第三章 02 沙月との対談

 岡倉が先に帰ると、真帆は、ソコロフに留まった。


 沙月の誘いで、チョコレート博物館内のカフェに入った。


 真帆は、会議前に沙月が見せた、戸惑いの表情を思い返した。沙月も、真帆に伝えたい事実があると思われる。


 真帆と沙月は、一番奥の窓際席に向かい合って座った。


 沙月は、人見知りする質なのだろう。笑顔が強張っている。


 真帆は、沙月に対して警戒心を抱かなかった。だが、沙月の憂いのある瞳を見ると、哀しい予感に襲われた。以前、沙月を見かけた際も、同様に感じた。


 沙月が、引き留めた事実を詫びると、真帆の目を見詰めた。


「上浦の葬儀に、お見えでしたね。失礼ですが、小児科医、岸田先生の奥様ですよね?」


 沙月は、真帆と岸田が離婚している事実を知らないようだ。


 真帆は、首を横に振ると沙月の顔を見た。


「岸田とは、昨年、離婚しました。同じ大学院だったので、今でも交流はありますけど」


 沙月の表情に、心持ち安堵の色が見える。だが、岸田の近況を訊ねるような軽薄な女性には見えなかった。


 再び、沙月が詫びると、焦燥からか、頬が紅潮していた。


 沙月の緊張をほぐすため、真帆は笑みを湛えて質問した。


「生前の上浦湖香さんの様子を教えていただけますか? 上浦さんとは、女子大の同期生でした。亡くなった日も、夕食の約束をしていたのです」


 沙月が人懐っこい笑みを浮かべた。真帆が湖香の友人だと判ると、敬称を使って湖香について話し始めた。


「上浦さんは、神戸工場時代の新人研修で私の指導社員でした。私は上浦さんの二年後輩で、大学院卒業後、ソコロフに入社しました」


 沙月は、龍姫大学理学部出身だった。入社後、母校で博士号を取るために休職したり、産休を取ったりした時期もあった。


 沙月の休職中に、湖香が西宮工場に異動になった。沙月が寂しく感じていると、産休明け、沙月自身も西宮工場に異動となった。


 沙月は異動を機に、息子と二人で西宮に移り住んだ。だが、夫との別居婚は続かず、昨年、離婚が成立した。


 湖香がプライベートでも、親身に相談に乗ってくれたので、仕事も続けて来られた、と沙月が語る。


「上浦さんとは、共通の恩師がいたのです。更科佳乃教授です」


 沙月の表情から、佳乃は尊敬に値する教授なのだろう。だが、佳乃の名を訊くと、真帆は再び不吉な予感に襲われた。


 顔に出ないよう表情を和らげると、真帆も笑顔を返した。


「更科教授のご指導で、理学博士を?」


 沙月が満面の笑顔で頷く。


「岩園先生も女子大時代、更科教授の授業を受けたのですよね。ご縁を嬉しく思います!」


 実年齢よりも、沙月は若く見える。沙月の愛嬌のある笑顔に、女性である真帆も、癒された気分になった。


 沙月の表情には、感情移入させる魅力があった。表情がくぐもると、こちらを哀しい気分にし、笑顔になると癒される。


 真帆は、哀愁が漂う岸田の背中を思い返した。岸田は、沙月の離婚を知っているのか? 湖香の死が解明したら、岸田を応援しようと思い直した。


 真帆が直感した通り、沙月は佳乃の謎を解く重要人物だった。


 沙月は、真帆に打ち解けて来ている。この機会を逃さず、真帆は佳乃への探りを開始した。


「会議資料の中に、ルピナス豆の記述がありましたね。資料提供は、龍姫大学となっていましたが。更科教授の研究テーマでしょうか?」 


 沙月が逡巡している。真剣な表情で、姿勢を正すと、言った。


「岩園先生は、開発メンバーになる方なので、お耳に入れましょう。ソコロフはコストが抑えられる代替食品を探していました。私は、更科教授が農学部と共同開発していたルピナス豆を思い出し、会社に提案したのです」


「今月から、食品添加物や食品の機能性は、龍姫大学の理学部が協力すると、前情報で聞きましたが」と、真帆が口を挟む。


 沙月が、大きく頷いた。


「食品添加物は、従来通りの予定です。龍姫大学には、代替食品の機能性や安全性の情報提供をお願いしています。今日の会議資料は、まだ固まってない部分もあるので、一部しか掲載していません」


 真帆は、沙月から視線を外し、窓の外を見た。


 遠目に西宮のヨット・ハーバーが見える。ヨットの往来を見ながら、真帆と湖香は、お気に入りの海沿いのカフェでよく歓談した。


――もう湖香は、この世に、いない。


 視線を沙月の眼に戻すと、真帆は質問を続けた。


「上浦さんは、ルピナス豆の提案を快く思っていましたか?」


「欧米では昔から使われている食材ですし、アク抜きさえしっかりすれば打って付けだと、仰っていました」と、沙月が答える。


 真帆は、さらに質問を続けた。

「ルピナス豆の試食メンバーに、上浦さんは入っていましたか?」


 だが、沙月は、顔を下に向けた。そして、まごついた口調で、真帆に質問して来た。


「もしかして、上浦さんが食中毒で亡くなったとお考えですか?」


 沙月の不安げな表情が、学生時代の黒岩沙羅と重なる。沙月を安心させるため、真帆は首を横に振りながら言った。


「研究熱心な上浦さんなら、試食しそうだと思いましてね。最後にもう一つだけ、お聞きしたいのですが」


 言葉を切ると、真帆は沙月の表情を観察した。湖香の胃の内容物からルピナス豆が検出された事実は、伝えないほうが良いようだ。


「上浦さんと更科教授は、打ち合わせなどで顔を合わせましたか?」


 心持ち、沙月の表情に笑顔が戻っている。佳乃の話が出ると、頬が緩む。それだけ、佳乃を尊敬しているのだろう。


「昨年の九月中旬に、上浦さんと二人で、佐用郡のルピナス畑を視察しました。その時は、更科教授と農学研究者の方が、敷地内を案内してくださいました」


「そうでしたか~」と、真帆は、のんびりとした口調で尋ねる。


「上浦さんと更科教授は、再会を喜んでいたでしょうね」


 当時を懐かしむ様子で、沙月が何度も首肯している。


「更科教授のほうが嬉しそうでした。上浦さんに、『立派になったね』とか『監修チョコ食べているよ』などと、ねぎらっていましたね」


 真帆は、湖香から佳乃と再会した話を聞いていなかった。職務上の事柄は、親友や家族にも話せない内容がある。湖香にとって、佳乃との再会は、真帆の耳に入れたくないほど、憂鬱なものだったのか?


――湖香は、何を知ったのだろう?


 湖香と佳乃は、昨年の九月中旬に再会している。その後の九月末には、ソコロフで一人目の死者が出ていた。何か関係があるのか?


 三人の死者について、沙月の考えを尋ねたかった。だが、沙月と言葉を交わしたのは、今日が初めてだ。これ以上の質問は沙月を傷つけると察し、真帆は沙月との対談を切り上げた。

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