第二章 08 見えない罠

 真帆が目覚めると、傍らに岸田がいた。


 個室だった。壁時計を見ると、十時過ぎだ。


 安堵した様子で、岸田が真帆の顔を覗き込む。ナース・コールに、手を伸ばした。だが真帆は、岸田の手を制した。


「何があったのか、教えてくれる? 仕事は?」


 岸田が、優しい眼差しで、真帆の目を見た。


「今日は、日曜日だから休診だ。君は、同期会の途中で倒れたのだ。周りは医者だらけだし、会場も大学病院内で助かったよ。君は、インスリン注射を、早く打ち過ぎたんだね。注射を打ってから、三十分以内に、何か食べないといけないのに」


 真帆は、納得して頷いた。


「血糖値が下がりすぎたのね。それで立食コーナーに、呼んでくれたのね」


 岸田が頷くと、改めてナース・コールを押した。


 糖尿病患者が食前にインスリン注射を打つのは、食後の高血糖を防ぐためだ。だが、インスリン注射は、血糖値を下げ過ぎる難点もある。そのため、注射後三十分以内に食事を摂るよう推奨されている。


 岸田が、怪訝そうな表情で真帆の顔を見詰めて、言った。


「芦岡医大に、君の主治医がいると思っていたけど。病院を替えたの?」


 真帆は、観念して頷いた。


「当時の主治医が甲子園病院に異動したのよ。それに、芦岡医大病院は、色々と思い出すから嫌なの。幸い、勤務先の研究棟は、病棟と離れているから、思い出さずに済むけどね」


 岸田が、不満げな表情で首肯した。


 ノックの音がすると、内科医の岡倉が、看護師を携えて入室した。


 真帆は、内心、驚いた。


「岡倉先生が診てくださったのですね!」


 岡倉が、少し照れたような笑顔で首肯する。


「昨日、ちょうど出勤してたんだ。君が倒れたと聞いて、上浦さんの件と重なってね。それで、心配になってね」


 岸田が、気を利かせて退室しようとした。だが、岡倉が制した。


「岸田君も、一緒に聞いてくれるかな?」


 岸田は芦岡医大のOBだったため、岡倉とは面識があった。真帆と岸田が、離婚している事実も承知している。


 岸田が安堵した様子で、丸椅子に座った。


 岡倉の表情が、やや厳しくなった。


「岩倉さんをⅠ型糖尿病だと診断したのは、甲子園病院に異動した茂崎先生だったよね?」


 真帆が頷くと、口を開いた。


「血液検査の詳細結果で、Ⅰ型糖尿病だと判ったのです」


 岡倉が、腕を組んで首を傾げている。


「インスリン注射が、効き過ぎていると思うんだよ」


「昨日は、注射を打ってから食べ始めるまでに、時間を空け過ぎました。私の不注意ですよ」

 と言うと、真帆は、自身のケアを怠ったことを悔いた。


 岡倉が、首を横に振りながら、言う。


「インスリン注射が、本当に必要かどうか。主治医と相談しなおしてみたら、どうかな? 十五時間以上の昏睡状態に陥るのは、治療が合ってないように思えてね。今の私の立場だと、急患を診たに過ぎないけど」


 岸田が、神妙な顔付きで、口を挟む。

「しばらく入院が必要なら、甲子園病院に移ったほうがいいですよね?」


「私の所見では、もう一晩ここで様子を見て、明朝には退院だ。点滴で調整しているから、今日はインスリン注射を打たなくていいよ」


 岸田は立ち上がると、岡倉に頭を下げた。


 岸田の様子を見て、岡倉が、フッと笑みを零す。


「別れてからのほうが、伴侶の存在の大切さが解ったんじゃない?」


 岡倉が、岸田の肩をポンポンと軽く叩くと、退室した。


 看護師も、真帆の脈や体温を測ると退室した。岸田と二人になると、真帆はバツの悪さを感じた。


 岸田が照れ臭そうな表情で、真帆の顔を見た。


「明日、退院したら、家まで送らせてくれるかな?」


 真帆は、岸田の優しさに苦しさを覚えた。


「平日だから診察があるでしょう。タクシーで帰るよ」


「月曜日は、親父が担当する日だから、心配ない」


 断り続けても、岸田は明朝、やって来ると思えた。真帆は、岸田の申し出を承諾した。


 岸田が退室すると、真帆は白湯を飲みながら、考える。


――インスリン注射を止められる方法が、あるのだろうか?


 三年前に血液検査の詳細を突き止めたのは、笹川だった。笹川は、医師ではない。主治医は、笹川の発見を優先していた。


 Ⅰ型糖尿病患者となった真帆は、インスリン注射が命綱となった。笹川を命の恩人だと思っていたが、間違っていたようだ。


 冴えない頭で考えていても、堂々巡りとなる。休養が必要だと思いなおし、真帆は、眠りに就いた。

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