第五章 02 岸田小児科医院

 土曜日になった。真帆は、昨年の春まで住んでいた岸田小児科医院を訪れた。懐かしい反面、物悲しい気分になる場所だ。


 土曜日の診察は、午前中で終了している。真帆は、住居側の出入り口に進むと、インターホンを鳴らした。


 呂律の回らない口調で、「いてるから。どうぞ」と応答がある。


 まだ十五時過ぎだ。昼間から、飲酒しているのか? 岸田は、酒に強くない。ビールとウイスキーを嗜む程度だった。


 真帆は、嫌な予感を秘めながら、家の中に入った。岸田は、リビングにいた。ほろ酔い気分の岸田は、機嫌が良い。立ち上がると、恭しく頭を下げた。


「ようこそ。奥様。お帰りなさい、か?」


 テーブルの上には、赤ワインのボトルがあった。離婚してから、岸田の嗜好は変わったのか?


 真帆は、眉をひそめて岸田の顔を見た。


「昼間から飲むほど、嫌なことでもあったの? 赤ワイン好きだった?」


 真帆の記憶では、以前の岸田は、アルコールが入っても、表情が変わらない体質だったが……。


「このワイン、笹川さんが持ってきたんだ」と、岸田がニンマリとしながら言う。


「うちの病院も、芦岡医大派閥だからね。前から血液検査を頼んでいたからね」


 個人経営の医院は、血液検査が必要な場合、保健所か最寄りの大学病院へ依頼するケースが多い。岸田の父親も芦岡医大出身だ。そのため、出身校に依頼していた。


 先日、真帆のⅠ型糖尿病に関して、岸田は笹川の検査結果に疑問を持っていた。だが、ワインを受け取るほど仲が良いのか?


「結局、笹川先生と、仲良しなのね?」真帆は、岸田の判断を訝しんだ。


 岸田は首を横に振ると、水を飲む。口調がハッキリして来た。


「今後の血液検査は、西宮の保健所に替えるつもりだ。だけど笹川さんが、近くまで来たとかで、ワインを持って来たんだ」


 笹川の行動は、顧客回りの営業マンのようだ。


「大学病院の検査機関だから、一つの町医者の顧客が減っても、困らないでしょうにね」と、真帆は首を傾げた。


「やっぱり俺には、ワインは合わないなぁ。キツイよ」


 岸田が真帆の前にグラスを置き、ミネラル・ウォーターを注いだ。


「ソコロフの糖質オフ・チョコレートの監修をしているんだね?」


 と、岸田が訊ねてくる。岸田の眼は、まだ虚ろだった


 笹川が、岸田に話したのか? だが、院内の噂は、卒業生に広まるのも、早い。


「岡倉先生の推薦なのよ」と、真帆は答えた。


「湖香ちゃんの後釜か? きっと君のことだから、会社に入り込んで、いろいろ調べているんだろうね」


 岸田は、真帆の性格を見抜いていた。だが、岸田に詳細は語れない。守秘義務がある。


 真帆は、岸田の表情を伺った。顔色が元に戻り始めている。岸田に紗月の話をするのは、今だ! 真帆は口を開いた。


「前に教えてくれた、久保さんとお話ができたよ」


 岸田の瞳に、憂いが宿った。やはり岸田は、沙月に憧れていると思える。真帆は、先を続けた。


「もしかしたら、異動になるかもよ。先日、息子さんの予防接種に、ここへ来たみたい。だけど、大先生だったそうよ」


 真帆は、岸田の表情を凝視した。ポーカー・フェイスを装っている。バツの悪い事実がある時の、岸田の癖だった。


「接種記録を見たよ」と、岸田は、さりげなさを装っていた。


 これ以上、沙月の話題を続けると、嫉妬だと勘違いされる。真帆はグラスの水を飲むと、話題を変えた。


「前に、私の荷物が残っていると、言っていたよね?」


 岸田が目を伏せた。言いにくい事柄なのか、顔をしかめている。


「子供部屋を用意しただろう?」岸田が、遠慮がちに真帆の眼を見詰めた。


「ベビー用品が残っていたから。処分してもいいのかと思って……」


 岸田の声が、小さくなって行く。


 真帆は、この家を出た身だ。だが、岸田は一人でこの家を背負っている。真帆は、自身の思いやりのなさを恥じた。


「処分しましょう。それと、遺骨の問題が残っていたわね」


 岸田の表情が、翳った。赤ワインのグラスを取ろうとして、引っ込めた。娘の死産は、岸田にも辛い過去だ。昼間から、アルコールの力を借りたい日も、あるだろう。


 岸田は、ゆっくりと口を開いた。


「落ち着いたらで、いいけどね。もう三年が経つし。君が新たな人生を歩むためにも。毎日、骨壺を視界に入れるのは、過酷だと思うんだ。手放さないといけない過去も、あるからね」


 岸田は、何度も小さく首を縦に振っていた。真帆に話しながら、自身にも言い聞かせているようだった。


 今年の命日が来たら、娘の遺骨を岸田家の墓に入れよう。真帆は、思いを伝えるため、腹に力を入れた。


 だが、目の前に、白黒のモザイク模様が走った。低血糖の症状だ。


――よりによって、岸田の家にいる時に……。


 立ち上がると危険だ。真帆は、ソファに座ったまま頭を垂れた。


 岸田が「真帆!」と何度も声を掛けている。


 真帆の意識が遠のいた。前回は、大学院の同窓会時だった。岸田が傍にいた。岸田の前だと、まだ甘えが出るのだろうか?


 あの日は岸田から、沙月の名前を聞き出した。今日も、沙月を話題にした。嫉妬しているのか?


 だが、真帆に、ある考えが湧き上がって来た。


――赤ワイン。佳乃先生の息子? 歳の頃は、岸田も該当範囲だ!


 もう少し、考察したかった。だが、真帆は限界に達した。


――明日、考えよう。


 真帆は、深い眠りに入った。

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