第四章 11 容体の急変

 真帆は、三階へ移動した。「ナース・ステーションの前」と呼べる病室は、合計四室ある。ナース・ステーションを挟んで海側に、二つの病室があった。


 向かって左側の二人部屋が、倫子の病室だ。今日は、病室の引き戸が閉まっていた。


 真帆は、ナース・ステーションの受付で、来訪を告げた。


 ピンクのナース・ウェアを着た、二十代後半の女性看護師が首を傾げている。哀し気な表情で、真帆の顔を見た。


「吉岡さん、午前中に容態が悪化されたので、集中治療室に移りました。失礼ですが、ご親族の方ですか?」


 笹川が話していた患者は、倫子だった。真帆は、首を横に振りながら、「同じ勤務先の者です」と答える。


「先週もお見えでしたから、ご親族の方だと思っていました。病院の規則で、集中治療室は、ご家族の方しか面会できないのです」


 看護師の言動が、のんびりとしているので、倫子は危篤ではないと思える。


「意識は、あるのでしょうか?」


 看護師は、静かに微笑むと頷いた。


「ご家族の許可がないと、詳細を話せないのです。姪御さんが、病室の持ち物を整理されているので。お会いになられますか?」


 看護師は、倫子がいた病室の方角を掌で案内した。


「もちろんです」真帆は頷くと、看護師の後に続いた。


 看護師が病室をノックすると、涼やかな女性の声が聴こえた。


 看護師が引き戸を開くと、四十代前半の女性が立っていた。手編み風の白いニットの袖を、捲り上げていた。ベッドの上には、無造作に黒いダウン・コートが置かれている。女性は、慌ててコートを手に取る。


「散らかっていて、ごめんなさいね」と、照れ笑いをした。


 女性キャスターを思わせる、理知的な明るい笑顔だった。


――佳乃先生とは、正反対だ。


 真帆は一目で、この女性に好感が持てた。


 倫子の姪は、真帆と看護師の顔を代わる代わる見た。


 真帆が部屋を見渡すと、同室者の老女は、不在だった。


 看護師が一礼すると、「吉岡さんの勤務先の方ですよ」と、倫子の姪に真帆を紹介した。


 嫋やかな笑みを浮かべると、女性が口を開く。


 真帆は内心、目元が倫子と似ていると思った。


「貴女が、叔母の話していた若き女性研究者さんね。申し遅れましたが、片瀬かたせ淳子じゅんこと申します。他界した父の妹が吉岡倫子でして。この度は、お騒がせして、ごめんなさいね」


 淳子の口調から、倫子の命に別状はないと思える。


 看護師は、淳子の応対を見届けると、退室した。


 病室で二人になると、淳子が倫子の容態を説明した。


「午前の回診が終わると、叔母は眠っていたそうです。夢を見ていたら、肩を叩かれた気がして、目を覚ましたと言っていました。それで、寝返りを打ったらしく……」


 淳子は両掌を上に向けて、肩を竦めた。


「命に別条がなくて良かったのですが。小さな骨が外れているので、寝返りは厳禁なのです。それで寝返り予防に、集中治療室に入れて頂いた訳なのです」


 真帆は、最悪の事態を覚悟していたので、安堵した。


「集中治療室と聞いた時は、ご危篤かと思いました」


 真帆をなごませるためか、淳子は笑い話風に語っていた。だが、淳子の瞳の奥に、翳りが見られた。身近な者を心配する、純粋な不安感だと、真帆には思えた。


 淳子の表情を確認すると、真帆は質問した。


「寝返りを打たれたのは、今日で二度目ですよね? 先週は、『誰かに呼ばれた気がした』と仰っていましたが」


 真帆は内心、淳子の不安を煽った気がした。だが、淳子は、悪戯っぽい笑みを浮かべている。


「気のせいだと思いますけどね。万が一、声を掛けられたり、肩を叩かれたりしたのが事実だったら。叔母をひどい目に遭わせて、得をする人が、いるのでしょうか? ミステリー小説なら、姪の私が一番怪しいですね」


 淳子の調子に合わせて、真帆も愛想笑いを浮かべた。


 真帆は立ち上がると、菓子折りを淳子に渡した。


「吉岡先生がお好きだと聞いた、海老煎餅です」


 淳子の顔が、パッと明るくなる。


「カルシウム補給に良いですね。さすが管理栄養士さん!」


 淳子の軽やかな口調が、耳に心地好かった。


 倫子の元病室を後にすると、真帆は階段で一階まで下りた。階段を下りながら、ある疑問が湧き上がった。


――笹川先生が、もし、吉岡先生と顔見知りなら?


 だが、笹川は医学博士を修得しているが、医師ではない。芦岡医大出身だが、医療保健学部だ。医大に通っていたから「医大生」と勘違いされた、とは考えられないか?


 真帆は妙案だと思ったが、すぐに撤回した。


 笹川が、真帆の想像する犯人像に該当するなら。黒岩沙羅のフィアンセだった事実も、検討する必要がある。


 沙羅の両親は、婿養子に医者を望んでいた。それに、沙羅のフィアンセは、国立大学の医学部だった。笹川は、該当しない。


 真帆は、解けそうで解けない難題が、歯痒かった。


 一階まで下りると、真帆はカフェテリアを見た。もう笹川の姿は、なかった。


――笹川先生は、まだこの病院の何処かで、視察しているのかな?


 真帆の心の中で、もやもやとした雲が蠢いた。

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