだしてくれていた。


そして、高校受験。

誰もが姉二人と同じ高校に行くと、思っていた。

わたしも初めはそのつもりだった。が、近所の人たちや両親から、あまりにも毎日のように言われていたから、また両親や先生に比べられることを恐れ、勝手に志望校を変えた。

母親は三者面談の時、初めて知ることになる。

それからというもの、グチグチ両親から文句を言われ、お祖母ちゃんからは美容師になれと、毎日のように言われた。

母親が日本舞踊と着付けを習っていたから、家の畑のところに美容院を作り、一階はわたしの美容室で、二階は母親の着付けをするようにと、頭にすり込まれるように言われていた。

何もかもが嫌だった。

わたしの言葉は無視をされ、ちゃんと気持ちを吐き出すことは許されなかった。

そんな時の高校受験。

もうどうでも良かった。

わたしは勉強をしなくなり、成績はどんどん下がっていった。

通知表やテスト結果も見せなくなった。

お酒とタバコも弥生とするようになった。

弥生は、わたしの最初の志望校に入ると言っていた。

だが、内申点が悪く、志望校には入れなかった。そして、理容美容専門学校に行くことにした。

「わたしの最初のお客さんは、うーちゃんだからね」

と、顔を真っ赤にし、透明の大粒の雫を、瞳から溢れる程流していた。


わたしはそれから、お酒もタバコも止めた。

タバコは美味しいとは感じなかったし、お酒も殆ど飲めなかった。

自分には似合わない行為だと、確信した。



10



家から近い平凡な高校。


弥生とは疎遠になった。ウワサで、理容美容専門学校は、入学してすぐに辞めた、と、聞いた。

わたしは自転車で高校まで、普通に通っていた。

弥生のような刺激のある友達と、すぐに意気投合し仲良くなるが、彼女はすぐに中退してしまった。

あとはごく普通に、のんびりと毎日を過ごしていた。

厳しい学校ではない。

すごく頭の良い子から、どうしてこんなに頭の良くない子まで入学できたの?と思ってしまう程、様々な人たちが集まった。

高校生になっても、中学の時と同じバレー部に入った。

中学に入学した時は、わたしより背が低かった、同じバレー部の女の子は、あっという間にわたしの身長を追い越し、アタッカーとしてわたしとペアを組んでいた。

わたしは小さい体を利用し、センターとしてちょこまかと動き、ボールを拾っていた。

わたしの肩は強かったので、試合中は、サービスエースを連続して良く取っていた。

そのペアの子は、泉という名前だ。

肌の色は白くて艶があり、目鼻立ちが整っていた。鏡が大好きで、業間休みにはいつも一緒にトイレに行った。

わたしが用を足し、手をじゃぶじゃぶと洗い、ハンカチで拭き終わっても、泉はずっと、長くてサラサラの髪の毛を櫛でとかし、黒のゴムで何度も結び直した。

自分大好き人間だった。

彼女の成績は良い。

中学の先生からは、商業高校を進められていたが、友達を作るのが苦手なことと、わたしがこの普通の高校へ進路を変えたことで、泉はこちらの高校を選んだ。

泉はあまり他の子とは喋らない。

お弁当を食べる時も下校も、いつもわたしと一緒だった。

わたしはまっすぐに帰りたくなくて、遠回りをし、泉の家まで行ってから、自宅に帰るようにしていた。

途中小さな駄菓子屋があり、わたしと泉は勝手に「ちゅうたろうの店」と名前をつけ、帰りは殆どその店に寄り、チョコやアイスを買っては、自転車をゆっくり漕ぎながら、泉の家に向かった。

泉は可愛すぎてなのか、近寄り難いのか、男子からはいつも「小森谷さん」と、苗字で呼ばれていた。

笑う時も「がははは」とわたしのようにではなくて、「うふふふ」と顔を赤く染めて笑っていた。

またその表情も、可愛らしい。

休みの日には泉の家に行き、マドンナの曲を聴いていた。

泉の部屋は、六畳にベッドと机と本棚があり、淡いピンク色のカーテンがワンポイントで、いつもきちんと整理整頓されていた。

家の後ろには原っぱがあり、天気の良い日には、二人で寝そべり、日光浴をし、爽やかな風と、穏やかな時間を、のんびり過ごした。

だが、泉には欠点がある。

それは、いつも他人と自分を比較し、

「何であんなブスがモテるの?ブース、ブース、だいっ嫌い!」

と言ったり、

「あんなブスには負けたくない!」と、テスト結果が壁に貼られると、「ばーか、ばーか、ばーか!」

と、陰で罵っていた。

もちろん先生の悪口も散々言う。

わたしの耳はすっかり慣れてしまい、とりあえず、そうだねと同調すると、泉はとても満足していた。

不思議なことに、わたしの悪口は殆ど聞いたことはない。

まあ、いつも一緒ということもあったし、せいぜい、お互いのテスト結果を見せ合って、「うふふふ」と、わたしの点数を見て笑う程度だった。

泉の点数は平均九八点。わたし?わたしは内緒にしておこう。(笑)

彼女のお小遣いは、わたしより断然多い。

いつも毎月、同じ月刊マンガを買っては、わたしに見せてくれた。

お気に入りは「ちびまる子ちゃん」。

泉はマンガ家になりたかった。

何度も何度も投稿し、やっと佳作が取れて月刊マンガに名前が載った時、本当に嬉しそうだった。

彼女の絵はとても繊細で、キレイだ。背景も一つ一つ丁寧に描いてあり、うらやましく思えるくらい、素敵な絵だった。

しかし、評価では、「絵は最高得点。内容がイマイチ、もっと頑張りましょう」と書かれていた。

それから就職してからも、仕事をしながらずっと、マンガ家になる為、必死で描いた。

同じように、泉がマンガ家を目指していたように、わたしにも夢があった。

それは「小説家」。

中学の時から詩を書くのが好きで、色々なことを考えたり、想像して文章にすることが、大好きだった。

小説家になりたいと伝えたのは、泉にだけだった。「わかる!わかるよ!」と、お互いの作品(当時は詩ばかりを書いていた)を交換し、読み合いをしていた。

泉は本名で投稿していたが、わたしは誰にも知られたくない気持ちが強く、二人でわたしのペンネームを考え、最終的に「望月遠子」という名前が決定した。

ところが、高校三年生の一学期、恒例のテスト結果を見せ合うと、泉は口を手で抑え、いつもより良く笑い、

「オール五取れなきゃ、小説家は無理だよ」

と、目にかすかな涙を浮かばせ、笑いながら、わたしに言った。

わたしは悔しい気持ちより、「そうだよね」という気持ちの方が優先してしまい、呆気なく小説家の夢は諦めた。

それでもずっと詩だけは、書いていた。


中学からの友達で、クラスが一緒で、違う部活の子とも、仲が良かった。

彼女はショートカットで、笑顔が優しく、人の差別はもちろん、悪口も彼女の口から聞いたことがない。目立たないようで、でも存在感は充分にあり、男子と女子、どちらからも信頼されていた。

名前は「千夏」。

誰からも相談を受け、満べんなく他の子たちとも接し、懐の広い千夏。

わたしの自慢の友達。

千夏には色んなことを相談した。

家の事情や、好きな人の話、楽しかったことも、悲しいことも、殆ど話した。

高校卒業してからも、別々の仕事に着いたが、わたしが車で突然千夏の家に行き、帰りたくないと言うと、ご飯を食べさせてくれた。

千夏のお母さんは早くに亡くなっていたから、家事も千夏の仕事だった。

いつでもウエルカム。

モヤシとニラとひき肉で、パパッと炒めるのを見て、すごく感心した。

家の中は穏やかな空気で溢れていて、あっという間に時間が過ぎて行くことが、少し寂しく感じた。

千夏は陰で、わたしの心の中の、ぽっかり空いた穴を、埋めてくれた。

いつも支えてくれていた。

でもわたしの知らないところで、千夏も苦労し、泣いたこともあったと思う。

千夏はすごい人だ。

千夏とは今でも、わたしの方から突然連絡し、時々驚かせている。(笑)



11



美鈴ちゃんが結婚し、美百合お姉ちゃんも結婚し、十二畳の子供部屋はわたし一人になった。

ベッドも一つになり、わたしはベッドに寝るようになった。

寂しさは差程感じなかった。ただ、廊下をはさんで向かい側の両親が、気になって仕方なかった。

美鈴ちゃんが置いていったカセットコンボをガンガン鳴らし、大好きな「中森明菜ちゃん」の曲をひたすら聴いていた。

時々父親は勝手に部屋に入って来て、用もないのに無言で部屋にたたずんだ。

部屋にカギをかけると、「何でカギをかけるんだ!」と、激怒し、悪びれもせず、また勝手に入ってくるという、悪循環を繰り返していた。

母親はわたしに「グレ子」とあだ名をつけ、

「アンタがグレたから会社を辞めたんだ!」

と、わたしに向かって言った。

近所の人たちには、お祖母ちゃんの介護があるから…。と体裁良く話し、家からすぐ側の会社に、自転車で通うようになった。


そんなある夕ご飯の時、父親から、

「お前は我が家の十一代目になるから、絶対家からは出さない!」

と、突然言われた。

「は?え?何で?」

わたしは初め、言っていることを受け止めることが出来なかった。

つまり、美百合お姉ちゃんも、美鈴ちゃんも家を出てしまい、自然に残っているわたしが跡取りになる。と、決まってしまっていたのだ。


そこから益々過干渉が始まる。


玄関前には電話がある。そして階段も近くだ。

友達から電話がかかってくると、父親は階段に立ち、会話が終わるまでずっと聞いていた。

玄関の電気は消してあり、階段の薄暗い電気は灯り、そこにたたずむ父親の姿は、ボーッとしていて、気持ちが悪かった。

冷たいヒヤリとした空気が流れる。

楽しいはずの会話も、父親の目線が気になり、本音を言うことが出来ない。

父親にやめて!と言うと、

「心配だから聞いているんだ!」

と、逆ギレされる。

そのあと母親からも、

「電話代はお小遣いから引くからね!」

と、脅される。

居心地が最悪だ。

息がつまり、胸の奥深く眠る小さなわたしは、出て来ることが出来なかった。

なるべく両親を無視し、避けるようにしていた。

だが、「先祖代々」の話は毎日、毎日、頭に叩き込まれ、わたしは本当におかしくなりそうだった。


高校卒業。

社会人になる。

わたしは初めは、母親の車を乗り回し、あちこちぶつけながら、運転を上達させた。

そして、自分で乗りたい車を見つけ、美鈴ちゃんや、同級生たちと同じようにローンで購入しようとしていた。


自立したかった。


ところが、その話を両親にすると、「勝手な真似して!ローンなんて恥ずかしい!」

と、怒鳴られ、結局両親が決めた車を買い、両親はキャッシュで支払った。

他の人から見れば、うらやましい話だろうが、わたしはまた、両親が決めた物で縛られることになり、運転していても自分の車ではないような気がしていた。


うんざりだった。


五年後、わたしは今度こそ!と思い、勝手に車をローンで購入した。

それは中学からの友達、まるちゃんとお揃いの車だった。

両親からは散々叱られた。

でもわたしは、まるちゃんとお揃いということ、自分で決断したことが最高に嬉しかった。

当時、大好きな明菜ちゃんが、(今でも大ファン!)コマーシャルをしていた、「KENWOOD」というメーカーのスピーカーを、後ろに二つ付け、音が外に漏れる程ガンガン鳴らし、一人でドライブに行っていた。

本当の、自分の欲しいものを手に入れた。


まだ、母親の車を乗り回していた頃、たまたま美鈴ちゃんがお産をして、ウチに帰って来ていた。

わたしは音楽のボリュームを高くして、ノリノリで運転していた。

気がつけば、もう間もなく門限の、夜九時。

慌てて家に向かった。

冷や汗が出てきて、心臓は早く脈をうち、落ち着かなくなり、気だけが焦る。

そして、九時十分。門限が過ぎていた。

急いで家に入ろうとしたら、カギがかかってあった。

わたしはドアノブをガチャガチャ動かし、「開けて!」と大きな声で言った。

すると中から、美鈴ちゃんの声が聞こえて、

「門限過ぎてるからダメ!」

と、言われ、中に入ることが出来なくなり、胸元を手でギュッと握った。

胸の中の丸くて優しい塊が、氷のようにバリン!と、壊れていくのがわかった。


暗闇の中に、白く透き通った月が、美しく輝いていた夜だった。

わたしは悲しみを引きずったまま、まるちゃんの家に向かった…。。


「うーちゃん、うーちゃん、わたしの可愛い妹。うーちゃんはわたしの、ひまわりのような存在だよ」


そう言ってくれた美鈴ちゃんの言葉は、深い、深い、海に沈んでいくかのように、わたしの心の奥深くに、静かに沈んで消えていった…。





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