第四章 10 思わぬ人物の視察

 火曜日は、真帆の青松女学院大学への出勤日だ。だが、春季期間中のため、授業はない。午前中に新年度のシラバスの提出を済ませると、真帆は、母校を出た。


 その足で、倫子が入院する御影ラファエル病院へと向かった。


 面会時間は十三時からだ。時間潰しと昼食のため、真帆は、院内のカフェテリアに入った。窓際席に座ると、阪神間の絶景を眺めた。


 注文したスモーク・サーモンのサンドイッチと紅茶が運ばれてきた。真帆は、顔を上げると、給仕の者に礼を言った。


 その時、遠目に、意外な人物の姿が目に入った。芦岡医大の臨床検査技師、笹川翔だ。白衣を着ている。笹川は、この病院の検査も請け負っているのか?


 カフェテリアは、オープン・スペースだ。視力の良い真帆は、一階フロアの様子が見渡せた。


 笹川が、カフェテリアの方向に歩いて来る。白衣を脱ぐと、左手に掛けた。出入り口のスタッフに、人差し指を立てている。昼食を取りに来たようだ。


 店内を見廻す笹川と真帆の目が合った。


 真帆は、バツが悪いと思った。悪戯が露見した子供の気分だった。


 愉快そうな笑みを浮かべて、笹川は真帆の席に近付いて来た。


「君もこの病院の視察? ここ、いいかな?」


 真帆が頷くと、笹川は向かいの席に座った。


 笹川は、現役の臨床検査技師だが、血清の研究者でもある。春季期間を利用して、他の病院の視察を実施しているとも思える。


 真帆は、笹川の眼を見ると、口を開いた。


「学生時代の恩師が入院したので、お見舞いです。笹川先生は、この病院によく来られるのですか?」


「神戸方面の総合病院は、神大しんだい派閥が多いからね。他所よそ様のやり方も見学したいと思って、視察を申し込んだのだ」


「大阪方面の病院にも、行かれているのですか?」


「大阪は別に、いいかな。本当は東京にも行きたかったけれど、検査の仕事もあるしね」


「東京だと、大学病院も多いですしね」


「やっぱり神戸とか東京とか、馴染みのある場所がいいよね」


 真帆は、笹川の言葉が引っ掛かった。笹川は、地名しか発していないが、以前、神戸や東京で暮らした過去があるのか?


 真帆は、愛想笑いを浮かべると、サンドイッチを手に取った。


 笹川の前に、カレー・ライスが運ばれてきた。カレーが好物なのか。嬉しそうな笑みを零している。


「ここのカレー、旨いからなぁ」


 いつもは毒舌な笹川だが、今日は童心に戻った態度だった。何かを探れるチャンスだと思い、真帆は、すかさず質問した。


「名物を知っているほど、この病院がお気に入りなのですね」


 水を飲むと、笹川が口を開く。


「この病院は、学生の時から、年に一度は視察に来るんだ」


 真帆は、内科医の岡倉の話を思い返した。笹川は、芦岡医大の医療保健学部に学士編入したと聞いた。前の大学が、神戸にあったのだろうか?


 だが、大学側に問い合わせても、笹川の過去は情報開示されなかったとも聞く。笹川の過去を知りたい訳では、ない。だが、笹川の過去に、何か隠れている予感があった。


 笹川が、チラリと壁時計を見た。


「この病院の面会時間は、一時からだね。午前中は、集中治療室に運ばれた人がいて、現場は大変そうだったよ」


 真帆は、サンドイッチを口に運びかけて、止めた。


「何階ですか?」


「三階だったね。『骨が圧迫した』って聞こえた気がするけど。視察に来た身分で、現場に行けないから、昼食に来たんだ」


 真帆の背筋に、冷たい物が走った。


「女性でしたか? 六十代後半の?」


 笹川は、涼しい顔つきで水を飲んでいる。


「どうだろ? ナース・ステーションの前の病室だったと思うよ」


「吉岡先生?」真帆は、立ち上がろうとしたが、留まった。


「集中治療室だったら、私が行っても会えませんよね。一時になったら、自分の目で確かめて来ます」


 笹川が、ニヒルな笑みを浮かべた。


「冷静だね。該当者は、君の恩師とは限らないしね。それにしても」


 言葉を区切ると、笹川が真帆の眼を見詰めた。


「君の周りは、騒々しいね。お友達が亡くなって。次は恩師の入院」


 真帆は内心、《和製シャーロック・ホームズ》のお出ましだと思った。笹川の発言は、図星だった。


 笹川は、お得意の吸血鬼を思わせる冷笑を浮かべていた。本人に悪気は、ない。その上、絵になっていた。


 一時になると、真帆はカフェテリアを後にした。


 笹川は、新聞を読むため、その場に残った。


 真帆は、廊下を歩きながら、笹川の発言を反芻した。


――私が元凶なのかな?


 確かに、真帆の親しい人たちが不幸な目に遭っている。笹川の発言や仕種に、重要なヒントがあると思えた。

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