第二章 07 秘密の連鎖
土曜日になった。学生の後期試験期間に入ったので、授業は、ない。自宅マンションを出ると、真帆は、
十五時から、芦岡医大で大学院時代の同期会がある。会場は、大学内の卒業生が利用できるティー・ラウンジだ。
不定期だが、年に数回、開催されていた。参加者は、いつも二十名前後だ。軽食を囲んで、情報交換している。何らかの研究や開発に携わっている者が多いので、研究の一助になるケースもあった。
真帆は勤務先が芦岡医大のため、断る理由も見つからず、毎回、出席していた。
今日は、前夫の岸田勝彦に会う目的もある。
湖香が救急搬送された際、救急車に同乗していたのは、ソコロフの研究員、久保という女性だった。
真帆の見当違いかもしれないが、久保は、岸田が思いを寄せている相手だと思える。
久保への連絡方法を、岸田に尋ねるのは、筋違いだ。だが他に、真帆には妙案が浮かばなかった。
真帆がティー・ラウンジに入ると、岸田は隅の窓際席で紅茶を飲んでいた。岸田は、コーヒーが苦手だった。真帆の胸に、懐かしさが込み上げる。だが、岸田に未練がある訳ではなかった。
開催時間まで、十分ほどある。真帆は、岸田に近づいた。
岸田は、真帆の姿を認めると、静かな笑みを浮かべた。
「注射は、打って来たか?」と、岸田が小声で囁く。
真帆のⅠ型糖尿病の発症は、死産を機に判明した。そのため、インスリン注射が命綱となった真帆に、岸田は責任を感じている節があった。真帆は、そんな岸田の優しさに後ろめたさを感じ、自分から離婚を切り出したのだ。
小さく頷くと、真帆は岸田の左隣に座った。
「女子大時代の親友がね、また一人、亡くなったの」
真帆の言葉に、岸田の眼が、一瞬、泳ぐ。
「よく連絡を取っていたのは、
岸田は、湖香の死を知らないようだ。岸田は、心配そうな表情で、真帆の目を見る。岸田の左手が、真帆の背中に触れた。だが、すぐに引っ込めた。
真帆は内心、岸田とは、もう他人なのだ、と改めて思った。
会場を見渡すと、同期生が集まり出している。
真帆は手短に、湖香が亡くなった様子を岸田に話した。
「救急車に同乗していた女性が、久保さんって方なの。葬儀にも来られていたのよ」
言葉を区切ると、真帆は岸田の表情を観察した。驚いた様子は、ない。岸田は、テーブルの上を凝視していた。
真帆は、再び、口を開く。
「私がまだ、岸田の家にいたころ、急患があったよね? 若い女性が、二歳ぐらいの男の子を抱いて」
岸田が顔を上げて、真帆の顔を見詰めながら言った。
「久保さんって方が、あの時の女性だと考えているのかな?」
岸田は、腕を組んで、会場を見回した。目の合った同期生に、会釈を返している。真帆も、愛想笑いを浮かべて、会場入りした同期生に会釈した。
真帆は、岸田が発する次の言葉が、待ち遠しかった。
腕を
「個人情報だからね。君は他言しないと信じているけど」
「万が一、事件性があった場合は、関係者に話すかもよ」と、真帆が口を挟む。岸田は頷くと、声を落とした。
「久保
岸田が立ち上がる。同期会が、始まる時間だ。
真帆も立ち上がった。
幹事役の医師が、一通り話し終えると、歓談タイムになった。
岸田が、そっと真帆に近づき、立食コーナーへ誘う。取り皿に軽食を載せながら、岸田が小声で囁く。
「湖香ちゃんの死因は、警察が動いているのか?」
真帆の脳裏に、穴瀬の顔が思い浮かぶ。だが、穴瀬の存在は、前夫であっても、他言は許されないと感じた。
首を横に振ると、真帆は岸田の顔を見て、言った。
「湖香の遺言があったから、病理解剖ができたみたい。だけど、警察が動けるほどの証拠は、出てないよ」
岸田が、ゆっくりと首肯して口を開いた。
「俺の紹介で久保さんに会わせてあげたいけど。守秘義務があるからね。最近は、息子さんの診察にも来てないし……」
真帆は、以前、岸田が寝室の窓から、公園で遊ぶ、久保母子を見ていた光景を思い返した。
久保沙月は、シングル・マザーなのか? 転勤で、夫と別居しているだけか?
寂しげな岸田の背中を見ると、真帆は、何故か、岸田を応援したい気分になった。
頭を切り替えると、真帆は沙月と会える手段はないか? 考えを巡らせた。
その時だった。真帆の目の前が、真っ暗になった。低血糖の症状だ。貧血だと思われる。
――インスリン注射を打ったのに、どうして、こんな時に?
真帆の記憶が、どんどん遠のいていく。
――変な物を食べたのかな?
周りからは、「真帆!」「岩園さん!」「真帆ちゃん」……。様々な呼び方で、真帆の名前が叫ばれている。
記憶が途切れる直前、真帆は、懐かしさを覚えた。頼もしい、腕の中だと思った。
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