ゾーハ⑥

 歩いていると、教会の方向からイーゴと同じ年くらいの子供が数人歩いてくるのとすれ違った。

 みんな絹のシャツとズボンを着て、脇には教科書だろうか、厚い本を抱えている。

 見た目で教会付属学校の正規の生徒たちだと分かる。

 おそらく彼らはサーサリネ先生の教え子たちで、学業を終えて帰るところなのだろう。

 うつむいて目を合わせないようにしたが、ふいに声をかけられた。

「君、顔色が悪いようだけど大丈夫かい」

「大丈夫だよ、ありがとう」イーゴは答えそそくさと立ち去った。

 付属学校に通える身分の子供は、貧しい身分の子供など見下しているようなのばかりだ。

 けれども彼らは見るからに貧しいイーゴに声をかけてくれた。

 先生の教えの賜物だろう。

 日が落ちかかった頃に、クークワ教会の施設についた。

 聖堂は人身道具の住処5件分くらいの広さがある、石造りの立派な建物だ。

 箱型の外観に、屋根の中央に三角屋根の鐘塔がある。鍾塔には鐘が吊り下げられ、てっぺんには信仰の象徴である折れた木のやりを模した鉄製のモチーフが掲げられている。

 その周囲には家畜小屋と付属学校が建てられ、裏側には墓地がある。

 付属学校は木造で教室と休憩室の二室がある。

 正規の生徒ではないイーゴは付属学校の教室に入ることはできない。サーサリネから勉強を教わるのは休憩室だ。

 いつもならここ来るのは楽しいが、今は居心地が悪い

 イーゴは休憩室に入る小扉の前に突っ立った。

 サーサリネが中にいるはずだ。

 イーゴはノックをした。

 彼女がどういう反応をするか、緊張する。

「どなた?」

 扉の向こうからサーサリネの声がして、扉がすぐに開いて顔を出した。

 ほっそりした体躯に、細面の顔。白い絹のドレス。

 位階を持つ女性であるならもっと派手な服を着ているものだが、清貧の彼女は、そのドレスの数も少ない。

 腕には草花の刺繡が施された、ゾーハ位階十三位を示す腕章。

 金色の長髪は帽子の中にまとめてある。

 ドレスの右胸にはランクォの花の刺繡がある。黄色い星形の花が3つ並ぶ。ランクォは春頃に咲く、ギザギザの葉と星形の花びらをした花らしい。

 この辺では咲かないのでイーゴは見たことはないが、サーサリネは大好きなのだという。

 だからか、サーサリネはドレスにこの花の刺繍をて、子供たちから目印になるようにしていた。

「あらイーゴ君?」 

「サーサリネ先生、お久しぶりです」

 俯きながら言う。

「しばらくみなかったけどどうしたの?心配してたのよ」

 いつも通りのサーサリネの優しい声に目頭が熱くなった。

 イーゴは自分の状況を説明しようとしたが、いざ話すとなると何から話していいか分からない。

 サーサリネはイーゴに目を向けてきて、異変に気付いたのか、目を見開いた。

 それから腰を低くしてイーゴの顔を間近に見て手をそえた。

「これは、どうしてしまったの?」

 サーサリネはイーゴを見つめて、凍りついたように固まった。

「体が、おかしくなってるんです」

 イーゴは顔を上げて言った。

 サーサリネは食い入るようにイーゴの目、口の中、腕をながめていった。

「なんてことなの!」

 彼女が悲しむように言った。

 扉を大きく開け、とりあえず中に入りましょうと休憩室に促した。

 サーサリネと一緒にイーゴは休憩室に入る。

 飾り物はほとんどない。机の上に本と書き物の道具に、花が生けた花瓶が置かれている。

 清貧のサーサリネらしい質素な部屋だ。

 備え付けの鏡に寄り、自分の姿を見て絶句した。

 瞳は赤みがかり、犬歯は少しだが牙のように突き出ている。姿があの屋敷の主に近づいている。

 イーゴはサーサリネに言われるまま床に座る。

 サーサリネはイーゴの前に腰を落とした。

「いったい何があったの?」

「親に連れて行かれた屋敷で、知らない男に嚙まれたんです。血を吸われました」

 イーゴは端的にあの日の出来事を話した。

 サーサリネは啞然としていた。その男がゾーハ位階第三位であることは言わなかった。

 敬虔な信徒である先生を傷つけると思ったからだ。

 後々、イーゴはこの時のことを思い出すとこんな気づかいは何の意味もなかったと思う。

 彼女はゾーハの薄汚さなどイーゴよりずっと身に染みていたはずなのだから。

 イーゴは話を続けた。

「それから自分が変になっていくんです。食べ物を受け付けなくなって、何か食べても味も匂いも感じなくなったり、日の光がもの凄く眩しく感じたり……」

「食べ物を受け付けない……味もにおいもしない……光が眩しい」

 サーサリネはイーゴの言葉を繰り返し呟き、しばらく逡巡して問いかけてきた。

「聞きにくいことを聞くのだけど」

「イーゴくんは、その……」

 サーサリネはためらいがちに聞いた。

「人の血が飲みたい?」

「え?」

 もっとも言いづらいことに対する問いが、彼女の口から出た。

「はい」イーゴは正直に答えた。

「そう」

「でもそんなことはしたくありません」

「分かっているわ、あなたはそんなことしないもの」

 サーサリネは何の疑いもなくイーゴの言うことを信じてくれた。血への欲求は強くイーゴ自身にその自信がなかったのに。

 彼女はイーゴの右手を両手で握った。

 一瞬、彼女はいぶかしんだ顔をした。

 自分の手が何かおかしかったのかもしれないとイーゴは思った。サーサリネはすぐにイーゴの目をみつめて強く握った。

「怖かったし、苦しかったでしょうね」

 イーゴの苦しみを共有してくれているようだった。

「多分、あなたはヴァルノックになってしまったのだと思うわ」

 ヴァルノック……始めて聞く言葉だった。

「前に同じような症状の人を見たことがあるの」

「先生はこの病を知っているのですね。どうすれば治せるのでしょうか?」

 イーゴの急いた反応にサーサリネは申し訳なさそうに答えた。

「ごめんなさい。私はヴァルノックのことを詳しく知っているわけではないの。正直、本当に何年かぶりに見て驚いてるわ。それがよりにもよってよってイーゴくんだなんて。どこまで力になれるか分からないわ。ごめんなさい」

「そうですか」

「こんなことになるなら先生にもっと詳しく話を聞いておけばよかったわ」

 先生というのは、サーサリネの先生ということだろうか。そういう人物がいることを初めて聞いた。

「とにかく今はあなたがどういう状態なのか知るのが大事だと思う。あなたにとって辛いこともあるでしょうけど」

「はい」

「私が覚えているのは、ヴァルノックは死の存在になる病ということ。ヴァルノックとなった人が別の人を仲間にしようと、自分の力を与えて同じヴァルノックの仲間にしてしまおうとするの」

 イーゴは、今の話は変だと思った。

 あの屋敷の怪物のような男はイーゴを明らかに見下して仲間にしようなんて気があるとは到底思えない。

「ヴァルノックにされてしまった人は死を迎えて、生気を求める死者になってしまう。

 生気というのは、つまり血ね。

 それで人を襲って生き血をすするようになる。

 時には人を殺してしまいさえする。

 逆に死んだものは不快に感じて体も心も拒んでしまう。

 どんなに新鮮だとしても、野菜も果物も肉も死んだものであるから受け付けない。

 それにヴァルノックなら食べる必要はない。生き血さえあればいい。

 それから、日の光に弱くなって、浴びると物凄く苦しくなる」

「つまり僕は死人で、幽霊のようにさまよっているということですか」

「それは……」

 先生は言葉に詰まったようだった。

「死んでしまっているなんて考えたくないけど」

 先生は独り言のように言った。

 死人のような肌、血が欲しい。日の光が怖い。

 確かに自分の変化が先生の言ったことと当てはまるところは多いが、食い違っているところもある。

 イーゴはそのことを聞いてみた。

「先生のおっしゃることと少し違うところもあります」

「どこかしら?」

「食べる必要がないというところです。お腹は空くのです」

「お腹は空く?それに加えて、血も飲みたくなってしまうということ?」

「はい」

「そうね、それだとあの人と違うわ。私もちょっと気になることがあるのだけど」

 先生はイーゴの右腕を取って握った。

「さっきも感じたけど、何というか、人より温かくはない。けど、少し暖かくもある。死んでいるというならもっと冷たくなると思う」

 人差し指と中指でイーゴの手首をしばらく触った。

「脈だわ!とても弱いけど脈がある」

 そう言ってからしばらく考え込んだあと、イーゴに問いかけた。

「さっきだんだんひどくなっていくって言ってたわよね。それって最初から肌の色とかはこういうふうじゃなかったってこと?」

「はい。血を吸われたすぐ後はまだ血色はありました。だんだんひどくなっていくんです」

「さっき味も匂いもしないと言ってたわよね。それにお腹が空くとも。それって食べたくもないものを食べてるってことかしら?」

「そうです」

 先生はため息をついて、しばらく黙り込んだ。

「まさか」

 呟いた後、言いにくそうにイーゴに話す。

「とても、恐ろしいことを言うのだけれど」

 これはあくまで私の推測よ、と断って話を続けた。

「あなたは、完全にヴァルノックになっているわけではなくて、生きているところと死んでしまっているところが混ざっているのかもしれないと思うの。あくまで推測よ」

 生きながら死人になる……

 まだ確かに自分には生きていると思えるところはある。

 反面、死人のようになってしまっているところも多い。

 自分の状態を考えるとそうかもしれないと思った。

 思い当たるのは、血を吸われたあの時のことだ。あの位階第三位の不味いと言ってイーゴの首筋から牙を一度放した。

 あの男はおそらく反射的に戻したのだろうが、何かしらの体液がイーゴの血の中に入ったのかもしれない。

 思い返せば、あの時嚙まれた首のところから何か得体の知れないものが体に入ってきたような気がする。

 あの体液、あれがサーサリネの言う、人をヴァルノックにする力なのではないだろうか。

 さっき彼女はヴァルノックが仲間にしようと自分の力を与えると言ったが、あの怪物はイーゴを眷族にするつもりは毛頭なかっただろうし、意図しなかったことのはずだ。

 イーゴの体に入った体液はごくわずかだったに違いない。

 だからイーゴは完全な死に至らずに、少しずつ死に浸食される状態になった、そう考えられる。

「そうかもしれません。それなら腑に落ちるところがあります」

「なんて恐ろしいことなの」

 先生が嘆いた。

「生きながら死んでいくなんて。あんまりだわ」

 先生はイーゴを強く抱きしめた。華奢だが柔らかい感触が伝わる。

「ああ、この子をお救い下さい。この子はとてもいい子なんです」

 彼女は何に言っているのだろうか。ゾーハの神だろうか。

 先生は、イーゴから体を離して目を見つめた。

「出来る限りのことはするわ」

「僕は一体どうなっていくのか恐ろしいです」

 先生はまた考え込んだ。

 この子のためにできること……なにかないの……

 しばらく呟き続けて、

「そうだわ」

 突然閃いたように言った。

「一緒に家畜小屋に来て欲しいの」

 先生が少し興奮している。 

「思い出したの。彼は家畜の血を代わりに啜ってたのよ!」

 サーサリネはイーゴの手を引き、二人は休憩室から出て家畜小屋に入った。

 中には十羽ほど鶏が飼われている。

「言い訳は後で先生がどうにかするから、血を飲んでみて」

 はっきり言ってあまり鶏の血は飲みたい気がしない。

 けれど、彼女はそう言っている。

 イーゴは目に留まった鶏の一羽に嚙みついた。ニワトリは羽を広げて暴れだした。

 暴れた鶏を抑えながら、嚙みつきその血をすする。

 とても不味かった。

 血を飲むには不味さをこらえなけばならなかった。

 サーサリネに言われなければとても飲んでみる気にはならなかっただろう。

 けれど、潤される。

 イーゴはいくらか血を啜ってから鶏を手放した。

 ニワトリは小さくぴくぴくと動いて弱っているが、まだ生きている。あの日のイーゴ自身のようだ。

 気づくと血への欲求は大分なくなっていた。

「どう?」

「楽になりました」

「良かった」

 サーサリネは安心したように言った。

 イーゴは、サーサリネ先生はやはり尊い人なのだと改めて思った。

 それはゾーハの位階も関係ない。

 二人は休憩室に戻った。先生はイーゴの口元の血をハンカチで拭いた。

 イーゴがいう。「血が欲しくて誰かを誰かを襲ってしまうのではないかと恐ろしかったです。それはしのげることが分かりました」

「ええ、そうね。一つずつ解決していきましょう」

「はい」

「あなたは何を教えても吞み込みが早いし、本科の生徒より覚えがいいくらいだわ。

 それにあなたには芯がある。

 だから、どんな状況でも将来立派なことをするかもしれない。

 なんとなくそんな気がする。例えヴァルノックに侵されてもそれは何も変わらないと私は思ってる」

 先生の力強く感じる瞳がイーゴを捉える。

「だから、やけになったりしたらダメよ」

「分かりました」イーゴは努めて元気に答えた。

 先生の言葉がお世辞でも嬉しかった。

「あとは日の光をどうするかね、二人でどうしたらいいかまた考えましょう。今日はもう日が暮れてきたから……

 ええと、あなたの場合日は沈んでた方がいいのかしら。でも、夜は危ないからもう帰りなさい」

「はい。

 ここに来るまではどうしたらいいかさっぱり分かりませんでしたが、落ち着いて来ました。ありがとうございました、本当に」

 イーゴはサーサリネに礼を言って家に帰った。気分は少し晴れやかになっていた。

 家畜の血で欲求は一時的にしのげるようになったが、しばらくするとまた出てくる。

 結局は人の血の代替物だ。それでもそれを知っていることは大きい。

 それからイーゴは度々クークワ教会を訪れて先生に鶏の血を分けて貰った。

 数週間後、教会を訪れるとサーサリネから黒い布を手渡された。

 黒い布は広げるとフードの着いた黒い外套だった。

 着てみてと彼女に言われ、被るとイーゴの体は頭の先から足元まですっぽり覆われた。

 軒先で日の光を浴びたが、外套は丁寧に縫われていて、ほとんど光を通さない。焼き払うような日の光が遮られとても楽に感じる。

 このローブは後々までも、イーゴにとって宝物であり、生命線になった。



 それからもイーゴが教会付属学校を訪れると、サーサリネは肉や滋養のあるものを食べさせてくれた。

 彼女はイーゴが完全な死人になるのに抗おうとしてくれたが、イーゴの死は確実に進んでいった。

 

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闇夜をゆく者 砂擦カナメ @sunazuri

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