ゾーハ④

「帰りにまた来るからな」先導役はイーゴにそう言い残して去っていった。

 イーゴと父親の二人で庭園を歩く。

 そこは単調だった農村の風景とは打って変わった別世界が拓けていた。 

 庭園には一面に念入りに手入れがされた緑が広がる。

 澄んだ水が溢れ出る石造りの優雅な噴水。

 木製の精緻な装飾が施されたベンチ。

 色とりどりの花畑。

 鳥が留まりさえずる樹木。

 歩き疲れていたが、イーゴは生まれて始めて見る贅沢な景色に心が躍った。

 けれども、ここへ何をしにきたのかは知らない。

 父親は豪華な景色に何一つ見惚れはしていなかった。それどころか庭園に入ってからはなぜか委縮している。

 父親のいつも威張った態度は見る影もない。

 ここへ楽しみに来たわけではないことは分かった。

 むしろ父親が楽しんでいたのは、前日と前々日の晩だ。

 親の食べ物がやたらと豪華で、父親は大量の酒を浴びていた。イーゴも珍しく肉を三口ぐらいだが与えられ食事は少しだけだが豪華だった。

 二晩も続けてそんなことがあるのは珍しい。

 庭園を歩くと、大きな石造りの屋敷があった。

 農場の住居群の小屋を10軒以上連ねた大きさがある。

 美しい模様が施されたステンドグラスが貼り付けられている。

 ステンドグラスの窓が縦に4つ並んでいることから、4階建てなのが分かった。

 こんな建物は一度も見たことはない。

 イーゴは父親とともに屋敷の手前まで来ると、その外観を間近でまじまじと眺めた。

 外壁をなす石は、微塵の隙間も許さないかのように綺麗に切り出され埋め込まれている。 

 屋根のてっぺんには金色に輝く、3つにへし折られたやりが掲げられていた。

 イーゴのよく通うクークワ教会の屋根にもあるゾーハ信仰での象徴物で、典型的な飾りだ。

 もっとも教会のものは木で出来ているが。

 それを見て、イーゴは安心した。

 どんな立派な屋敷に住んで、豪勢な生活をしようが同じゾーハの信徒なんだ。

 同じ信仰を持ち、同じ聖典を読んで、同じ神に守られている。

 イーゴにとって同胞だし、向こうも同胞だと思ってくれるに違いない。

 金のやりの脇には旗が掲げられていることに気づいた。

 旗は青い素地に金で縁取りされ、雲の紋様が施されている。

(雲!)

 イーゴは興奮した。滅多に見られるものではないからだ。

 ゾーハの勲章の模様は天に近づくほど位が高くなる。

 一番低いのは十三位の草花の位、サーサリネの位だ、その上が獣、さらにその上が樹木というふうに。

 そして、雲はゾーハの位階第三位の証だ。

 この屋敷の主は、雲の模様が表す通りイーゴにとって空にいるほど高い位の人物だと分かる。

 旗が偽物であることは考えられない。偽物を掲げればゾーハ教会から恐ろしい厳罰が下される。

 ゾーハの位階は信仰心と功績が審査されて、信徒の地位として与えられると聞いている。

 『位階は神によって与えられる敬虔さの揺るぎない証である。

 賢さと心を試して位階を与え、得た者には勲章を与えよ』

 聖典の位階の制度を定めている下りだ。

 これをイーゴが暗唱できるのは教会付属学校でサーサリネから文字を教わり、独学で聖典を読み込んだ成果だ。

 彼女のように位階を持っていることが信仰心と能力を認められた信徒の証であり、イーゴにとっては憧れの的だった。

 位階を得る審査は具体的には、聖典の理解を問う難関の試験と、既に位階を得た信徒の推薦がある。

 加えて、目に見える証として、位階勲章と呼ばれる 位階に合わせた腕章が授与される。

 サーサリネは草花の刺繡が施された腕章をつけている。

 一つ位階を上げるのに、試験の難易度は格段に上がるし、信仰心と貢献の審査もさらに厳しくなるという。

 ゾーハ組織内での立場も下の位階より絶対的に上になる。

 なによりも、位階勲章が賢さの証明になることによって、それに合わせた職業に就くことが出来る。

 位階が上がるほど、より実入りがいい。

 最も低い位階から人身道具以外の仕事に就けるようになる。 

 この屋敷の主は尊敬すべき、敬虔なゾーハの信徒に違いないと思った。

 認められている立場だからこそ、これだけ立派な屋敷に住んでいる。

 イーゴは今度は壁に張り付いているステンドグラスを眺めた。

 一人の男がうずくまり、傍らには3つにへし折られた気の槍が転がっている様が描かれている。

 聖典に書かれている逸話だ。

 預言者が、愚かな彼の富に嫉妬する野蛮な盗賊たちに襲われ、槍で突き刺され地に伏してしまう。

 だが、神の奇跡によって槍は3つにへし折れ彼は助かる、その場面が色鮮やかに美しく視覚化されていた。

 しかし、このステンドグラスは奇妙だった。

 ステンドグラスの裏側は壁だ。

 つまり、外壁の表面の石が長方形にくり抜かれ、そこに純粋に装飾のためだけのガラスが据え付けられている。

 内側には一切光を通さず、窓としては機能していなかった。

 屋敷を一通り大まかに見ても、どこにも内側に光を通すところがない。

 おかしな気がする。まるで洞窟のようだ。

 木製の扉の前で父親がノッカーを鳴らして扉に向かって声をかけた。

 扉の内側から女の声らしき返事が聞こえて、しばらくして扉が内側から開く。

 扉の奥は真っ暗闇で、イーゴはなんとなく不気味さを覚えた。

 その中に使用人であろう、給仕服を来た中年の女と若い女と若い男の三人が立っていた。

 三人とも無表情で陰鬱に見えた。人形のように突っ立っていて不気味だ。

「ここの主様の繁栄のために、我が子をお使い下さい」父親が言ってイーゴの背中を押して彼女たちの方へ近づけた。

「これが我が子でございます」

 中年の女がイーゴの顔を覗いて、何の感情もない淡々とした声で言った。

「主から聞いています。預かりましょう」

「あとはここの人身家具たちに従え」父親が脅すように言う。

 イーゴは、はいと答えた。

 父親の言葉で彼女たちが人身家具であることが分かった。

 その中の背がやや高い中年の女と目が合う。

「あなたが長く神の光に満たされますように」

 イーゴは彼女に向かって言った。ゾーハ信仰の形式的な挨拶だ。

 信仰は人の行き交うところ全てに及んでいるから、言葉が通じるならどこの誰であろうともこの挨拶は通じる。

「あなたが長く神の光に満たされますように」抑揚のない声で女は挨拶を返した。

「ほら、さっさと行け」

 父親がイーゴの背中を押した。

 イーゴは、屋敷の中に放り込まれた。後ろを振り返ると父親は入らず、外にとどまっている。

 イーゴと使用人の男女が暗い屋内にいる。

 昼間であるのに、屋敷の中はやはりほとんど真っ暗だった。

 壁にかけられた蠟燭が滔滔と燃え、室内をわずかに照らしているが、こんなので不便じゃないのかと思う。

 扉はすぐに閉められ、外からの光は全くなくなった。イーゴは不穏さを感じ取った。

 光を通さないステンドグラス、真っ暗な広間、そもそもイーゴはここに何しに来たのかしらない。

 真っ暗なせいかもしれないが、使用人たちは陰気に見える。

 おかしなことばかりで、疑問を抱きつつも今はただ上位位階の証を信じるしかなかった。

 暗くて全体は見渡せないがこの大部屋が、外の庭園と同様にとても豪勢なのは理解出来た。

 床は板張りで足を痛めなくていい。イグサを敷き詰めた仮住まいの床とは大違いだ。

 灯りが、壁に張られて並べられたタペストリーと絵画を映し出していた。

 タペストリーには草花、知らない獣、図形を組み合わせた模様などが縫われ、絵画には戦士や女の肖像が描かれている。

 部屋の広さから大広間のようだった。

 広間の真ん中辺りに大きな、テーブルが置かれて赤く映えるクロスがかけられていた。

 これだけでも人身農具の仮住まい一軒分の幅がありそうだ。

 どこかから、音楽が聞こえてくる。

 優雅な音色が重なって聞こえて複数の人間が奏でているようだ。

 イーゴにはそれが何の曲で、どういう楽器で奏でているものなのか分からなかったが、屋敷のどこかで誰か何人かが演奏しているのは確かだ。

「坊や、ここに座りなさい」

 人身家具の中年の女が冷淡な声を出した。イーゴの肩を押して壁の近くに置かれた椅子の横まで歩かせて、そこに座るように促してくる。

 屋敷の主は位階第三位だ。

 疑念があろうとも、失礼があってはいけないと緊張する。使用人に対しても、彼女らを通して自分の態度、ゾーハの信徒としての身のふるまいは伝わるだろうから気を使うべきとイーゴは考えた。

 大人しく従いそこに座る。

 なるべくきちんとしたところを見せようと、背を伸ばし姿勢を正した。

 その脇にいる人身家具の男はせわしなく動き回っていた。

 すると、男は無言でイーゴの腹に縄を回し、椅子に括り付けた。

 男の手の動きは手慣れていて、素早く、きつく縛られた。

 僕はいったい何をされているんだ。なにか恐ろしいことが進められているんじゃないか。

 イーゴは怯えた。

「坊や、大人しくしていなさい」中年女がイーゴに言いつけた。

「いったい何をするのですか?」

「いいから大人しくしていなさい」

 それに続いて若い女が強い口調で言った。「何があっても、大人しくしていなさい」

 いったい何回大人しくと言われるのか。そんなに大人しくしていられないようなことが起こるのか。

 何があってもというのは何なのか。男の方は淡々とイーゴを拘束する作業を進めている。

 男はイーゴの手を引っ張り、椅子の背もたれの後ろに回した。そして縛り付ける。続けて足も縛られイーゴは完全に動けなくなった。

「坊や、口を大きく開けなさい」言いながら、中年の女はイーゴの顎を抑えて口を開けさせた。 

 動けないイーゴにもう何かする術はない。

 男が口に丸めた布を詰め込んだ。何も話せなくなった。息苦しい。

 イーゴへの処置を終えると、使用人たちは広間を出ていった。

 イーゴは暗い大広間の中で、椅子に縛りつけられ、口に布を詰められた状態で一人放置された。

 何かの曲が終わっては静寂を挟んではまた始まる。

 演奏だけが広間に響いた。

 いつまでこうされるのだろう。縛られたところは痛み、布が詰められてあごも痛む。

 体が動かせない鬱憤は溜まっていった。 

 イーゴは何でもいいからこんなふうになった状態が早く終わってほしいと念じ続けた。

 やがて、闇の向こうから甲高い足音が聞こえてきた。

 使用人たちの簡素な革靴はあんな音はしない。きっと位の高い人物だと思った。音はゆっくりとこっちに近づいてくる。

 広間の扉の前で足音が止まった。靴音の主は広間の手前まで来ている。

 ギイギイと音がして、闇の奥の扉が開いた。再び足音が広間に響き、扉から人の影がだんだんとこっちに寄ってくる。

 その影が手前まで近づいて来て、蠟燭の灯りに照らされてその姿がはっきり見えた。

 現れたのは恰幅のいい大柄な男だった。いつの間にかイーゴの周りに、さっきの使用人たちがいた。

 使用人たちは、男に向かって無言で頭を下げている。

 一目見て、イーゴの予想通り男は上位の人間なのが分かった。

 男の服は明らかに高級だった。

 なめらかでしわ一つない、きれいな深い青の生地に金糸の装飾が施された上着が、肥満した体に張っていた。

 襟元からは繊細な柄の純白のシャツが覗く。

 履いた革靴は闇の中でも黒光りを放つ。

 イーゴが見てきた中では位の高い人物、サーサリネや農場監督官でもたいてい服は絹やリネンの生地だ。

 人身農具の着る衣服より高級品だが、目の前の人物が来ているのは、美しさからそれよりはるかに上質だと貧乏人の子息のイーゴにも分かる。

 腕には屋敷の外で見た旗と同じ雲が描かれた腕章を付けている。

 ゾーハ第三位の位階勲章。

 この人物がこの屋敷の主、あの旗の持ち主に違いなかった。

 位の高い人物を前にしながら、イーゴは敬意より恐怖を感じた。

 鋭い目つき。

 食欲を抑えるようにかみしめた唇。

 獣のように獰猛な表情を浮かべている。

 その顔の色が異様に白い。

 まるで死体だ。

 敵意を向ける獣のようでありながら、生き物としての生気を感じなかった。

 まるで死霊が自分を襲おうとしているようだった。

 何よりもイーゴを怯えさせたのは、眼が赤く光っていたことだ。人の眼ではない。

 それが真っ直ぐ自分を捕えていた。

 男は縛り付けられたイーゴの前に立ち、イーゴを見下ろした。

 そして、口を大きく開いた。 一瞬、男の犬歯が牙のように突き出ているのが見えた。

(化け物!)

 すると、男はいきなりイーゴの首筋にかみついた。

 牙が食い込んでいく。

 激痛で一気に汗が吹き出し、脈拍が早く、大きくなる。そして、栄養失調のイーゴから血を吸い取った。

 するとその途端、男が反射的に イーゴの首筋から牙を離した。

「不味い!」

 男が怒声をあげた。

「まるで家畜の血だ!」

 周りの使用人たちは怯えているのか、下を向いたまま硬直して微動だにしない。

「前金は十分くれてやったんだぞ。貧乏人め、二三日でも子供にまともなものを食わせてやることも出来ないのか!」

 男が大声で怒鳴っている間にも、イーゴの首筋から血がダラダラと流れていく。

「口直しだ!他に飲めるものはあるのか⁈」

「申し訳ございません。用意がございません」

 人身家具たちは今までの人形のような無表情とは違い、恐怖で顔が引きつっている。

「不愉快だ」

 男はイーゴが括り付けられている椅子を蹴とばした。

 イーゴは椅子もろとも床に転げた。

「ああ、渇く」

 イーゴを怒りを込めた眼で見下ろした。

「ふん、若いだけまだマシか」

 男は倒れたイーゴの首に再び嚙みつき血を吸いとり始めた。

 イーゴの血が更に抜けて、体中の力が抜けきったような虚脱感が全身を巡った。息苦しさはひどくなる。冷や汗が全身から流れ出ていた。

 めまいがして、周囲にあるもの、天上、血を吸ってくる男、給仕、蠟燭、絵画、それらがぐるぐる回ってた。

 やがて考えることもできなくなり、それらが何なのか分からなくなって、気絶した。

 

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