第五章 06 真帆の仮説
壁時計の針は、二時過ぎを指している。昨夜、真帆が目を覚ました時刻と、ほぼ同じだ。真帆の体内時計が「起きろ」と命じている。
抽斗に入っていた便箋は、残り少なくなっていた。
――要点だけを簡潔に、纏めよう。
芯が丸くなって来た鉛筆を持つと、真帆は考えを巡らせた。ここから出たら、真っ先に穴瀬に渡そうと思った。
「
男児は、裕福なカトリック教徒の家庭に引き取られる。
男児は成長すると、姫路のカトリック系男子校に入学する。
育ての親は、播州地区の富裕層だと考えられる。
中学三年生で人体実験を行い、少年は、少年院に収容される。
父親は、金の力で少年の罪を隠した。姫路地区では、恐れられている権力の持ち主だ。
少年院退院後、少年は大検を取り、改名している。
苗字は、養子縁組先を替えれば、容易に変更できる。
下の名前は、同じ可能性がある。
『正当な事由』があれば、下の名前も改名できるが、理由は何か?
少年院時代、少年は勉学に励んでいた。犯行時も、『将来、医者になりたい』と発言していた。進学先は、神戸大学医学部では?
黒岩沙羅は学生時代、フィアンセがいた。国立の医学部に通う医大生だった。笹川翔が、該当しないか?
黒岩が失踪後、医学生の消息も分かっていない。
東京の医大に編入した可能性は、ないか?
私大なら、寄付金が潤沢なら受け入れ可能だと考えられる。
医師国家試験を受ける際、笹川の過去の事件が関係者に判り、受験資格がなくなったと考えられないか?
医師国家試験に合格していなくても、医大は卒業できる。
医大を卒業していれば、臨床検査技師の受験資格が得られる。
だが、学歴の辻褄を合わせるため、芦岡医大の医療保健学部に学士編入したのでは?
笹川は、《笹川翔》と名乗る前にも、改名している可能性がある。
改名で誤魔化せても、DNAや指紋は、変更できない」
一度は、岸田が佳乃の息子だと考えた。だが、真帆には、ピンと来るものがなかった。
一方、笹川が佳乃の息子だと仮定する。そうすると、辻褄の合う事柄が増えるのだ。
笹川は、御影ラファエル病院に出入りしていた。倫子に危害を加えるチャンスもあった。
先週の火曜日に、真帆は笹川を疑ったが、すぐに否定した。だが、今日は、確信に近い感覚があった。
笹川は、御影周辺に土地鑑がある。笹川本人も、学生時代から御影ラファエル病院を視察したと語っていた。
――笹川は、実の母親が佳乃先生だ。という事実を知っている!
と、真帆には思えた。
倫子は、佳乃の女子高生時代を熟知している。そのため、笹川にとっても、佳乃にとっても、倫子は邪魔な存在だ。
まだ真帆の仮説に過ぎないが、疑問も残った。
笹川と佳乃は、結託しているのか? 笹川が母親を憎んでおり、復讐心から悪事を働いているのか? 佳乃が我が子の悪事を嘆き、庇っているのか?
ここまでの想像なら、よくある親子の愛憎劇だ。
――それとも!
真帆の中に、恐ろしい仮説の筋書きが出来上がっていた。
二枚目の便箋に、真帆は続きを書いて行った。
「かつて人体実験を行った少年は、古い文献の模倣だと語った。
七三一部隊などに、傾倒している可能性がある。
今もその性癖が抜けず、遠隔で人体実験を繰り返していないか?
佳乃が母親である事実を突き止め、研究題材を
――考え過ぎかな?
閉鎖空間の静寂の中で、真帆の頭は冴え渡っていた。
――後者の仮説が本当なら? 私も笹川の実験材料だ!
真帆は、右の脇腹に視線を移すと、怒りが込み上げて来た。鉛筆を握る手に、力が入る。
「岩園真帆のⅠ型糖尿病も、笹川の人体実験の一つだと考えられる。
笹川は、御影ラファエル病院を気に入っていた。
何らかの事情で、自身の出生や過去が黒岩家に知れ、破談になった。笹川は、沙羅を亡き者にし、更科教授が手伝った。
十年近く経ち、岩園が芦岡医大に就職し、大学院へ進んだ。
笹川は沙羅の友人の岩園に狙いをつけた。次は上浦湖香」
書いた内容を読み返す。真帆は、筋が通る考察だと思った。
ライティング・ビューローの照明を切ると、室内は再び真っ暗になった。吸血鬼が好みそうな暗闇だ。真帆は、換気用の小窓を見上げた。磨りガラス越しに、仄かな月明かりが漏れた。
暗闇に、笹川の幻影が浮かび上がった。ニヒルな冷笑を浮かべている。
次に、佳乃の姿を思い浮かべた。湖香の葬儀の日に見た、佳乃の「勝ち誇ったような笑み」だ。その笑みは、十二年前、黒岩沙羅が行方不明になった時と、同じだった。
――笹川と佳乃は、似ている!
真帆の眼が、暗闇に慣れて来た。先ほど書いた便箋を手に取り、真帆は祈った。
――この仮説が、秘密の暴露と、なりますように。
秘密の暴露は、
真帆は、小窓を見上げると「もうすぐ終わる」と、呟いた。
湖香と沙羅の魂が、傍にいるように感じた。
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