第二章 06 アポなしの来客

 真帆が研究棟に戻ると、事務局の女性職員に呼び止められた。


 芦岡医大の研究棟は、一階に事務局の受付窓口がある。学生や来客は、教職員に会う際、受付を通して研究棟に入れる仕組みだ。


 真帆に、アポなしの来客だ。


 女性職員は、真帆の顔を訝し気に見ると、小声で囁く。


「専門家の意見を訊きたいとかで、警察の方ですよ」


 真帆は内心、「思ったより早い!」と感嘆していた。


 職員が指さす方角を見ると、長椅子に穴瀬が座っていた。


 人懐こい笑顔を真帆に向けると、穴瀬が立ち上がった。水面下で湖香の死を調べているのだろう。穴瀬は、一人で来訪していた。


 研究室に戻ると、真帆は、化学式を分析して、謎のマメ科の植物を調べるつもりだった。穴瀬の登場で、手間が省ける。


 真帆は一瞬、迷ったが、自身の研究室に穴瀬を通した。


 穴瀬は、真帆の研究室に入ると、笑みをたたえて言った。


「天井まで書棚があって、図書館みたいですね」


 だが、眼光は鋭く、瞬時に室内を見渡していた。真帆の気をほぐすためか、世間話に興じる。真帆のノートPCが立ち上がると、穴瀬が、本題を切り出した。


「ルピナス豆って、ご存じですか?」


 真帆の心の中で、警鐘が鳴る。驚きが顔に出ないよう、真帆は冷静を装って頷いた。キーボードを操作すると、曽根からメールが入っていた。湖香の胃の内容物のデータだった。


 真帆は、専用ソフトを立ち上げると、ルピナス豆の化学式を検索した。胃の内容物の化学式も呼び出した。


 病理部で判明できなかった、謎の植物性タンパク質の正体は、ルピナス豆のようだ。


 穴瀬は職務上、はっきりと湖香の胃の内容物について、話せない。穴瀬の事情を察すると、真帆は口を開いた。


「ルピナスは、地中海地域では昔から食べられている主流の豆です。スナック菓子や料理の材料に使われていますよ」


「日本では、どうなのでしょうね?」と、穴瀬が問い返す。


「ルピナスは、大豆に代わる植物性タンパクとして、世界中で脚光を浴びています。日本の大手企業も試作を開始しているでしょうね」


 と真帆が答えると、穴瀬はさらに質問して来た。


「岩園先生の元にも、情報は入ってきますか?」


 真帆は首を傾げて、言葉を選んだ。


「食品学は、私の専門ではありません。ですが、アレルギーや中毒症状が出る植物の一つとして、把握していますよ」


 ルピナスは、日本では鑑賞用の花として知られている。観賞用のルピナスには、豆の部分に有毒成分のルピニンが含まれている。


 アルカロイドの一種で、生のまま口に入れると、呼吸困難や昏睡状態に見舞われる。中枢神経を刺激するため、脳卒中と似た状態で死に至るケースもある。


 地中海地方では、ルピナス豆が広く食用に利用されているため、昔から「医者泣かせ」と呼ばれていた。


 今後、日本でもルピナス豆が普及すると、似た症例が出るだろう。


 欧米では、アルカロイドの量によって食用のルピナスか否かが判別されている。


 ルピナスは水耕栽培に向いており、大豆よりも早く収穫できるため、代替食品として主流になるのは、時間の問題だと思えた。


 穴瀬が何度も首肯すると、口を開いた。


「ルピナス豆に有毒性がある事実は、判りました。日本では、ルピナスによる犯罪は愚か、中毒死の事例もない訳ですよね……」


 残念そうな口調とは裏腹に、穴瀬の目付きが鋭かった。


 ルピナスについて、思い当たる節はないか? 真帆は頭をフル稼働した。兵庫県のルピナスの名産地は……?


 真帆は、ハッとして穴瀬の顔を見詰めた。


「姫路から車で一時間ほど走ると、佐用郡です。ルピナスの観光地がありましたね。表向きは、観光地として一般に公開されていますが、確か、龍姫大学の農学部か理学部が管理していたと思います」


 真帆は、以前、前夫の岸田とドライブで訪れた光景を思い返した。


 当時は、観光で訪れたため、気に留めなかった。大学機関が植物の研究をしている事実は、よくある事例だ。


 よく思い出してみると、ルピナス畑の隣に面積の広いビニール・ハウスがあった。だが、真帆はハウスの中には、入っていない。


――もしかしたら、食用ルピナスの水耕栽培地なのかな?


 と、真帆は思った。湖香は、何らかの形で、ルピナス豆を摂取していた。単なる誤食では、犯罪性は認められない。


 真帆は、穴瀬の目を見詰めて、言った。


「上浦さんの主治医から聞いた話ですが。ソコロフが今月から、龍姫大学と新商品を共同開発するようですね」


 穴瀬が口角を上げる。


「新製品の原料にルピナス豆が検討されていて、提供しているのが龍姫大学だ、とお考えなのですね?」


「私の憶測ですけどね」と頷くと、真帆は背筋を伸ばして言った。


「葬儀の帰りに話していた更科教授が、関与しているような気がするのです。上浦さんの死因が、ルピナス豆の中毒症状だと認められれば、警察が介入できますよね?」


「食中毒の隠蔽の線では、介入できるかもしれませんね。まだ水面下の身ですが、引き続き、情報交換できれば嬉しいです」


 と、穴瀬が立ち上がりながら、言った。穴瀬の表情は、和らいでいた。


 穴瀬を見送ると、真帆は、ナッツを取り出して口に入れた。下がり始めた血糖値が、ゆっくりと上がって行くのが分かる。同時に頭も冴えてきた。


 穴瀬は、多くを語らなかった。だが、重要なヒントを真帆に残してくれた。警察は、現時点ではソコロフを捜査できない。真帆自身で、湖香のかつての職場に踏み込む必要がある。


 真帆は、久保という湖香の後輩と思われる女性を思い浮かべた。

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