第92話


〜・〜



ふんわりとしたコーヒーの香りが部屋を満たした。


誰も何も言わないのは、俺と木田の雰囲気が重いものだったからだろうか。




「体の方は大丈夫?」


「あ、……はい。もうほとんどは治ってます」


「そっかそっか。

……最近カフェで見かけないからさ」




親則はふわりと笑みを向けてくれた。


俺も少し口元に笑みを浮かべてみた。

でも、うまくいかずにぎこちないものになった。




「お仕事、忙しいの?」


「……俺も往焚さんも、なかなか落ち着かなくて。

依頼された仕事は全部引き受けてこなしてました」





もう、璃久と一緒に過ごした日々が、はるか過去のことのように感じた。


たった1ヶ月前だというのに。




湊とゼロの死は、俺たちにとって大きな出来事だった。


大きすぎて、受け入れられなかった。




俺は璃久さえあればよくて。

でも、璃久はそうじゃない。



身近な人の死に、何かしていなければ狂ってしまいそうなくらい…。




そんな璃久を、どうすることもできずに。

俺も仕事ばかりに浸った。


そうすることで、何も考えなくていいように。





「……往焚さんは、ここにはいないの?」


「………ええ。…俺が、傷つけてしまいましたから」




ポツリ、小さく呟いた声に、開理と木田の意識がこちらに向いたのがわかる。


自分が少し、緊張しているのを感じた。




…どうして緊張なんて。


知られたくない、わけではない。

してしまったことは無かったことにはできない。



それは、生まれてからずっと教え込まれてきたものだ。





「傷つけた?」


「はい。

………あの日、」






俺は、ポツリ、ポツリと。




あの日の出来事を話し始めた。







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