第三章 05 エリスリトール

 週が明けて、月曜日になった。笹川からの連絡は、まだ、ない。


 二月は、気温の低下で、高齢者の急患が多い。芦岡医大の検査機関は、多忙だと思えた。


 真帆は、午後から恒例のソコロフの会議に出席した。


 沙月には、会議後に三十分ほど時間を取って欲しい旨、メールしていた。


 会議室に入ると、真帆はそっと、出席者の顔を盗み見た。だが、佳乃の姿は、見当たらなかった。


 沙月が、会議資料を抱えて、最後に入ってくると、扉を閉めた。真帆と目が合うと、笑顔を向けた。


 開発責任者の中年男性が、佳乃の欠席を告げた。真帆は内心、ガッカリしていた。


 会議内容では、代替食品の候補に、コオロギ・タンパクが増えていた。だが、ルピナス豆の調査結果ページが増えている。


 今月末には、代替食品を決定する旨が、伝えられた。


 意見を求められると、先週の岡倉にならい、真帆は無難な意見を述べた。今日の目的は、会議後の沙月との面会だ。


 会議が終わると、真帆は、博物館内のカフェに向かった。


 五分ほど経過すると、急ぎ足で沙月が真帆の席に近付いた。


 研究職の沙月は、会社側の課題をこなしていれば、自由が利く。


 沙月は、約束時間を守る。だが、相手が先に着席していると詫びるタイプだ。その姿が、学生時代の黒岩沙羅を思い出させた。


 真帆が沙月の様子を観察していると、沙月が口を開いた。


「どうか、されましたか?」


 人をまじまじと見るのは、失礼な行為だと、真帆は反省した。苦笑すると、沙月の顔を見て、言った。


「久保さんは、昔の友人に似ているなぁと思いまして」


 沙月は、以前にも同じ内容を告げられたのか、笑みを零した。


「上浦さんから以前、女子大時代に失踪事件があったと聞きました。その時のご友人に、私が似ているのですね?」


 生前の湖香が、沙月の相談を親身に乗っていた理由が解った。沙月の醸し出す雰囲気は、黒岩沙羅と似ていたのだ。


 沙月は更科佳乃に師事して理学博士を修得している。佳乃もまた、沙月の存在に、黒岩沙羅の面影を重ねたのか?


 佳乃の欠席で、知りたい情報が沙月に問い易くなった、と真帆は思った。


「失踪事件の件、ご存じでしたか。更科教授からも、お聞きになったことはありますか?」


 沙月は、戸惑っている。ガチャリと音を立てながら、カップをソーサーに戻していた。


「上浦さんの同期生だから、失踪されたご友人も、更科教授の教え子ということになりますよね。そこまで、考えが及びませんでした」


 沙月の言動は本心だ、と真帆は思った。


 湖香は、機転の利く女性だった。沙月が佳乃を崇拝している事実を知ると、失踪事件の詳細を、沙月に語らなかったと思える。


 真帆は、微笑むと、首を横に振った。ゼミの指導教授は、吉岡倫子だった。佳乃は、ゼミ合宿を手伝ったに過ぎない。


 沙月と沙羅は、最初の名前の漢字「沙」が同じだ。真帆は、宗教や輪廻転生説を信じる質では、ない。だが、目の前に座る久保沙月に対して、不思議な感情を抱いた。


 沙月は、疑念を融解させる能力を持っているのだ。きっと、見た目よりも、精神力は強い、と真帆は直感した。


 真帆は、驚かせた事実を詫び、沙月への質問を続けた。


「仕事の話に戻りますが。ルピナス豆のアレルギー反応について、分かる範囲で、詳細をご教示いただけますか?」


 頭を切り替えたのか、沙月の表情が引き締まった。


「アレルギー食品なので、社内での試食に当たり、遅延型フード・アレルギー検査を受けました。更科教授のお勧めです」


 遅延型フード・アレルギー検査は、現在の日本では行われていない。血液サンプルをアメリカの検査機関に送り、到着次第、結果の通知が来る。料金次第で、着後すぐに検査してもらえるので、最短で四日ほどだ。


 沙月が、瞳に切なさを宿しながら語る。


「私は、すぐに申し込み、ルピナス豆に反応しない事実が判りました。ですが、上浦さんは、定期的に頭痛外来に行っているから、血液検査は必要ない、と仰って。そのまま試食に参加されていました。先週も、お訊きしましたが。岩園先生は、食中毒やアレルギー反応を、疑っていらっしゃるのですか?」


 真帆は、ゆっくりと瞼を閉じると逡巡した。目を開くと、「風の噂ですがね」と、前置きをした。沙月の顔を見詰めて、先を続けた。


「上浦さんの前に、御社の工場で二人の方が亡くなったとお聞きしましたが、事実ですよね?」


 沙月の目が泳ぐ。今度は沙月が逡巡していた。


「上浦さんが、冗談っぽく、『送られてきたルピナス豆は、食用じゃなくて、観賞用だったりして』と話されたことがあります。私は、更科先生が間違える訳がない、と軽く反論しましたが」


 沙月が顔を上げると、真帆の眼を見て続けた。


「九月末に亡くなった社員は、糖質オフ・チョコレートの生産ラインの主任でした。試作品をいつも喜んで食べていました。糖尿があったようですが、糖質制限は長続きしないと申していましたね」


「そうですか~。糖質過多で、合併症を起こした可能性が高そうですね」と、真帆は、口を挟んだ。


 沙月が頷きながら、続きを語る。


「十一月に亡くなったのは、今年度の新入社員でした。ダイエットや美容に詳しく、糖質オフ・チョコレートの試作にも協力的でした。上浦さんと似た体質で、頭痛持ちでしたね。線が細く、小食でした」


 以前、救命医の嶋元から聞いた内容と一致する。一人目のソコロフでの死者は、糖尿病の合併症。二人目の女性は、栄養失調が疑われた。いずれも、搬送前に貧血で倒れている。


 一見すると、二人の死者は、生活習慣が祟ったと考えられる。だが、ルピナス豆の毒性の確認に、人体実験が行われた、とも考えられた。沙月の話から察すると、湖香は、その事実を見抜いたと思える。真帆の考え過ぎだろうか?


 真帆の中で、佳乃への疑念が深まった。真帆は、沙月の表情に居た堪れなくなり、話題を変えた。


「ルピナス豆の導入が決定しても、国産品は、まだ認可が下りていないですよね?」


 沙月が、頷く。


「オーストラリア産のルピナス豆を輸入すると思います」


 世界の食用ルピナス豆の生産量は、オーストラリアが第一位だ。中途半端な知見で国産のルピナス豆を使うより、安全だ。


 真帆は、沙月の笑顔を回復させるために、佳乃の話題に変えた。


「私が学生のころ、更科教授は、食品学などの教科を担当されていました。当時、何の研究をされていたのか、記憶がなくて……」


 沙月の表情を観察すると、真帆の読み通り、笑顔が戻っていた。


「エリスリトールですね!」


 佳乃の話題となると、沙月は声まで明るくなるようだ。


 エリスリトールとは、一八〇〇年代に、トウモロコシから発見された糖アルコールだ。近年、ワイン大国のフランスで、廃棄された葡萄の皮からも加工できる事実が発見された。


 味覚は甘い。だが、カロリーが、ほぼゼロだ。人工甘味料に替わるダイエット甘味料として、ここ十年で生産量が上がっている。


 真帆は、質問を重ねた。


「エリスリトールを研究した経緯などを、話されていましたか? 今日は、更科教授に会えると思っていたので」


 沙月は、満面の笑みを浮かべて佳乃について語る。


「ワインがお好きで、神戸ワイナリーによく行かれたみたいです。生産者から、葡萄の皮の廃棄処理の話を聞いた時、フランスで発見されたエリスリトールを思い出したそうです。その後、研究テーマにしたみたいですよ」


「今も、エリスリトールの研究は続いているのでしょうか?」


 沙月が、残念そうに首を傾げている。


「ある程度は、努力されていました。でも、日本でエリスリトールの研究を続けるのは、難しかったようです。『ワイン好きから始まった研究だけど、どうも相性が悪い』と話されていました」


 真帆は、学生レポートの課題『赤ワインの合成成分でジキル&ハイド状態』の内容を思い出していた。佳乃がワイン好きなのは、間違いない、と真帆は確証した。


 黒岩沙羅の失踪事件と湖香の急逝は、やはり繋がっているように思える。だが、真帆の直感だけでは、解決できない。


 真帆と佳乃の対面は、来週の月曜日に繰り越された。

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