凍える前に

とかげくん

第1話




   


1          

 芝生が太陽の光に照らされて輝いているように見えることと同じくらい、部屋に届いた絨毯は美しかった。跳ねつけのない、艶やかな生地は肌触りが絶妙に気持ちよくて、何度でも触れたくなる。売り場から離れられずにいたのは、値段を検討していたからではない。絨毯が配列してある奥のカーテン売り場に、懐かしい顔を見つけたからだ。彼が、その店に戻ってきていたことは、この時にはじめて知った。彼がこの店舗にいること。過去の記憶の産物としてうねるような熱情が蘇る。懐かしい。ただ、そう思っていた。同時にその場から立ち去ることが懸命な判断のような気がした。


 しかし、透かしガラスに映るような半透明な自己の心は消え入った。私は自分自身の胸の内側に籠る感情をよく理解していたので、絨毯を購入する動機が少し不純でも構わないと思った。彼とゆっくり話したい。その考えは、臆病だった昔の私には到底思いもよらないものだったが、いまの私には相応しいような心持ちになった。


 カーテン売り場から彼がこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。陳列された商品を左右確認しながら、鮮やかな色彩が描かれた絨毯が並ぶその影にいた私には気づいていない。彼は急にしゃがみ込んだ。絨毯売り場の床に敷かれた商品の傷みを確認している。


「お久しぶりです」

顔を上げた彼は、私を見て手の動きを止めた。私たちは数秒見つめ合った。

 彼は、するりと立ち上がり姿勢を正した。

「お久しぶり。元気にしていた?」

 懐かしい笑顔だった。

「はい。最近、この近辺に引越してきたんです。今日は仕事が休みなので買い物に来ていました」

 昔、何度も見た彼の穏やかな笑い顔は、年齢を重ねても変わらずにここにあった。

「そうなんだ。仕事、やっぱり続けているんだね。良かった」

店内に流れる緩やかなテンポの音楽が遠くに過ぎ去る気がした。私は彼に、購入したい絨毯があると伝えた。


 彼はすぐさま営業職特有の表情を見せた。店員と客としての事務的な会話。彼の声は、いつだって私の内側を捉える。そして、それは彼も同じであることを、傲慢さを超えて過去の会話から思いだしていた。会計を済ませる前に、彼は名刺を取り出して、電話番号は変わっていないよ、と言った。差し出された紙の一枚。それがどういうことを指すのか、と瞬間的に考えて私は彼に向かって少し笑ってみせた。




 部屋に彼が来た日は冷蔵庫の中身が空っぽだった。私たちは玄関先で抱き合って、気づいたらベッドまで移動していた。彼の腕や足、胸板は、以前より少し引き締まっていた。あとで聞いたらスポーツジムに通っていることを話してくれた。


 なにか美味しい料理を作りたかった。しかし、カップラーメンしかないので、二人で分けて食べた。


「お金のない恋人同士みたいだね」

彼が笑っていた。

「でも、おいしいよ」

私は、そう答えた。

「そうだね」

 二人で交互にカップラーメンを食べていると、懐かしいような気持ちになった。

「食べたら、帰る?」

私の問いに彼は黙ってうなずいた。

 窓に目を向けると、月のひかりが輝いていた。




 彼とは一週間に一度のペースで会った。

 しかし、次第にそれは二週間になり三週間になった。再会から半年過ぎた頃には、会うのは一ヶ月に一度の頻度になっていた。


 ある朝、飛行機雲を見た。


 その時、急に思い立った。私は彼との関係を清算しようと思った。




 玄関扉を開けて私は彼を部屋に招いた。

 いつもはそうしない。彼は常に自由に部屋に入ってきた。しかし、今日は違う。


 そして、この日は何日の何時に行くよという彼のメールより先に、私から連絡をしていた。


 私と目を合わせた彼の瞳の奥深くにとどろくようなひかりがはっきり見えた。


 私は簡潔に別れよう、と彼に伝えた。

 彼は、戸惑いの意思表示をした。けれど、家族がこの世で一番大事な彼の心を私のほうへと落とし込む力はない。


 彼は私の手をにぎった。

 私が彼にまだ惹かれていることは確かだ。彼もまた同じ感情を抱いていることは、手のひらから伝わってくる。私たちは、なんだろう。同じ人間でありながら、性別が違い、意味なく気になるというだけで、身体を重ねているわけではなかった。


 何も存在しない暗闇の両極端に座り込んだ二人が、仕方なく歩き出して、手探りで進んでいたら途中でぶつかったような出会いだった。二人は尻餅をついて転んで、痛みに耐えて前を見る。お互いの瞳のひかりだけが、その場を包む。ああ、こんな所にもまだ人が居たんだ。そう思って安堵する。そこには、私たち二人だけの世界しかなかった。


 私には、引き剥がされるものはなかった。第三者が関与して勃発するどんな夫婦のあらましも修羅場も、それは生活を繋ぐスパイスになるのだろうと想像していた。家庭における妻と夫の役割について何処からでも学ぶことはできた。年月と共に変容する家族の営みを多くの言葉を使い表現として紙の上にのせることは簡単だ。しかしそれは経験から発するものではないので、細かな微粒子のように張りめぐらされた彼の心の壁を、本当の意味で理解することは私にはできないだろうと思った。


 私たちは、それぞれ自分の心の悲しみに向き合わなければならない。飛行機雲は、それを私に伝えていたような気がする。


 彼とは、離れなければいけない。

 そう頭で考えるほど、唇は近づいた。その度に私は心のなかで、さようならを何度もつぶやいた。

 



 最後のベッドは熱く、冷たい。

 私たちは身なりを正した。彼は私に何か言おうとしていたけど、私は違う方を向いた。私たちにはもう、沈黙することしか残っていない。


 私の部屋から出る彼に向かって

「お元気でね」

と告げた。感情のすべてを込めた最後の言葉。うまく笑えているか、自信はない。


 彼は振り返って呆然としていた。徐々に今にも泣き出しそうになった。


 窓の外から騒音が立て続けに響く。それはかき消されてはすぐに鳴り続けた。しばらくすると急に外の音は消えた。静かな夜に戻った。


「羽根井さんも、お元気で」

 言葉と同時に彼は、身体の向きを変えて、玄関に歩き出した。やけに小さく見える彼の背中だけを私は見ていた。


 ドアが閉まる音が聞こえた。私は椅子から立ち上がるとキッチンに向かった。蛇口をひねりコップに水を入れてゴクゴク飲んだ。


 涙は出なかった。しかし、一人握りしめた手から血液の巡りを感じると、この想いが永遠に終わらないような心境になった。私の心も身体も、泣いていると思った。


 明日は花屋に寄ろう。真っ白な花を買って、部屋に飾ることにしよう。美味しいご飯を作って、食べよう。就寝前には温かい飲み物を淹れよう。少しずつ日々を楽しみながら、日常の幸せをとり戻していく。私にはそうすることしかできない。そして、そうやって生きる力はまだある。


 孤独でも、悲しみに一人泣いたとしても、私は自分を受け入れよう。彼を想ったように、それ以上に自分を全力で愛したい。


 そして、床に敷かれた深緑の布に同情されないためにも、たくさん眠ろうと思った。




2

 彼と別れてから三ヶ月が過ぎようとしていた。日常は容赦なく訪れ、長い夜が終われば朝が来た。その繰り返しの中で最初は無気力が襲った。どん底までいく前に、生活リズムを変えるためにスポーツジムに通ったり料理教室を訪れたりして、一人になる時間をできるだけ作らないようにした。彼の声が聞けなくなって二ヶ月を過ぎた頃には、気分も落ち着いて、穏やかにすごせるようになった。


 その日は昼食を食べ終えて、珈琲を飲んでいた。手元に置いた携帯電話が鳴った。着信を見ると、知らない番号だった。無視するか数秒迷って、電話をとった。


「もしもし、羽根井さん?僕だけど」


懐かしい彼の声が耳元に響いた。私は声が出せなくて、戸惑った。


「急に電話して、ごめん。君のマンションの鍵を返していないことに気付いたんだ」


私の手は小刻みに震えて返答出来ずにいた。

「どうしても会って返したくて電話をしたんだけど…。聞こえている?」

私は頷いて、やっと小さな声が出て返事をした。

「聞こえています」

二人の間に沈黙が流れた。受話器から、車の走る音が伝わってくる。


「いま、君のマンションの駅のそばなんだ。会えないかな?」

冷静さを装って、私はゆっくり答えた。

「わかりました。鍵、取りに行きます」

「駅のロータリーに車を停めているから、待っているね」

彼は、そう言って電話をきった。


 急いでコートを羽織った。洗面台に行き、少し化粧を直して鞄を手にした。いつもの休日のパンツスタイルに、無造作に髪を下ろしただけの姿。一瞬、着替えるか考えた。彼に会う時はいつも、スカートにヒールを履いて、丁寧な身なりを意識していた。背伸びをして食事をしたり会話を続けたこともあった。そんな過去を思いだして、鍵を受け取るだけなんだから、と着飾ることを諦めた。




 平日の駅前は静かだった。

 時間帯が昼過ぎなこともあり、歩いている人は、まばらだった。

 懐かしい、その車を見つけた時に、言いようのないもどかしさを感じた。


 私は車の横に近づいた。すると、ドアが開いた。

「よかったら、乗って」

久しぶりに会った彼の表情は、さわやかな笑顔だった。仕事のときの笑みとも違って、すっきりした顔つきをしていた。


 私は頷いて、車に乗り込んだ。

「元気にしていた?」

彼は、私のことを見ていた。私は彼から少し目線を外して、ハンドルを見つめて頷いた。


「本音を言うと、ずっと会いたかった」

「妻とは離婚した」

私は自分の耳を疑った。


「どうして?上手くいっていたと思ってた」

彼は、私を真剣に見つめていた。


「羽根井さんと再会した時には、もう別居していたんだよ。あの頃、君に伝えるタイミングをずっと探していた」

私は彼を見た。変わらないようで、変わっている。私も彼も。

「羽根井さん。ぼくと一緒になってほしい」

私たちの確かな間違いに、自分でも気づいている。

でもどうしようもない感情が襲った。

「君と微妙に距離を埋めてしまったことを後悔してる。家族の問題をきちんとしてから、君と過ごせばよかった。傷つけて、ごめん」

「わたしは…」


二人の関係を純粋なものにすることは、物理的に無理、不可能だと思っていた。それがいまは、違う形へと変わろうとしているのかもしれない。彼の発した言葉は一番聞きたかったことのように思えた。


「これから……」

私の声は途切れた。

「うん。ゆっくり返事してくれたらいいよ」

「ううん。いま言うよ。これから私を離さないで」


私たちは見つめ合った。


 彼は私の手を握った。

 その手は今まで彼から感じたことのない、熱を帯びていた。


窓ガラスには、雨の雫が少しずつ流れはじめた。










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凍える前に とかげくん @fool727

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