第三章 09 カトリック教会

 真帆と倫子を乗せたタクシーは、ゆっくりと大手前通りを進んだ。正面には、姫路城の天守閣がそびえている。


 姫路城の前まで来ると、タクシーは右折した。


 しばらく城の堀が続く。堀が途切れてすぐに、カトリック教会と校舎が見えた。敷地面積が広い、カトリック系の私立高校だった。


 倫子が、校舎を指さして、口を開く。


「あの女子高もね、更科先生の母校なのよ」


 真帆の頭の中で、警鐘が鳴る。十二年前の黒岩沙羅の姿が、脳裏に浮かんだ。沙羅は生前、佳乃の研究室へ行った際、不気味な宗教画集『死の舞踏』を見掛けた、と言っていた。


 真帆は倫子の顔を見ながら、頷いた。


「道理で。更科先生は、キリスト教に造詣があったのですね」


「あぁ」と発しながら、倫子は、軽く自身の太腿を叩いた。


「先日の宗教画の話ね。更科先生は、赤ワインとかクロスのペンダントとか、カトリック系の物が好きなのよ。クリスチャンでは、ないけどね」


 倫子にとっては、差し障りのない話だ。だが、真帆には、佳乃を知る、重要な手掛かりとなった。佳乃のワイン好きは、決定的だ。


 タクシーは、いつしか姫路城の裏側を走っていた。龍姫大学の正門も見えて来た。


「姫路城は、どの角度から見ても美しいですね」


 真帆は、えて話題を変えた。倫子は、涼しい顔で頷いている。


 タクシーを降りると、倫子は、龍姫大学の校舎を見回した。


「更科先生は、研究室で待っているみたいよ。あなたも彼女の蔵書や資料を見たいでしょう?」


 真帆は頷くと、倫子に質問した。


「私が学生のころ。更科教授は、エリスリトールの研究をされていたのですか?」


 倫子が、残念そうな笑みを浮かべて首肯している。


「更科先生の大学院時代の博士論文は、赤ワインの 《レスベラトロール》だったのよ。でもね、飲むと頭痛が酷(ひど)くなるから諦めたのよ。そこで彼女は、ワイン製造の後に廃棄される葡萄の皮に注目したの。研究テーマは、自分がコレだ! と思っても相性があるから、難しいわね」倫子が歩を止め、首を傾げながら続ける。


「本人に、根掘り葉掘り訊けないものね。確か、青松の准教授時代の研究テーマは、まだ赤ワインの 《レスベラトロール》だったと思うわ。龍姫大に戻ったのを機に、研究テーマをエリスリトールにしたと記憶しているけど」


《レスベラトロール》とは、赤ワインの色素成分でポリフェノールの一種だ。近年、抗酸化作用の機能性で注目されている成分だ。


 だが佳乃は、十二年前、頭痛を機に、この研究を諦めている。


 黒岩沙羅が失踪した日、佳乃が好物の赤ワインを持参していたら、辻褄が合う! と真帆は思った。


 佳乃がこの十二年間で、研究テーマを変更したのは三回だ。だが、どれも『食品学』に基づいている研究なので、許容範囲ではある。


 タクシーに乗る前の真帆は、倫子の登場を残念に思っていた。だが、倫子から得られた佳乃の前情報は、大きかった。真帆が単身で佳乃に会っても、聞き出せなかっただろう。


 倫子の案内で、真帆は佳乃の研究室の前まで来た。ノックをすると、佳乃が姿を現した。


 真帆が廊下のほうに目を向けると、遠目に猫背の掃除道具を抱えた中年女性が見えた。


 真帆と倫子は、室内に入った。佳乃は廊下に向かって、中年女性に声を掛けている。


「今日は遅出だったのですね。ランチで席を外しますから、十二時から、お掃除をお願いしますね」


 女は愛煙家なのか、しゃがれた声で返事をしていた。


 佳乃が引き戸を閉めながら、首を傾げている。


「いつもは八時台にお掃除が入るのですが。まぁ、学生の春休み期間だから、お掃除のシフトが変わったのでしょうね」


 頭を切り替えたのか、佳乃は真帆と倫子の顔を順番に見た。


 妖艶な笑みを湛えて、真帆の眼を見据える。


「上浦さんのお葬式を除くと、岩園さんとは、十二年ぶりの再会ね。本当は今週の月曜日に会えるはずだったのに。ごめんなさいね」


 真帆は内心、「美人独特の社交辞令だ」と思いながら、愛想笑いを浮かべた。視界の片隅で、室内の書棚を見廻した。


 一見すると、ワインや葡萄に関する書籍は、ない。植物性タンパク質や、マメ科の専門書が並んでいる。洋書も多いが、真帆の位置からは、スペルの判読が難しい。


 一通り、三人三様の近況を話し合った。この後、佳乃の案内で、職員用食堂に向かう。まもなく、十二時だ。


 廊下に出ると、先ほどの猫背の中年女性が待機していた。清掃業者の制服だろう。ライム・グリーンの作業着と帽子を被っていた。


 誰とも目を合わせず、下を向いたまま、何度か会釈していた。

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