第四章 02 倫子の昔話
タクシーから降りると、真帆は病棟を見上げた。カトリック系の病院のため、ヨーロッパの修道院を思わせる造りだ。
陽菜が総合受付の窓口で、事務員と話していた。
真帆が病棟に入ると、陽菜が近付いて来た。
「吉岡先生の病室は、三階よ。姪御さんが来られていたけど、もう、お帰りになったそうよ。今は目が覚めて、お話できるみたい」
倫子は、五年前に夫に先立たれていた。子供は、いない。
真帆と陽菜は、無言のまま、倫子の病室の前まで来た。ドアをノックすると、倫子の軽やかな返事が聴こえた。
真帆と陽菜は、顔を見合わせ、笑顔になった。そっと引き戸を開ける。柔和な笑顔で、倫子が手を振っていた。
「カッコ悪いところを、見られたわね。学生の春休みで、良かったわ。一ヶ月ほど入院するの。歩けないから、フレイルになるかもね」
フレイルとは、寝たきりの状態が続き、筋肉が衰えていく疾患だ。
真帆と陽菜は、倫子に近付くと、丸椅子に腰を掛けた。
真帆は、倫子の眼を見た。いつもの凛とした瞳だった。不信感や恐怖感に怯えている様子は、ない。
「複雑骨折だと、お聞きしましたが」
「
倫子が肩を
真帆は頷きながら、倫子に疑問点を確認する。
「マンションのエントランスは、人の出入りが多かったのですか?」
「貴方は、私が人とぶつかったと思っているのね」
倫子は言葉を切ると、人差し指を立てながら話し続けた。
「遠くに人の姿はあったけど、一人だったと思うわ。管理人さんがお掃除をしたばかりで、石段が少し濡れていたのよ。それで、滑ってしまって。私の不注意ね」
「石段の段差は、高いのですか?」
真帆が次々と質問するため、「警察の尋問みたいね」と言いながら、倫子がクスリと笑った。
「十㌢ぐらいの薄い石段よ。奥行きは三十㌢ぐらいかしら」
これ以上、質問を続けると、倫子が疲れるだろう。真帆は、無礼を詫びた。すると倫子が、陽菜の顔に視線を移して言った。
「桜田さんは、まだ勤務中なのでしょう? 学生の成績表作成や新年度のシラバス管理で忙しいはずよ。私は大丈夫だからと、教務部長にお伝えしてちょうだい」
陽菜は、何か欲しい物はないか? 好きな花は何か? 倫子に訊ねている。
そろそろ退室したほうが良い。真帆も腰を上げた。
倫子が、真帆の顔を見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「岩園さんはもう、採点も終わって、今日は暇なのでしょう? 年寄りの話し相手に、もうちょっといてくれるかしら?」
身体の自由は利かないが、倫子の思考力と饒舌は健在だと思える。
倫子は、表情に出していないが、何かを察している可能性もある。
陽菜が立ち去ると、倫子がしげしげと、真帆の顔を見た。
「人払いができたわね。あなたにね、昔話を聞いて欲しかったのよ。信じるか否かは、あなたの自由よ」
倫子の眼差しが、やや厳しくなる。辛い過去があったのか? 重要な機密事項があるのか? 真帆は、倫子が口を開くのを待った。
倫子が天井を見詰めながら、話し始めた。
倫子は、龍姫大学の理学部在籍中に、教員免許を取っていた。卒業すると、高校の化学の教師になった。
勤務先は、姫路のカトリック系の女子校だった。中高一貫校のため、中学の理科も担当した。
その女子校の隣には、同じカトリック系の男子校もあった。男子校も中高一貫校だった。
どちらの学校も進学校で、多くの生徒が国公立大学へ進学した。落ち零れても、推薦枠でキリスト教系の大学へ進学できた。
倫子が二十代後半のころ、ある高校二年生の女子生徒が妊娠した。女子生徒の両親は、海外赴任でヨーロッパにいた。そのため、女子生徒は、付属短大の学生寮から通学していた。
担任であった倫子は、生徒の両親に連絡と取ろうとした。だが、女子生徒が拒絶した。
子供を産みたいと言い張った。両親にも、相手にも、学校側にも知られないようにと、条件を付けた。
女子生徒の相手は、隣の男子校の生徒だと察しが付く。
だが、名前は、明かさなかった。レイプでは、ない。自身の興味本位だと語った。
倫子は、その女子生徒が醸し出す雰囲気に負けた。
僅か十七歳で、自立した考えを持っていた。親の海外転勤には、付いて行かず、単身、日本に留まった。
女子生徒は、「カトリック教徒は、中絶を認めない」と宗教観も、持ち出した。
倫子は、夫と相談し、宝塚の山奥にある修道院へ連絡した。
表向きは、長期入院として、休学させた。
女子生徒は、修道院で男児を出産した。女子生徒の希望で、赤ん坊は修道院に委ねられた。その後、男児は、カトリック教徒の裕福な家庭に引き取られたそうだ。
倫子は、寂しげな笑みを浮かべて、真帆の顔を見た。
「お伽噺を聞くような顔付きね。この話が本当なら、教師失格よね。その子は、何事もなかったように、受験勉強を続けて、大学に進学したわ。その後、私は教師を辞めて、大学院に行ったの。何かの研究ではなく、逃げたのよね」
言葉を切ると、倫子が続けた。
「信じるか否かは、あなたの自由よ。でもね、あの時に生まれた男の子は、どうなったのだろう? って最近、よく思い出すのよ。主人も亡くなる前に、その男の子の存在を思い出していたわ」
倫子が話し出した意図は何か? ある仮説が浮かぶ。
――女子生徒とは、佳乃先生だ!
意志の強さや、自身の考えを曲げない気迫。歳のころも、計算が合うと思えた。
質問をしようと、真帆は、倫子の顔を見た。だが、倫子の瞼が、重い。薬が効いてきたのだろう。
「くだらない話で、引き留めたわね。続きがあるのだけどね」と、倫子が、欠伸を堪えながら言った。
「来週の火曜日も、青松に来るのでしょう? 帰りに寄ってちょうだいよ。一ヶ月も入院するから、退屈だしね」
睡魔と闘いながら、倫子が無理に笑っていた。やがて、寝息が聴こえて来た。
真帆は、そっと席を立つと、退室した。廊下を歩きながら、倫子の話を反芻する。
何処の学校でも、数年に一度は起こる。よくある話だと思える。
だが、倫子は、陽菜を先に帰してまで、真帆の耳に入れたがった。どうして、このタイミングなのか?
倫子は話の中で、《男の子》を強調していた。倫子は、足を滑らせたのではなく、誰かに押されたのか?
男の子の存在に見当を付けており、庇っているのか?
先ほどの話が、事実だと仮定する。ざっと計算すると、その時の男児は、真帆よりも少し年上だと思えた。
佳乃の過去の仮説として、穴瀬に伝えてみよう。と思いながら、真帆は、複雑な心境で、病院を後にした。
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