プロローグ③

 圭吾の家庭は貧しかった。家の有り様は貧乏ではなく貧困にあたる。

 圭吾の父親はろくでなしだった。

 いい加減で身勝手で、強烈な酒とタバコの匂いがいつも染みつき、圭吾と母親の言動が気に食わなければ、何の躊躇もなくすぐに殴ってくる。

 圭吾を見る父親の目は、いつも敵意を向ける爬虫類のようにギョロギョロしていた。舐め回して責める要素を探しているかのように。

 不真面目で仕事は何をやっても長続きしない。

 働き始めれば職場の文句ばかり言い、欠勤を繰り返していつの間にか辞めているか、辞めさせられている。

 無能さの割に、プライドだけは異常に高い。だから、息子の圭吾ではなく、水商売の女にじゃぶじゃぶと金を使い込み、安易に虚栄心を満たしていた。

 持ち手の金で足りるはずがなく、母親に隠れて借りた金も注ぎ込む。根っからの遊び人だったのだろう。どういうわけかそういうことだけは上手い男だった。

 圭吾が中学に入る頃にはそれも隠し切れなくなって、借金の請求書がドサドサと大量に送られてくるようになる。家に入る金は少なくて母親のパートの収入でなんとか持ちこたえるしかなくなっていた。

 いや、ごまかしていたのだ。

 母親はヒステリックで、まるで壊れて止められなくなる目覚まし時計だった。耳元でガーガーピーピーと大音量を響かせてくる。父親の借金が分かってからは、泣き、喚き、ときには笑いだし、もう狂ったようになった。

 父親の暴力と罵倒、母親のヒステリーに囲まれた圭吾の生いたちは陰惨だった。

 小遣いなんかなく、みんな持ってるものや遊んでるものは高くて手に入らない。

 ただ我慢して、嫌気がさすような日々。

 少年の圭吾には、毎日、夢想と願望が頭の中に浮かび、混ざりあってごちゃごちゃにひしめいていた。

 自分の好きなことをやりたい。

 欲しいものを買えるようになりたい。

 もうこんな家は嫌だ。

 思い描くものは雑多だが、解決する方法は単純だと思っていた。

 まともな親や世間が考えるように、いい学歴を得て、いい仕事に就き、自立すればいい。

 圭吾は両親とは性質が根本から異なっていた。

 父親も母親も全く勉強ができない。 

 そういう者どうしでくっついたようだ。

 反して、圭吾は地頭がよく、生真面目な性格をしている。自力で学校の勉強に取り組んで、小中ともにほとんどオール5の成績を収めた。

 高校では地元でもっとも偏差値の高い高校へ進学する。

 その頃に親は離婚して、圭吾は借金まみれの父親ではなく母親の方についた。

 地方では上位の高校に入学したものの、生活は母親の心許ないパートの収入が頼りで、学費や雑費を払うのも危うかった。

 圭吾は大学への進学を希望していたが、そんな困窮した環境で母親は反対した。

 母親はそもそも、大学を出ないのが当たり前だと思っている類の人間だった。学校の成績はかなり悪かったらしく、祖父母も貧乏で高校の進学すら選択肢になかったらしい。今は時代が違う、大学全入だと言われている、就職で不利になると言っても、本気で理解できないらしかった。

 ただ目先の収入だけのことしか考えられなくなっていた。

 余裕がそれほどなかった。

 あるいは、圭吾は、自分の母親ながら、本当に考えたくないのだが、漢字も読めず、分数の計算もまともにできない母親を知能が低いのではと疑わざるをえなかった。だから、最低賃金に近いようなパートで働かざるを得なかったと思う。

 あとは奨学金を借りてなんとかするしかないと考えたが、奨学金制度は圭吾にとって何の役にも立たなかった。

 高校3年のときに。圭吾は日本学生支援機構の利息なしの第一種奨学金を申請する。

 集団面接は希望者を一部屋に並べて、順に最小限のことを聞くだけの機械的な内容だった。

 圭吾は学ぶ意欲を短い時間の中でなるべく示したつもりだった。

 後日、高校で審査を落ちていることを知らされる。なぜ落ちたのか分からなかった。所得制限に引っかかったわけでもなく、成績は申請の条件を充分満たしている。当時の担任によると、採用枠が減り、以前から審査に落ちる人間は確実にいたらしい。

 日本育英会から日本学生支援機構に切り替わった間もない時期で、採用人数を減らし、枠を著しく減らしていたのだ。多額の奨学金の返納が生活を圧迫したり、奨学金制度が多くの問題を抱えていることが表に出てくる前のことだった。

 利子つきの第二種奨学金は、父親の借金で苦しめられた母親は絶対に認めなかった。

 こればかりは母親が正しかったと思う。

 第二種奨学金は実質、高額の金融ローンだ。借りていたなら今頃借金の返済に追われていたかもしれない。

 圭吾は日本学生支援機構の奨学金は諦めて地元の市の奨学金に頼ることにした。

 しかし、この奨学金は市の人口が5万人に対して、採用人数はたったの5人しかない、それも高校、大学、専門学校全てを含めてだ。借りられたとしても、国立大学の学費でも全て補うことは出来ない額となるから、私立でも国立でも、仕送りを望めない圭吾は自力で生活を立てる前提になる。加えて保証人と連帯保証人が必要だった。

 保証人は母親に頼み込み、しぶしぶ了承させることが出来た。問題は連帯保証人の方だった。

 母方の親戚には全て断られた。父親のことで母親は完全に信用を失っていたからだ。祖父母の方に頼み、祖父母は了承してくれた。しかし、書類を申請すると、すでに退職して収入のない祖父母は連帯保証人として認められなかった。

 連帯保証人をたてられず、圭吾は奨学金を諦めざるを得なかった。

 高校を卒業後、上京して、比較的安い私立の夜間の理学部へ進学し、自力で学費を稼ぎ、生活を立てることにした。学部は学費が安ければなんでもよく、進学して学位を得ることだけを考えていた。そうしなければ就職氷河期の残滓があったこの頃、就職出来ないと思っていた。

 しかし、そんなことは無理だった。

 アルバイト先に入った大手の飲食チェーンは、圭吾の学業に融通など効かせず、馬車馬のように働かせた。なまじ生真面目な圭吾の性格は、責任と負担を負わせるのにうってつけだった。

 バイトに行かなければ生活は出来ないし、行ってしまえば学業に打ち込めない。疲れ果てる日が続いて進級する単位を落としてしまう。

 あげくに、1年も立たないうちに世界的な恐慌が起こった。働いていた店は売り上げが瞬く間に落ち、店は懸命に尽くした圭吾をあっさりとクビにした。

 恐慌下でどこに応募しても不採用になり、圭吾はアルバイトや派遣の仕事すらまともにないような状況に陥った。

 圭吾は大学は退学し、それどころかネットカフェで寝泊まりするホームレスに落ちた。ヒステリックな母親の所には帰りたくなかったし、そうしたところで何の希望もない。

 日雇いの派遣の仕事でなんとか食いつなぎ、景気も回復してきたころ、ようやく安定して就けたのがが、(圭吾にとっては、であって、他人からは全くそうではないが)寮つきのライン作業の派遣社員だった。 

 学歴、経験不問。

 応募してからすぐに採用は決まり働けるようになるまで短かく、家族の支えも金も何もない圭吾は、すがりつくしかなかった。

 圭吾は今日まで、ただただ、生きるのに精一杯だった。

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