第四章 12 彷徨う魂

 水曜日の午後になった。


 真帆は、芦岡医大病院の最上階にあるレストランに向かった。


 健診を済ませた沙月と、十三時に待ち合わせをしている。真帆は、レストランの個室を予約していた。


 真帆が到着すると、昼時なので、店内は混雑していた。


 予約した個室は、海側だった。窓からは、西宮のヨット・ハーバーやソコロフ西宮浜工場の全景が見渡せた。空気が乾燥しているので、遠目には淡路島も見えていた。


 十三時五分になると、沙月が遅刻を詫びながら個室に入って来た。


 何度も真帆にお辞儀する姿が、黒岩沙羅の姿と重なった。


「大学病院は、時間通りに進まないのが日常ですから」と、真帆がなだめると、沙月が安堵の表情で着席した。


 沙月にも、翳がある。いつも何かに怯えているような、可憐な小型犬を思わせた。


――沙羅さらちゃんも学生のころ、こんな眼をしていた。


 沙月の今の不安は、先日、真帆に渡した試作品チョコレートだと想像が付く。


 給仕の者が、松花堂弁当を運んで来た。


 昼食の間、沙月は、自身の身の上を語った。


「私は、ずっと姫路育ちなのです。姫路は、城下町のイメージが強いですが、有名な暴走族グループもいるのですよ。一部の地区は、治安が悪くて。両親が心配して、中学から私学の女子校に通わせてくれました」


 沙月の表情から、両親の愛情に育まれた様子が伺えた。


「大学も、近所の龍姫大学です。ですが、県立大学なので、猛勉強しないと入れません。『近くて遠い龍姫大学』とぼやきながら、女子校時代は、ずっと勉強していました」


 真帆は、相槌を打つと、質問した。


「姫路は、私立の女子校が多いですか? 兵庫県内でも、播州方面の情報には、疎くて」


「三校だけですね。私が通っていたのは、姫路城からすぐのカトリック系の女子校です」


 真帆は心の中で、「ビンゴ!」と叫んだ。


「更科教授のご出身校でも、ありますよね?」


 沙月の表情が明るくなる。だが、何か思い当たるフシがあるのか、すぐに曇った。


「更科教授と私は、中学・高校・大学・大学院と同じ経歴です。姫路育ちの女性なら、似たような経歴の方が何人もいるでしょうね」


 真帆は頷くと、質問を続けた。


「以前、姫路城の近くを通った時、近くにカトリック教会がありました。一般にも、公開されているのですか?」


 沙月が首を傾げている。


「私が通っていた時は、学生専用のチャペルでした。隣の同じ系列の男子校と共有でしたが。以前は、日曜日に一般のカトリック信者の礼拝が行われていたそうです」


 真帆は、沙月に勘づかれないよう、頭の中で計算した。


 真帆が想像する犯人像は、以前、この男子校に通っていたと思われる。やがて、人体実験が発覚。その後、カトリック教会の一般への日曜礼拝が取りめになった、と考えられる。


 真帆は、作り笑顔になると、沙月に鎌を掛けた。


「私も神戸のミッション・スクールに通っていましたが。キリスト教系の学校って、不思議な噂話が付き物ですよね?」


 沙月が遠い目をして、何かを思い出している。


「マリア像が夜中、血の涙を流したとか。学食の巨大冷蔵庫前に、修道服を着た少女がいたとか。その程度しか覚えていませんね」


 沙月は、かつて隣の男子校で起こった事件は、知らないと思えた。


 昼食を終えると、真帆は沙月に予定を訊いた。


「会社へは、何時に戻ればいいのですか?」


 沙月の瞳に、再び翳が宿る。


「今日は、有休にしました。四時に、息子を迎えに行きますので。三時過ぎまで、大丈夫です」


 真帆は、給仕の者を呼び、食後のコーヒーを注文した。


 沙月の表情が、俄かに緊張しているのが分かる。本題に入るのは、まだ早い。真帆は、世間話を続けた。


「西宮生活は、慣れましたか? 三年ぐらいでしたね」


 沙月に笑顔が戻る。


「環境が良くて、気に入っています。姫路は故郷なのですが、あまり恋しいとは思えず。でも、転勤もありますからね」


 ルピナス豆の件で、沙月は会社に居辛いづらいと思えた。


 コーヒーが運ばれてくると、真帆は、本題に入った。


「先日、お預かりした、試作品ですが」


 真帆は、沙月の表情を確認した。不安げな眼をしているが、背筋を伸ばしている。


「芦岡医大では、食品分析ができないので、然るべき機関で調査中です。結果は、早くて一ヶ月先になると思います」


 真帆が紗月の眼を凝視すると、沙月は「続けてください」と発しながら俯いた。


 真帆は、穴瀬から聞いたルピナス豆の一般論を話した。


「噂話ですけどね。今年は、何処の企業からも、ルピナス豆を使った製品は、発売されないようです」


 紗月が、頭を垂れている。涙を堪えているように見える。真帆は、声をやわらげて質問を続けた。


「久保さんが、更科教授のルピナス豆研究を、会社に提案されたのですよね。後悔しているのですか?」


 沙月は首を横に振ると、顔を上げた。表情が引き締まっていた。


「私の勉強不足でした。ソコロフの西宮浜工場の研究室は、社内の研究職の者にとって、花形です。他人より抜きん出るには、新しい発想が必要でした。ですが、妙案だと思ったルピナス豆は、今の日本では、早過ぎました。小心者が野心を出したせいで、会社にも迷惑を掛けました」


 沙月は、佳乃を庇っていると思える。真帆は、質問を続けた。


「ルピナス豆を検討するのは、良いと思います。世界中で認められている代替食品ですから。ただし、国産のルピナス豆は、まだ流通できません。更科教授が国産を送り込んで来た可能性は、確認できませんか?」


 沙月は眼を逸らすと、遠目に広がるソコロフの工場を見た。視線を戻すと、真帆の眼を見詰めた。


「多分、工場に家宅捜査が入ると思います。更科教授が、国産のルピナス豆を送って来たか否かは、判りません。庇っている訳ではなく、こちらで判断できないのです。プロに委ねる時が、来たのだと思います」


 真帆は、沙月には捕まって欲しくないと思った。


「久保さんは、オーストラリア産のルピナス豆だと思って、試作品の開発を進めたのですよね?」


「間違いありません」と、沙月は迷いなく、大きく首肯した。


 真帆は安堵した。沙月には、幼い息子がいる。佳乃を庇うより、自身と息子の未来を優先して欲しいと思った。


 佳乃が犯人の一人だと仮定すると、佳乃の動機は、何だろう?


 真帆の推論では、犯人は二人だった。


 沙月の表情は、落ち着いていた。真帆は、佳乃について訊ねた。


「更科教授も、姫路育ちだったのですか? 女子大に勤務されている時、『佳乃先生』と渾名され、憧れの的でした。ですが、プライベートは、語りませんでした」


 首を傾げながら、沙月が口を開く。


「姫路がお好きなようですね。お父様が転勤族で、『私には故郷がない』と、仰っていました」


「同じ出身校のよしみとして、女子校時代の話は、されていましたか?」


「女子寮にいたと、お聞きしました。私が通っていたころは、短大が廃校になり、寮もなくなっていたのですが。寮母さんも修道女で、貴重な体験ができたそうです」


 以前、倫子が話していた女子高生は、佳乃で間違いない、と真帆は思った。


 沙月の顔を見詰ていると、黒岩沙羅と話している錯覚に陥る。


「久保さんと話していると。どうしても、女子大時代の友人を思い出しますね」


 視線を外すと、真帆は窓の外を見た。雲一つない、快晴だ。沙羅と湖香の魂が、彷徨っているように思えた。


――沙羅ちゃんと湖香に、会いたいなぁ。


 真帆は、怪奇現象を信じる質では、ない。だが、沙羅の思いや湖香の無念さが、沙月に乗り移っているように思えた。

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