第四章 09 穴瀬の訪問
数分後、穴瀬が真帆の研究室にやって来た。
真帆が廊下を確認すると、遠目のエレベーター・ホールに、いかつい顔の男がいた。先日、西宮警察署の駐車場で見掛けた男だ。
男は真帆と目が合うと、一礼した。
今まで穴瀬は、休日を使って、単独行動で湖香の死を調べていた。
今日は、二人で行動している。湖香の死は、他殺の線で捜査されていると考えられる。
急な来訪を詫びると、穴瀬は丸椅子に座った。愉快そうな表情で、真帆の研究室を見廻している。
「ここに来ると、何故か、懐かしい気分になりますね。研究室に入れていただくのは、今日で二度目ですけどね」
真帆は、穴瀬の前に紙コップを置くと、口を開いた。
「ソコロフの会議は、月曜日が恒例ですが、今日は中止でした」
承知していたのか、穴瀬は「なるほど~」と軽い調子で頷くと、話し始めた。
「先日の試作品チョコレートですが。正規ルートで分析すると、一ヶ月ぐらい掛かります。そこで、私の分野外ですがね。官僚友達からの噂話をお伝えします。今年は、まだ、ルピナス豆の製品は、何処の企業からも発売されないようです。来年や再来年は、分かりませんが」
言葉を切ると、穴瀬は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ところで、先日のチョコレートですが、ご自身でも分析しましたか?」
真帆は、首を横に振りながら言った。
「この大学には食品系の実験室は、ありません。先週の火曜日に、母校の食品分析室を利用する予定でした。ですが、恩師の骨折で、入院先の病院へ行きましたので、分析できなかったのです」
「そうでしたね」と発しながら、穴瀬は首を縦に振っている。
「先日、お見舞いの帰りに、お寄りいただいたのでしたね。改めてお訊きしますが。試作品を食べたり、触ったり、しなかった訳ですよね?」
真帆は、首を傾げた。
「証拠品になるかもしれないと思い、実験用の手袋をして中を確認しました。試食は、していません」
「危機一髪でしたね」
と言うと、穴瀬は、安堵した表情になった。だが、すぐに表情を引き締めた。
――本当は、試作品からアルカロイドが検出されたのかしら?
穴瀬が答えられないのは、解っていた。だが、敢えて質問をした。
「どうかされましたか?」
「一般論ですが」穴瀬は、ニンマリとすると、先を続けた。
「岩園さんが、ご自身で分析した場合。万が一、違法が判った時、開発関係者になるかもしれません。今の岩園さんのお立場では、ただの《監修者》で済みますから」
倫子の入院がなければ、真帆は先週の火曜日に、予定通りチョコレートを分析しただろう。背筋に冷たい物を感じた。倫子に救われた思いがした。
緊張が走ったせいか、真帆は低血糖の症状を感じ始めた。頭が少しフラつく。穴瀬に断ると、真帆は、戸棚からナッツ類の入った小袋を出した。穴瀬の前にも、一袋置いた。
「実は、私はⅠ型糖尿病なのです。夕方の空腹時になると血糖値が下がり始めます。インスリン注射を打ちたくないので、低GI食品のナッツ類を、間食で食べるようにしているのです」
穴瀬の表情が、曇る。
「前にお聞きした、上浦さんの症状と似ていますね」
「私の場合、三年前からです。上浦さんは頭痛持ちでした。どちらも、低血糖の症状なので。ある意味、似ていますね」
穴瀬が、ポツリと呟いた。
「黒岩沙羅さん事件と上浦さんの急逝。岩園さんのⅠ型糖尿病。吉岡名誉教授の骨折。何か共通点と言いますか……。匂いますね」
真帆は、頷くと、先週の土曜日の経緯を穴瀬に語った。
倫子が自身の危険を承知している旨。倫子が住むマンションで、油の入ったゴミ袋の底が抜けた事実。長身の男。
誰かに呼ばれたような気がして体勢を変え、倫子の症状が悪化した事実。四半世紀前の男子校で起きた、人体実験。
穴瀬は背筋を伸ばして、真帆の話に聞き入っていた。
真帆が語り終わると、穴瀬は腕を組んで、目を瞑った。話の内容を、分析している様子だ。女武将を思わせる、神々しい姿だった。
穴瀬はゆっくりと目を開けると、「岩園さんの推論は、私も同意見ですね」と言った。
真帆に確認しながら、穴瀬は、真帆の推論を復唱した。
佳乃は十七歳の時に、修道院で男児を出産したと仮定できる。
男児は、カトリック教徒の裕福な家庭に引き取られた。
中学生になった男児は、姫路のカトリック系男子校に通っていた。
人体実験で捕まったが、模範生だった。少年院を退院後、大検を取り、改名し、医学部に進学した。
医学生時代、黒岩沙羅のフィアンセだった可能性がある。
東京の病院勤務だと噂されているが、その後の消息は判らない。
穴瀬の確認が済むと、真帆は頷いた。
「偶然が重なっているだけかもしれません。もし推論の裏付けが取れれば、解決に繋がると思のです」
穴瀬の表情は、来た時と裏腹に、神妙な面持ちになっていた。
「近いうちに連絡します」と、真帆に敬礼すると、穴瀬は研究室を後にした。
穴瀬の言動から、佳乃の現状は判らなかった。だが、会話の中で「匂いますね」と発していた。真帆は早くも、穴瀬の次の来訪を待ち遠しく感じた。
デスクに戻り、メールをチェックすると、沙月から返信があった。
「水曜日に健診で、芦岡医大へ行きます」と書かれていた。
真帆は、水曜日に沙月と会う運びとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます