第五章 08 断食療法

 岸田家のリビングに入ると、岸田は重湯おもゆを用意していた。断食明けの回復食を、心得ていた。


 真帆は、喧嘩腰にならないよう、語尾を和らげて質問する。


「どうして、閉じ込めたの?」


 岸田が、開き直った表情で言う。


「同窓会で倒れた時に、断食療法が合うかもな、と思ったんだ」


 真帆は、予定通り、岸田に鎌を掛ける。


「断食療法で、Ⅰ型糖尿病患者がどうなるか? 人体実験したの? Ⅰ型は、子供に多い難病だからね」


 岸田が厳しい表情で真帆の顔を見た。「人体実験」という言葉に、難色を示しているようだ。


「俺は、ただの町医者だ。学会で目立つような研究成果は求めてない!」


 小声だが、岸田の怒りは、本物だと思えた。


 以前、人体実験をした経験があれば、岸田は、もっと冷静に構えるだろう。身に覚えのない指摘を受けると、人は怒りの感情をあらわにする。岸田は主犯格ではない、と真帆は確信した。


 怒りに身を震わせながら、岸田が言う。


「監禁された、と通報してくれてもいいよ。だけど、その前に」


 岸田は、言葉を切ると、真帆の眼を見た。


「本当に、ラファエル病院の診察を受けるのだね?」


 封筒を真帆の前に差し出しながら、岸田が続けた。


「親父の紹介状だ。内科の富永先生を訪ねるといい。祖父じいちゃんの同期生の孫に当たるそうだ。祖父ちゃんは神大だったから」


 岸田への疑念は改めよう、と真帆は思った。岸田が真帆を罠に嵌める動機は、見当たらなかった。


 真帆は、封筒を受け取りながら、言う。


「必ず、診察を受けに行くわ。大先生に宜しくお伝えください」


 真帆は、深々と岸田にお辞儀した。涙が零れそうになったが、前夫の前で、涙を見せる訳にはいかない。


 岸田が、「俺に頭を下げるなよ。顔を上げろよ」と囁いている。


 真帆は、上体を起こすと岸田に向かって、微笑んで見せた。岸田は、やはり心根が優しい。冷酷な人体実験は、仮に金を積まれても、できない性質だと思えた。


 真帆の所持品は、ソファに置いたままだった。土曜日に来た時と同様、バッグの上に、ダウン・コートが被さっていた。


 岸田は、真帆の所持品に触れていなかった。


 床に、岸田の物と思われる、十㌢ほどの毛髪が落ちているのに気付いた。所持品を手に取る時、その毛髪を、そっと指でなぞった。膨らみがある。毛根が確認できた。だが、真帆は、岸田の毛髪を拾い上げなかった。


「岸田は該当しない!」と、真帆の頭の中で声が響いた。岸田を信じる、と決めた真帆自身の内なる声だ。


 でも、何故か? 沙羅や湖香の魂が、真帆にそう教えてくれたような、錯覚を覚えた。


 真帆は、所持品を手に取ると、岸田家のリビングを後にした。

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