第一章 誰も知らない

1


わたしはテレビっ子だった。

あまりお笑い番組は見ない方だったけど、あるお笑い番組で、その大物芸能人のAとBのやり取りがすごく面白かった。

もちろん小学校でも話題になっていた。

もともと歌が大好きで、お笑いよりも、歌の方が記憶にある。

ずっと忘れていたけれど、ある日突然思い出したのだ。大物芸能人Aが歌っていた、

「しあわせって何だっけ……」


それはみんなが、一度は思うことかもしれない — 。


わたしの幼い頃の、住んでいた家は、三階建てで、東向きの玄関を入ると、右側すぐに応接間があった。

父親自慢の部屋で、みどり色のじゅうたん、オレンジ色のカーテン、茶色の大きな長ソファと一人がけ用の椅子が二つ、白いテーブルをはさんで並んでいた。

天井にはキラキラと輝く大きなシャンデリア。電気をつけると更に輝きは増し、ディズニー映画のシンデレラや、美女と野獣のダンスホールを思い出させる程だった。

父親の趣味か?はたまた母親の趣味か?原色だらけのその部屋はそれなりに整っていて、部屋の入口から立ってみても、全体的な色のバランスは迫力があり、大きなシャンデリアは特別目を引いた。

となり街の従姉妹が来ると、その応接間でいつも遊んでいた。

父親はそのたびに、「ソファで遊ぶなよ!」と言っていたが、子供はソファが大好き。壁にそって置かれている、長ソファで、トランポリンのようにジャンプをしたり、ソファの背もたれの上に乗り、落ちないように、早歩きをして楽しんだ。


そして、もう一つ父親の自慢があった。


それはステレオだ。

家の南東の部屋は、増築された部屋で、窓もやや大きく、やわらかな陽射しが入り、その部屋から眺める景色はとても優しかった。

第二のリビングとして使っていて、

春には、田んぼに植えられた苗が、青々とし、水面と共に光り、農家である我が家は、一安心をしながら眺めることができた。

色々な花々が咲く庭も見渡せ、一番好きな部屋だった。

その部屋にドン!と、存在感丸出しで置かれた、深みどり色の大きなステレオ。大人になってから訊いたのだが、今からおよそ五十年前、当時で四十万したと言う。

今の時代なら、相当な高級品だろう。


わたしと五歳離れている、長女の美百合お姉ちゃん、四歳離れた次女の美鈴ちゃん、そしてわたし。

三姉妹はそのステレオで、レコードを聴き、身近に音楽を楽しむことが出来た。

自信過剰で嫌いな父親だが、そこは感謝している。

母親は昭和歌謡曲、美百合お姉ちゃんはクラッシック、美鈴ちゃんはわたしに合わせて、童謡のレコードをかけてくれた。

その中でも特に、「おはながわらった」という歌が、わたしのお気に入りだった。

大きな二つのスピーカーから、流れてくるメロディー。それは頭からつま先まで、音楽を充分に感じさせ、全身に血が流れていることがわかるくらい、体を熱くさせた。

そのお陰で、音楽を聴く楽しさも、歌う喜びも、三姉妹は体中から感じることが出来た。


そしてそこから三人共ピアノを習い初め、次は習字、そろばんと塾通いをして歩いた。

姉二人は優秀である。ピアノも上手かったし、習字やそろばんも、殆ど叱られることなくこなしていった。

ところが、歳の離れたわたしは、いつも姉たちと比べられ、先生から投げ出されるようになり、姉たちが中学に上がる頃に、わたしも塾をやめた。

いや、他にもやめた理由がある。

母親からは、

「アンタは一番飽きっぽいからね。だから何でも続かないんだ」

と言われ、わたしの奥底の気持ちを、汲み取ってくれることはなかった。



2



わたしは保育園の時から、大人しい子だった。

同じ子たちよりも背は小さく、とても痩せていた。

食も細く給食が嫌い。いつも残してしまう。


わたしは砂場で遊ぶことが多く、他の子たちは、うんていやジャングルジム、すべり台と、きゃあきゃあ騒ぎながら遊んでいて、なかなかみんなの中には、入ることが出来なかった。


そして、水が怖かった。

道路をはさんで、すぐ向かいに小学校があり、年中さんと年長さんは、夏になると水着姿になり、ぞろぞろと整列しながら、道路を歩いて小学校に向かった。

小学校には大きな二五メートルのプールと、浅い小さなプールがある。

まずは浅いプールで、みんな遊ぶのだが、その前に目と口を洗う台があり、わたしはそこが、まず、一つ目の難関場所だった。

水を怖がらない子たちは、順番に並び、みんな当たり前のように次々と、人差し指と親指で目を見開き、蛇口から飛び出してくる水で目を洗う。

次に違う蛇口で、口の中に水を入れ、ガラガラガラとし、最後に「ぺっ!」と出していた。

わたしは常に一番後ろに並び、自分の番がこなければいいと思っていた。

それからシャワーで、全身冷たい水を浴びる。

みんな声をあげて、「つめた~い!」と、きゃあきゃあはしゃいでいく。その中に、わたしは一緒に入れない。

すると先生が、わざとわたしに水をかける。

わたしは殆ど声が出せず、心の中は恐怖と不安でいっぱいになり、半泣きし、全身震えながら、流れ出る水に黙ったまま背中を向けて、立ち尽くしていた。

浮き輪を持ってきてる子は、大きいプールの浅い方で、わしゃわしゃ、じゃぶじゃぶとし、大きな笑い声を出しては体を沈めたり、ビート板を持ちながら楽しんでいた。

その光景はわたしからみても、とてもうらやましかったし、みんなの輪の中に入れないことが、すごく虚しく孤独を感じさせた。


それは小学校に入ってからも続き、プールだけではなく、運動神経は鈍く、かけっこや鬼ごっこ、ドッチボールは特に嫌い。今でも嫌い。

だから、運動会なんてなければいいと思っていた。

そんな鈍くさいわたしでも、年長さんの時に生活発表会で、「その他大ぜい」ではなく、たった一人の役が与えられた。

劇、「オオカミと七匹の子ヤギ」のお母さん役だった。

同じ年の子は、オオカミ三人くらいで、あとは全員子ヤギの役だった。

私は普段、スカートなんて履くこともなかったから、ピンクの長いスカートを履いたことが、恥ずかしながらもとても嬉しかったし、それを、大好きなお母さんにみせるのが楽しみで、ワクワクしていたことを覚えている。

練習でも本番でも、ピンクのスカートは動くたびに体に沿うように、ゆるん、ゆるんと流れるように揺れ、自分が女の子だということを、意識させてくれた。

その時だけは「みんなと違うこと」が嬉しかった。


小学生になっても一年生の時は、「かさこ地蔵」のお祖母さん役で、主役だったし、二年生の時は、担任の先生が考えた劇、「オペレッタ」で、主役の「ちょうちょのお姉さん」役を演じた。

その、ちょうちょの羽も優しいピンク色で、それを広げながら演じたことも、よく覚えている。

とにかく嬉しかった。

みんなより目立たなくて、大人しくて鈍くさいわたしが、三年連続主役に選ばれたことと、スポットライトをわたしだけに体中浴びせられ、何だか違う世界にいるような気がした。

でも、そんなわたしの気持ちや、主役を演じたことを、お母さんは覚えていない。

わたしは、お母さんにほめてもらいたかった。「よく頑張ったね」「ちゃんとみてたよ」「えらかったね」と、ニコニコ笑顔で、頭をなでて欲しかった。

だが、お母さんが覚えていたことは、美百合お姉ちゃんが一年生の時に、「シンデレラ」で、主役に選ばれたことだけだった。

美百合お姉ちゃんは、それがキッカケで同級生の女の子に妬まれ、イジメが始まった。それは高校卒業まで続いた。

それからは、いや、その前からお母さんは「美百合はかわいそうだ」といつも言うようになっていた。

美百合お姉ちゃんが生まれた時、お祖母ちゃんが、お母さんからお姉ちゃんを取り上げ、しばらく抱かせることはなかった。

お母さんは乳腺炎になり、泣きながら母乳を絞ったと言う。

その印象が強いのだろう。何をするにも「美百合はかわいそうな子」として、一番可愛がった。


家族で父親の自慢の車に乗り、デパートで買い物をし、その最上階の食堂で、外食をするのが楽しみだった。

その時にお母さんは、

「好きな物を食べなさい」

と、言ってくれていたが、いつもわたしたちに、

「ウチは貧乏なんだからね」

と、頭に叩き込むように言っていた。 だから、わたしと美鈴ちゃんは、一番安いラーメンを半分こにし、ソフトクリームも半分こにわけて食べていた。

パフェを食べたい時は、ラーメンをガマンしていた。

ところが、美百合お姉ちゃんだけは、AランチだのBランチ(ハンバーグや、ナポリタンにエビフライがのせてある物)を、遠慮なくねだり、そのうえチョコレートパフェまで頼んでいた。

大きなパフェのガラスの器の中には、下に桃やミカンの少しの果物が入れてあり、その中にたっぷりのソフトクリームが入っている。

上からとろとろとしたチョコレートが、はみだしそうなくらい 、たっぷりとかけられ、横には二切れのバナナと、頂上には真っ赤なさくらんぼが一つ、ちょこんとのせられていた。

お母さんはそれをいつも承諾し、美百合お姉ちゃんは満面の笑みを浮かばせながら、細長いスプーンで少しずつ、少しずつ、ゆっくりと食べていた。

美鈴ちゃんとわたしは、美百合お姉ちゃんが食べ終わるまで、チョコレートパフェをじっと見なから、うらやましく思い、残りの空腹の部分は、お茶を飲んでガマンしていた。

家でのおやつ係はわたし。

オレンジジュースを同じコップに注ぐと、美百合お姉ちゃんは「もう少し」と言い、美鈴ちゃんは「ずるい!」と言いながらも、仕方なく、美百合お姉ちゃんに、少しだけ多めに、コップに注いであげた。

おやつの定番、かっぱえびせんも、ガサちり紙に一本ずつ数えてわけて食べていたが、それも美百合お姉ちゃんだけ「もう少し」と言い、美鈴ちゃんはしぶしぶ数本多くし、わたしには自分の分をわけて、食べさせてくれた。

その時から美百合お姉ちゃんだけは、「特別」のような気がした。



3



我が家には、雲一つない空を思い浮かばせるような、真っ青の、マンサートの屋根の小屋がある。

ずいぶん古いが、父親が日曜大工で所々修正し、数十年経った今でも健在だ。

小屋の入り口は、木の片開きで、子供の力ではビクともしない程の、とても重い、扉だった。

小屋の中に入ってみると、中は薄暗く、マンサート部分の大きめの窓から、光が差し込む程度だった。

その小屋に入るのは怖いけれど、当時仲の良かった、使用人(男)の後ろから着いて周り、ドキドキしながらも、一緒に中に入っていった。

窓の側に行けるように、太い木で作られた階段が、置かれてある。

使用人は、袋に入った大量の桑の葉を持ちながら、慣れているように木の階段を上がり、袋の中の桑の葉を、バサバサと満べんなく広げていた。

その作業を終えると、無言のまま、何事もなかったかのように、階段をゆっくりと下りてくる。

わたしも真似をして、階段をおそるおそる上ってみる。

緊張がピークに達し、手に汗がじっとりと滲んでいた。

しかし、見なければ良かった……。

そこには複数の木箱が並べてあり、その中に、使用人(男)がバサバサと並べた桑の葉を、白い幼虫が前後に体をうねうねと動かしながら、小さな口で、ムシャムシャ食べていた。

蚕だった — 。

わたしが幼い頃だったから、その蚕はとても大きく見え、カブト虫の幼虫くらいの大きさかと思う程だった。

皮肉にもその蚕は、窓の光を浴びてツヤツヤと輝いていた。

使用人(男)は、そのわたしの姿をニヤニヤしながら、黙って見ていた。

それからわたしは、幼虫が大嫌いになった。


美鈴ちゃんは、トンボを捕まえるのが上手かった。

一緒に外に出ては網目の荒い、青い虫取り網を持ち、ひょいひょいと、マジシャンのように捕まえてはわたしに見せてくれた。

わたしは手汗が出る程緊張しながらも、「美鈴ちゃんすごいね!」と言いながら、汗ばんだ小さな手を、服でごしごし拭うと、ぱちぱちと拍手をしていた。

そんな時、一匹の白いモンシロチョウが網に引っかかる。

モンシロチョウは羽をバタバタさせ、必死に抵抗した。

そのたびに、モンシロチョウから粉が出てきて、さすがの美鈴ちゃんも気持ち悪くなり、すぐさま逃がしてあげた。


その次が更に問題だった。


美鈴ちゃんは複数飛び回るオニヤンマを、網を持ち追いかけ回し、遂に一匹捕まえた。

わたしはのどが乾いてきて、大きく深呼吸し、じっとその姿を見る。

美鈴ちゃんはオニヤンマを、何の抵抗もなく触り、網に引っかかっている頭の部分を、丁寧に取ろうとしていた。

わたしは無言のまま、生つばをゴクリと飲み込む。

その時だった。ブチッと音がして、気がつけば頭と胴体が離れていた。

あっという間の出来事……。


それから益々、わたしは虫が嫌いになり、カエルも、バッタもカマキリも、いつ自分のところに飛んでくるかわからない虫が、怖くなってしまった。



4



小学一年生。

黄色い帽子に赤いランドセル。新しい靴に新しい体操着。筆箱も鉛筆も消しゴムも、何でも新しくてピカピカだった。

いつもなら美鈴ちゃんのお古を着たり、持たせられたり、普段着は従姉妹からもらった物ばかりだから、「新しい物」はわたしの気持ちを明るくさせてくれた。


ある日、ハンカチ、ちり紙点検というのがあり、それぞれ机の上にのせた。

わたしも普通に机の上に出すと、みんなから、「なにそれー」と笑われた。

みんなが持ってきたちり紙は、ポケットティッシュで、わたしの持ってきたちり紙は、白いガサちり紙になる前の、ねずみ色のちり紙を束にして折りたたんだ物だった。

家に帰ってから、その話をお母さんに報告すると、

「みんな贅沢だねぇ。アンタはまだ小さいからそれでいいんだよ」

と、言われた。

わたしは、みんなから笑われたことが恥ずかしかったけど、それ以上お母さんには言えなかった。

だが、美百合お姉ちゃんと美鈴ちゃんは、すでにポケットティッシュを持ち歩いていた。

お母さんは、美百合お姉ちゃんが、小さなことでもイジメに合わないようにと、いつも気配りしていた。


慌ただしく、あっという間に一年が過ぎ、二年生に進級。

担任の先生も一年生の時と同様、「ササキ」という女の先生だった。

ササキ先生は、同級生や保護者からも、人気のある先生だった。


しかし、わたしに悲劇が起こる…。


それは初夏で、湿度が少しあるけれど、太陽が眩しく、風が吹くとイチョウの木の若葉がザザーッと波打って見えた。

全ての授業が終わり、男の子四人と女の子はわたし一人だけで、外の黄色いすべり台のところで、ウルトラマンごっこをすることにした。

すべり台の下は砂場になっていて、すべり台からサーッと滑ってきても、怪我をしないように砂が敷かれていた。

五人でジャンケン。負けた子が怪獣の役。

普段ならわたしはジャンケンは弱いのに、幸い勝ってしまった。

そして一人の男の子、「シンちゃん」が怪獣になった。

シンちゃんは比較的大人しい男の子。普段から大きな声を出したり、活発に動くタイプではない。

初めはすべり台を下から上に登ったり、シンちゃんを追いかけたりして遊んでいた。

するとダイちゃんが、砂をシンちゃんに少しかけた。

どうやら、ウルトラマンビームの真似らしい。

そして他の子たちも次々と砂をかけた。

わたしは少し驚いた。

ダイちゃんは物静かで、他の子をからかったり威張ったりするタイプではない。

だから砂をかけたことは、わたしから見ても、とても意外なことだった。

一緒にいた他の男の子も、特別目立つ子たちではない。

ところが、砂かけは 段々エスカレートし、わたしにも「やれ!」と指示がきた。

わたしはそれが悪いことだと思っていたが、その場のノリで、えいっ!とシンちゃんに砂をかけた。

シンちゃんは泣き始めた。

服に飛び散った砂を手で払い初め、わたしやダイちゃんたちも、慌ててシンちんに着いた砂を払ってあげた。

それでも細かくてキラキラした砂は、殆どシンちゃんから離れることはなかった。

その話は、家に帰っても誰にも言わなかった。

一人でソワソワしながら、明日のことを心配した。

次の日、シンちゃんは学校を休んだ。

すると、担任のササキ先生は、少し怖い顔で教室に入ってきた。

そして、前日のウルトラマンごっこの件について、話を始めた。

どうやら、シンちゃんのお母さんから、苦情の電話が来たらしい。

そして一緒に遊んだ人たちを立たせ、一人一人に声をかけ、事情を訊いていった。

ダイちゃんから始まり、

「ボクは昨日、シンちゃんに砂をかけました」

と、言った。

それから次々と、ササキ先生は質問し、そのたびに、「ボクもシンちゃんに砂をかけました」と、他の子たちも答えていった。

そしてわたしの番。

頭の中が混乱し、手は汗でぐっしょり濡れ、爪の跡が付く程ギッチリとぐーの形をした。

胸はギュッと苦しくなり、息が浅くなる。

同じ質問を、ササキ先生はわたしに訊ね、「正直に言いなさい!」と涙目で詰め寄ってきた。

わたしは半分パニック状態で、ボロボロ涙を流しながら、肩をヒックヒックと上下に動かし、言葉が出なかった。

すると、先生をあおるように、「うーそつき!うーそつき!」と、わたしに向けられた声が響いてきた。

それは殆どの子が手拍子しながら、半分楽しみながら、先生とわたしのやり取りの様子を窺っていた。

そしてササキ先生の怒りはピークに達し、平手でわたしの左頬を思いっきり叩いた。

わたしの顔の半分左側、ビリビリとする感覚がし、耳まで熱くなっていく。

わたしは全身震えが止まらず、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、ようやく「わ、わたし、も、や、や、やり、ました」と、振りしぼるように小さな声で、呟いた。

ササキ先生も大泣きし、クラス全体シーンとなり、わたしは呼吸することで精一杯になった。


それからである。長い長い地獄の日々が続いたのは — 。


三年生になり、ビアノの発表会で早退しなければならない日があった。

そして次の日、いつものように近所の子と一緒に学校へ行こうと、家に寄ると、

「アカネなら早く行ったよ」

と、お母さんが玄関に出て来て、そう言った。

わたしはその時は、特に何とも思わなかった。

一人でとぼとぼと歩いて、学校に着き、いつも通りに「おはよう」と、先に来ていたアカネちゃんや、カズエちゃんたちに言うと、チラッとこっちを向いては知らんぷりした。

「え?」

その不可解な様子に戸惑いながら、席に座り、ランドセルの中の教科書やノートを机にしまった。

業間休みや給食を食べたあと、話かけようとすると、女の子たちはぷいっとし、わたしを遠ざけていった。

わたしは家に帰っても訳がわからず、気のせいだったかも…と思い、次の日の朝に、いつも通りアカネちゃんの家に寄った。

するとまたお母さんが出て来て、先に学校へ行ったと言う。

わたしはまた一人で学校に行き、普通に「おはよう」と言うと、今度は男子も含めて、教室中異様な空気に包まれていた。

わたしはその空気をすぐに感じ、背中に汗がツーッと流れるのがわかった。


わたしはその日から、クラス全員に無視されたのである。

理由は全くわからない。でもみんなの視線がわたしに向くと、ヒソヒソ声や、クスクス笑う声が聞こえてきた。

わたしの頭はパニック。額から冷や汗が流れる。

どうして?どうして?どうして?


一番仲が良かったハナちゃんまで、カズエちゃんたちと一緒になって、わたしを見ては笑っていた。

しかしその日の夜、ハナちゃんから電話がかかってきて、

「無視してごめんね。カズエちゃんには怖くて逆らえない。」

と、言われた。そして、

「ピアノの発表会で早退したでしょ?それがズル休みだって、カズエちゃんがみんなに言ったの。そしたら全員そうだ、そうだって言って、みんなで無視しようってことになったの。でもわたしは、本当はうーちゃんの味方だからね。本当にごめんね」

と、電話の向こう側で、ハナちゃんがグズグズ泣いているのがわかった。わたしは、

「もういいよ。わかったから泣かないで」

と言って、電話を切った。

本当はものすごく悲しくて、寂しくなった。

わたしは一人ぼっちなんだ。

心が締め付けられて、痛みを覚えた。

両親には言わなかった。言えなかった。

美百合お姉ちゃんがずっとイジメられていることで、頭を悩ませていたからだ。

美百合お姉ちゃんは、時々ストレスからなのか、ご飯を食べてる最中に、突然倒れることがあった。

両親もお祖母ちゃんもみんな、美百合お姉ちゃんが第一で、かわいそう、かわいそう、と言っては目をかけ、手をかけていた。

倒れた時も念の為病院へ行ったが、てんかんの発作ではなかった。

だからわたしは、一人で耐えるしかなかった。

カズエちゃんがボス。

カズエちゃんのお父さんは、声が大きくて背の高い人で、怖い印象があった。

カズエちゃん自身も、女の子の中では活発な方で、運動も得意。自分の意見もきっちり言える子で、流行りの物をいち早く学校へ持ってきては、女の子たちに自慢していた。

だから、カズエちゃんが「こうする!」と決めたら、誰も逆らえなかった。

班替えの時も、班長が好きな人を順番に名前を言い、わたしはいつも一番最後になった。

そしてわたしが入った班は、「便所」と言われ、いつしかわたしは汚いとか、臭いとか言われるようになった。

これで頭が良いとか、運動が得意とか、何かしら他の人に勝るものでもあれば良かったのだが、平凡より以下だったから、わたしはずっと一人ぼっちで静かに過ごしていた。


そんな時、理科の授業でモンシロチョウを育てて、みんなで成長ぶりを観察することになった。

班ごとにエサを与えたり、今日はどんな様子だったか、調べなければいけない。

そして、わたしの班の番。

同じ班の子たちは虫取りカゴを見て、モンシロチョウの幼虫を取り出しては、動きや、キャベツを食べる様子を観察し、先に帰ってしまった。

教室に残っていたのは、わたしの他に数人の男の子と、アカネちゃんとカズエちゃんだけだった。


嫌な予感がした…… 。


まず男の子が、教室の二つの扉を閉め、わたしが出られないように押さえていた。それから別の男の子が、モンシロチョウの幼虫を手に取り、わたしの頭にのせようとした。

わたしは教室の中を、必死になって逃げ回る。

その姿を、カズエちゃんとアカネちゃんが、笑いながら見ていた。

そして遂に教室の端に追い込まれ、わたしはしゃがみこみ、

「イヤーッ!」

と叫びながら、頭と耳を手と腕で覆うが、幼虫を持った男の子が、わたしの背中の中に、幼虫を、今にも入れようとしていた。

わたしは家で育てていた、蚕を思い出していた。

あの、前後にうねうねと歩く動き、桑の葉をムシャムシャと食べていく口元……。

体全体が震え、熱くなり、泣き叫び、冷や汗が全身から溢れだし、「助けてー!」と大声を出していた。

カズエちゃんは益々笑う。

男の子たちは、幼虫をカゴに戻すと、大きく両手を振りながら拍手をしていた。

わたしはうずくまり、みんながわたしに飽きるまで、ずっと、ずっと、ガマンしていた……。


四年生になっても、五年生になっても、カズエちゃんを中心とし、わたしはイジメられていた。

時々わたしに飽きると、ターゲットをアカネちゃんやハナちゃんや、他の子に変わることもあった。

でも、他の子たちは、ほんの数日間で、わたしは常に無視されたり、ランドセルを廊下に投げ出されたり、上履きに画びょうや、綿ゴミを入れられたり、酷い時には焼却炉に投げ捨てられたこともあった。


四年生の時に、担任になった先生が雰囲気で察してくれて、わたしは声をかけられたことがある。だが、わたしは、「大丈夫です」と答え、先生にバレないようにしなくてはいけないと、思っていた。

毎日、毎日、学校に通った。そして毎日、毎日、一人で泣いた。

イジメられていることは言えなかったし、我が家は厳しく、勉強がおろそかになると言って、少しくらい熱があっても、腹痛になっても、ガマンして、遅れてでも登校しなければならなかった。

でも、やっぱり美百合お姉ちゃんだけは違った。

頭がずば抜けて良かったし、登校拒否をしても、自主学習で、すぐにみんなに追いついた。

美鈴ちゃんは、美百合お姉ちゃんと年子だったから、いつも保護者の代わりになり、二人で早退することもあった。


美鈴ちゃんは常にわたしの味方であり、母親代わりだった。だから、わたしがイジメられていることを何となく知り、カズエちゃんたちのことを、怒っていた。


イジメは六年生になっても続いた。


ある朝早めに学校へ行くと、机いっぱいに、「バカ!」「臭い!」「死ね!」「学校くるな!」と書かれていた。

わたしは黙々と雑巾で拭いたが、消えることはなかった。

その様子をみんなが見て笑っていた。

途中チャイムが鳴って、五年生の時からの担任の先生が教室に入ってきたが、先生は見て見ぬふりをし、出席を取り始めた。

とても惨めだった ……。


修学旅行になり、その時だけ突然仲良くされた。

担任の先生はもちろん、教頭先生や、保健の先生も一緒だったから、イジメていることを隠す為に、仲良くしたと言う。

修学旅行が終わり、わたしはイジメはなくなったと喜んでいたが、次の日からまた無視をされた。

あとからハナちゃんに、修学旅行の仲良しの理由を聞かされ、ガックリとした。

今まで以上に、胸の辺りがキューッと痛くなり、呼吸をするにも苦しくなった 。


そして、六年生の冬休み明け。

先生が名前を次々言い、三つのグループにわけ、グループごとに机と椅子を並べた。

「中学に上がる為のテストがある。その為のグループだ。」

先生はそう言い、

「こっちは頭の良い子、真ん中は普通の子、こっちのグループは頭の悪い子……」

と、はっきり言った。

わたしは頭の悪い子のグループで、女の子はわたし一人だった。

惨めで悔しくて、唇にキュッと力を入れ、胸元を左手でギュッと掴んだ。

通信簿だって、体育だけは「がんばりましょう」で、あとは「よくできました」と「普通」が多かったし、国語と音楽は「大変よくできました」だった。

わたしの中では、そんなに極端に悪い方ではないと思っていた。

ただ、授業中に答えがわかっていても、手を挙げられず、下を向いていたこと。

黒板の前に立った時と、教科書を読む時に自信がなくて、緊張して声が出なくて、いつも泣いてしまうこと。

それが悪かったのだろうか……。


わたしの瞳から、涙が止めどなくぼたぼたと、流れ落ちていく。つま先から頭のてっぺんまで、カァ — ッと全身熱くなってきた。

顔も火照ってくるのがわかる。

泣いても、泣いても、先生までもがちゃんと、わたしという人間を見てくれてはいなかった 。

それが小学校最後の、イジメだと思った 。


大人になってから、母親にイジメられたことを話したら、

「アンタがギャーギャー騒ぐから、みんな面白がるんだ。美百合の方が酷かった」

と、言われた。


大物芸能人Bに、カズエちゃんと、担任の先生のパンツを引き下ろしてもらい、銀河チョップのおしおきをして欲しいと、願った。



5



父親と母親は、農業をしながら、別々の会社で二交替勤務をしている。

父親は大型トラックの免許も取得しており、大型トラックで一時期、関東方面まで運転の仕事をし、最終的に電気関係の仕事に就いた。

母親はわたしが生まれて半年後、すくに二交替勤務の会社に入り、家事と会社と農業で忙しく働いていた。

その頃には、長女の美百合お姉ちゃんも、次女の美鈴ちゃんも保育園に入っていて、わたしは、近所でも有名な、ウチの意地悪お祖母ちゃん、ひいお祖母ちゃん、一緒に住んでいた父親の姉、つまり、わたしから見るとおばちゃん、時々となりのお祖母ちゃんに預けられ、代わる代わる育ててもらった。

だから、母親が早番の時は、朝起きると会社に行ってしまい、夕方にはいるけど、外の畑仕事と家事で忙しかった。

遅番の時は、朝の外仕事で忙しく、保育園の送りは、使用人(男)にしてもらい、帰りは美鈴ちゃんが迎えにきてくれた。

小学校に行く時も、初めは美鈴ちゃんと一緒に手を繋いで通った。

わたしは、いつもお母さんを求めていた。手を繋いだり、一緒に歌を歌ったり、抱きしめて欲しかった。

甘えたかった。

赤ちゃんの時は、さすがに可愛がってくれたと思う。でもわたしの幼き記憶の中では、抱っこをしてもらったことなど、全く覚えていない。


いつも忙しく、更には日本舞踊のお稽古まで行くようになった。


気がついた頃には、美鈴ちゃんが母親代わりだった。

いつも一緒に遊んでくれて、ノートに女の子の絵を描いて、それに合わせて服も沢山描いて、着せ替え人形ごっこをした。

外に出ては、葉っぱをむしり取り、少し大きめな石を見つけ、ガンガン叩いて潰して、おままごとのご飯として食べる真似をした。

とにかく色々な遊びを考えてくれて、わたしはすごいなぁと、いつもワクワクしていた。


お風呂も、小さい時は両親と入り、その次に使用人(男)と入り、最終的には美鈴ちゃんと入って、頭を洗ってもらった。

二階には、廊下をはさんで両親の部屋と子供部屋とあり、最初は両親と寝ていたが、ある日突然、「今日から子供部屋で寝ろ!」と言われ、わたしは投げ出された気持ちになった。

子供部屋には美百合お姉ちゃんのベッドと、美鈴ちゃんのベッドがある。 しかし、突然投げ出されたわたしのベッドはない。

わたし一人だけ、畳の上に布団を敷いて眠ろうとした。

布団の中はとてもひんやりしていて、首元から背中にかけてゾクッとし、悲しくて自然に涙が溢れ、心の底から寒さを感じた。

あまりの寂しさに、美鈴ちゃんのベッドにもぐり込み、美鈴ちゃんはそんなわたしを受け止め、抱きしめて一緒に寝てくれた。

夜中にトイレに行く時も、美鈴ちゃんは眠い目をこすりながら、「いいよ」と言っては、玄関の横のトイレまで付き添ってくれた。


まだわたしが二年生くらいの時だ。

母親は、「アンタを一番長く抱いて寝た」と言っていたが、ちっとも嬉しくなかった。むしろ、追い出されたことの方が、虚しく心に残っている。


美鈴ちゃんが中学生になると、母親の代わりに朝ご飯の支度や、わたしの面倒、美百合お姉ちゃんを起こしたりと、大忙しだった。

美鈴ちゃんは大好きな「お母さん」を守りたくて、助けたくて、お手伝いをしていた。

遠足のお弁当も、いつも美鈴ちゃんが、卵焼きの黄色や赤いウインナー、コーンコロッケ、パセリと、彩り良く盛り付けてくれて、わたしはそれが自慢だった。

そしてその時から、それが美鈴ちゃんの、「当たり前」になってしまった。


美百合お姉ちゃんはマイペース。朝早く起きて勉強し、また一眠りする。そして時間になると、美鈴ちゃんに起こされていた。

美百合お姉ちゃんは、小学生の時からずっとイジメられていて、中学に入っても変わらなかった。

体育館で全校集会があると、突然倒れ、周りは驚き、「きゃー」と言う声も聞こえた。

普通は保護者を呼んで、迎えに来てもらうのだが、両親は仕事で当然行けず、いつも美鈴ちゃんが保護者の代わりとして、美百合お姉ちゃんと一緒に早退していた。

美鈴ちゃんは学校が楽しかったから、本当は早退したくなかったけど、いつもガマンをしていた。

美百合お姉ちゃんは、自分でも気づいていないと思うが、周囲の目を向けたくて倒れていたようだ。

いわゆる防護術を自然に覚えたのだろう。

たぶん、小学生の時の、あの夕ご飯に倒れた時から……。


倒れたあと、同級生に両腕を抱えてもらいながら、自分でも歩き、体育館を出るまでずっと何か喋っていたらしい。

それを見ていた美鈴ちゃんは、いつも、嫌だな…。と、心の中で呟き、フツフツと湧きでてくる感情を、押さえていた。


イジメのボスの女の子のお父さんは、教師だった。

ボスの女の子は嫉妬深く、自分より頭の良い美百合お姉ちゃんを妬み、女の子を集め、グループを作った。

ある日、ボスの女の子は男の子に命令し、ウチに電話をかけさせ、美百合お姉ちゃんを呼び出した。

そして美百合お姉ちゃんが騙されて、呼びだされた場所に行くと、グループで囲み、何かしらと文句を言い意地悪をしてきた。

それを知った両親は益々激怒し、「かわいそうな美百合」を何とか守ろうと必死だった。

だからわたしの小学校の様子など、全く気にも止めてくれなかった。

成績も、お姉ちゃんたちと比べたら、まるでダメと言われ、母親からは「グズでのろまで、不器用で、何をやらせてもダメな子」と罵られた。


そして母親は、料理をしながらわたしの前で、「もしもしカメよ~カメさんよぉ~」と、ノリノリでお尻を振りながら、歌っていた。

わたしは自分でもそう思い込むようになり、「わたしはダメな子」と、頭の中に、言葉をすり込むようになっていき、自信というものを、全く持てなくなっていった。


そして、美百合お姉ちゃんが、中学卒業。

美百合お姉ちゃんは、イジメていたグループと、同じ高校に入学してしまった。

だから美鈴ちゃんは、父親から、「美百合を守れ!」と言われ、自分の行きたい高校には通えず、美百合お姉ちゃんと一緒の高校へ進んだ。


我が家では父親の意見が一番正しく、言うことを聞かないとすぐに叱られる。

父親は「オレの言うことは間違いない!」と、威厳を放ち、母親もそれに従っていた。

父親はいつも鬼のような形相で、イライラしていた。

会社での仕事を持ち帰って来ては、夕ご飯の時に資料やノートを広げる。 日本酒を飲み、くわえタバコをし、テーブルの上の料理に、タバコを吸った息を吹きかける。

左手の中指でトントントントンテーブルを叩き、足は貧乏ゆすりをしていた。

わたしたちが学校の話をしようとすると、顔を真っ赤にし、しかめっ面で、「うるさい!静かにしろ!」と怒鳴り散らした。

わたしは一番下だから、特にとても怯え、父親に対しての恐怖を覚えた。

自分の意見は絶対言ってはいけない、感情も出してはいけない。黙ってご飯を、黙々と食べるしかなかった。


外には牛小屋があった。

少し口答えすると、外にある牛小屋に、閉じ込められることもあった。

わたしはいったい何をしたのだろうか……。

おそらく差程長い時間ではなかったと思うが、まだ小学校低学年の時だから、とても長い時間に感じた。

牛小屋の中は、赤いような、オレンジ色のような、大きな裸電球がユラユラと光を放っていた。それが真っ黒い牛に反射し、更に牛の目がギラギラとしているように見えた。

牛の体は大きく、鼻に金色の輪を付け、鼻水を垂らし、今にもその口で食べられるのではないかと思った。

大きな口は、上下左右に動かしながら、前足を後ろに蹴りだし、「ウン、モウ~!」と鳴き、ヨダレをたっぷり滴り落としていた。

怖くて怖くて、重い木の扉の前に座り込み、「いやぁー!たすけてー!たすけてー!」と、足をガクガクさせ、全身震えながら叫んだことを、今でも覚えている。

しばらくすると助けてくれたのは、母親ではなく、使用人(男)だった。

おそらく、父親か母親に命令されて、扉を開けてくれたのだろう。

わたしは母親に助けてもらいたかった。「怖かったでしょ?」と、抱きしめて欲しかった。でも現実は違った。


あの時の恐怖は忘れられない。

それがキッカケなのかわからないが、未だにMRIやエレベーターが苦手だ。


ご飯を食べる時、お肉もお魚も父親優先で、母親はいつも、

「お父さんのお陰で食べれるんだからね。」

と言い、わたしたちにはお肉やお刺身も一切れで、あとは父親が食べていた。

おかずがない時はご飯にマヨネーズや、ソースをかけたり、タマゴかけご飯を食べていた。

満たされない時は、スーパーのチラシのお肉やお菓子を手で掬って、口に入れる振りをし、「美味しいね」と、美鈴ちゃんと一緒に食べ物ごっこをしていた。


そんな時に、母親の会社に時々、パン屋さんが来ていた。

母親はいつも、中にチョコレートが入っているパンダの顔の形をしたパンや、大きな縦型の、袋に沢山入っている、パンの耳を買ってきてくれた。

それがとても楽しみだった。

パンの耳はそのまま食べたり、美鈴ちゃんが油で揚げて、砂糖をまぶして食べていた。

わたしにとっては、最高のごちそうだった。






















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