第三章 04 コーヒー・ラウンジ

 真帆が自身の研究室に戻ると、ノックの音が聞こえた。


 二月に入ったので、学生の訪問は、ほぼ、ない。採点ミスでもあったのか、と思いながら引き戸を開けると、笹川が立っていた。


「遠目に君の姿が見えたから。ちょっと、いいかな?」


 笹川の誘いで、研究棟二階のコーヒー・ラウンジに向かった。外資系の大手コーヒー・チェーンが運営しており、普段は学生に人気だ。今週は、学生の長い春季休暇に入ったため、空いていた。


 真帆は、湖香の検査結果について、笹川に質問を繰り返していた。


 だが、先週は自身の貧血で安静にしていたため、出勤していなかった。そのため、湖香の胃の内容物にルピナス豆があった事実を、まだ笹川に報告していなかった。


 奥の席に向かい合って座ると、笹川が話し始めた。


「君さぁ、先週、低血糖の症状が出たらしいね。今の顔色を見ると、元気そうだけどね」


 笹川は、医学博士の学位を持っているが、医師免許は持っていない。先日、岡倉と岸田が、笹川は医師以上の知識があると話していたのを思い返した。


「笹川先生は、医者っぽい物の見方をする時がありますよね?」


 と、真帆が言った。すると笹川は、お得意の、人を小馬鹿にした笑みを浮かべた。


「ここの医者は、俺の検査結果を見て患者を診断する場合が多いからね。責任重大なんだ~」


 自信過剰な態度が、シャーロック・ホームズを思わせる。


 真帆の顔を見てニヤリとすると、笹川が続けた。


「君のお休み中に、君のお友達の胃の内容物の情報が耳に入ったよ。念願のソコロフへの潜入も、実現したようだね~」


 真帆は一瞬、顔をしかめたが、すぐに真顔に戻った。笹川の情報源が何処からなのか、気に懸かる。


「事情をご存じなら、報告する必要は、ないですね。ところで、龍姫大学の更科佳乃教授と面識は、ございますか?」


 笹川の態度が一変して、首を傾げる。


「その女性が、例の植物を研究しているのかな?」


 笹川の顔は、無表情に近い。佳乃の存在は、承知していないと思われる。真帆は頷くと、ルピナス豆について話し始めた。


「上浦さんは、昨年の九月中旬に、後輩の研究員と視察に行っています。恐らくルピナス豆のサンプルを持ち帰って、社内で試食したのでしょう。ソコロフでは効率よくアク抜きできる方法を模索しており、今も続いているようですね」


 笹川が、真剣な表情で頷いた。


「一人目の死者が出たのが、九月末だったね。次が十一月。君のお友達の頭痛が酷くなり、献体登録したのが十一月末。毒豆の登場ってところか」


 冗談めかして話しているが、笹川の目は笑っていなかった。


 真帆は、何度も首肯した。


「ルピナスは、地中海地域では昔から一般的に食べられている豆で、現地では、スナック菓子もあります。なので、ソコロフでは、誰もこの豆が原因だとは、気付いていない可能性が高いです」


「君のはやる気持ちは、わかるのだけど。食用に使われている植物は、部位によって毒性がある物は多いよね。ルピナス豆にアルカロイドがある事実だけでは、警察は動いてくれないよ」


 不安さが顔に出ないよう、真帆は腹に力を入れて、言った。


「九月と十一月に搬送されたソコロフ社員の血清は、大学の血液保管庫にありますよね? 研究試料として、お調べいただくには、どの部署に申請すれば、いいのでしょうか?」


「血液保管庫は、輸血部の管轄だね。けど、急患や死者の血清は、輸血には使わない。大学機関の研究用に保管しているだけだ」


 笹川が、再びニヤリとして、人差し指を立てた。笹川は、嫌味な態度を、よく採る。だが、不思議と絵になっていた。


「俺が適当に輸血部に話して、その二人の血清を貰って来るよ。そこから、君のお友達と同じアルカロイドが出たら、ビンゴだな?」


 先日の岡倉や岸田の発言が、真帆の脳裏に過る。以前の真帆は、笹川に対して、Ⅰ型糖尿病の発見の恩があった。だが、セカンド・オピニオンを心に決めてからは、笹川が行う血液検査結果に疑問があった。


 だが、湖香の死の解明に、公私混同してはいけない。


――死者の血清サンプルを調査してもらうだけだ。


 真帆は、そう割り切ると、愛想笑いを浮かべた。


「笹川先生の申し出に感謝します。結果をお待ちしてますね」と、世辞を言った。

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