ゾーハ⑤

 それからは地獄だった。

 倒れてから後のことは意識がなくて、何も分からない。

 意識が戻ると、イーゴは馬のひく木製の荷車に乗せられていた。

 荷車の上でガラガラと揺らされながら生と死のはざまにいた。

 屋敷で気絶したときの症状は治まっていない。

 景色は相変わらずぐるぐると回っていて気持ち悪い。

 血も栄養も足りないままで、全身が何もかも力を出し切った後のような疲労感で体が重く、だるい。

 空腹なのに胃は弱って吐き気がする。

 荷車には父親も一緒に乗っていた。

 しかし、イーゴに対するものだろう、文句を言ったり悪態をつくばかりでイーゴに何の処置もない。

 イーゴの体は死に抗おうと戦っていた。

 汗は出続けている。脈は弱いが早くうっていた。空腹とのどの渇きがひどい。

 意識が薄くなっては、また回復するのを繰り返す。

 乗り越えなくては。耐えなくては。

 ぼやけた意識の中で、イーゴはそれらの苦痛と戦い続けた。

 両親の住む小屋に着き、イーゴは父親に引きずられて屋内へ放り投げられ、そのまま横になった。

「手間をかけさせやがって。お前が不味い血なんか飲ませるから俺が責められたじゃねえか。貰えるはずだった金も五で割った分もねえ」

 父親は勝手なことを言いながら、動けないイーゴに酒を飲み干した木製のコップを投げつけた。コップは頭に当たった。

「楽に稼げるって聞いたのによ。全部お前のせいだ。あげくにお前を運ぶのに家畜を借りちまったからその分の金もなくなっちまったんだぞ!さっさと働いてその分を取り返せ。いいな」

 体がだるくてしょうがないが、責められてイーゴは言い訳を喉から絞り出して言った。

「体が治ったらすぐに働きに行きます」 

 都合のいいことを何か言わないと父親はさらに怒り、余計に殴られる。

 こういうことを言うのは暴力を避けるのに身に付いた習慣だった。

 母親はいつもの食べ物、素っ気ないオートミールや雑草を詰め込んだスープをイーゴに出した。

「お前のせいでドレスを買えなくなったんだよ。その分働きな。おら、さっさと食え」

 けれど、胃は受け付けなかった。

「早く食えってんだよ」

 イーゴは吐き気を抑えて口に入れて、飲み込んだ。

 弱った体はすぐには治らず、そのまま寝込み続ける。

 胃は、何か食べると始めは胸焼けしたが、無理やり飲み込むうちに回復して胸焼けは治まった。2、3日して血の巡りも良くなって、体力はかなり回復した。

 それでも、食欲は湧かなかった。胸やけはもうないし、胃は弱っている感じもない。

 何か食べないとならないことは頭ではわかっているが食べる気がしない。

 どういうわけか食べるという行為自体が嫌になっていた。

 食べ物にまるで吐しゃ物か糞便のような気持ち悪さを感じて受け付けない。

 どんな美味しそうな食べ物を思い浮かべてすらそうだった。

 それになぜか、いくら、オートミールやパン、スープを口に入れても何の味も匂いもしない。

 今まで何でこんなものを平気で食べていたのか、そう思うほど食べ物というもの、あるいは食べるという行為に対して嫌悪感を抱くようになった。

 かと言って何も食べなければ空腹になり、貧血になり、力が入らないから食べなければならない。無理やり口に入れ、咀嚼し、飲み込む。

 腹が満たされる喜びも味と香りを楽しむ喜びもない。

 体に異物が入ったような違和感を覚える。

 ただ空腹と貧血は抑えることは出来た。

 それからは食事はイーゴにとってやらなければならないが、辛いだけの儀式に変わっていた。

 寝込みながら母親が料理をしている様子を観察したが、材料も作り方もいつもと変わらない。

 イーゴは自分の方がおかしくなっているような気がしていた。

 寝込むイーゴを父親は罵り続けた。

 そもそも人身農具の契約をした本人ではないイーゴを働きに行かせるのは契約違反だし、農場に入るのはイーゴの不法侵入にあたる。

 どっちも罰則の対象だが親は楽をするために構いはしなかった。

 五日かけてイーゴは何とか動けるようになり、病床から起き上がって、父親の言う通り小鎌を持って農場へ働きにいった。

 家を出ると、日差しをもの凄く強く感じた。

 まぶしいなんてものではない。強烈な光が目の前で爆ぜているようだ。

 それに日が当たるところがとても熱い。外気や日差しが熱いのではない。熱さは体の内側から来ていた。

 全身の血が、熱湯に変わって全身に流し込まれている、そんな感覚だった。

 それらの苦痛は全て日光から来ている。

 恐ろしい。あの日の光はまるで自分を殺そうとしている。

 それでも農場へは行かなければならない。

 父親はしびれを切らしている。サボったなら何をされるか分からない。

 日の光が恐ろしいなんて言い訳をすれば余計に殴られるだけだ。

 人身農具は、早朝に集まって数人の耕作隊を編成して農場へ働きに行く。

 違法に農場へ向かうイーゴはその耕作隊に見つからないように、その後を進んでいった。

 イーゴの父親に配分された農地に着き、小麦を刈り取っていく。

 父親は農場に来ると働いている振りをした。

 夕方、労働の終わるころには日は落ちて大分楽になる。

 かわりに、強烈な飢えに苦しめられるようになった。

 渇く。

 とても渇いて喉を潤したい。

 欲しいのは水ではなかった。

 活力。

 生気。

 それが溢れているもの。

 血だ。

 人間の血が欲しい。

 人に嚙みつき、溢れてくる血を飲み込んでしまいたい。

 その血はとても美味だろう。

 そして渇きを満たしてくれる。

 けれど、そんなこと出来るわけがなかった。イーゴはただ欲求を抑えながら帰路につき、家に帰った。

 その後も飢えは収まらない。

 なんて恐ろしいことを自分は考えているのか。一体どうしてしまったのか。

 おかしくなってしまったきっかけは、あの怪物のような男が血を吸おうとしたときに違いない。けれど、自身の体に何が起こっているのかさっぱり分からない。

 次の日から、変わり切った体質を隠し、特に血への欲求を親にも自分にもごまかしながら、形だけは元通りの生活に戻った。

 親に命令された時には代わりに働きに出る。

 それでも、母親はイーゴの変化に気付き、避け始めた。

 離れたところから顔を訝しげに見ては、まるで化け物じゃないかとかアタシに近づくんじゃないよとか言ってくる。何が悪くて何をすればいいのか分からない。

 腕を見ると、肌が前より青白くなっていた。

 イーゴはクークワ教会付属学校のサーサリネ先生に相談するべきか悩んだ。

 彼女に相談すれば何かがわかるかもしれないし、どうしたらいいか教えてくれるかもしれない。

 けれど、先生が化け物のようになった今の自分を知って避けられるようになってしまうのは嫌だった。自分と関わって先生に迷惑がかかるかもしれない。

 現に人の血を飲みたくてしょうがなかった。ただでさえ体の弱いサーサリネ先生の血を衝動的に飲んでしまったなら、あるいは先生の立場が悪くなってしまったら。

 悩んだ末、イーゴは学校に行くことにした。先生でも見当がつかないなら迷惑がかからないうちにすぐに帰ることにした。

 農作業の帰りに、教会へ向かった。

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