第二章 05 胃の内容物
午後になると、真帆は、芦岡医大の病棟に移動した。
湖香を解剖した曽根真司は、四十七歳のベテラン医師だ。研究職には就いていないため、病理部に籍を置いている。
病理部の医局は、病棟の六階にあった。真帆が顔を出すと、曽根は、看護師と歓談していた。
真帆と目が合うと、曽根は涼やかな笑みを浮かべて、四人席の談話室に案内してくれた。
突然の来訪を詫びると、真帆は本題を切り出した。
「上浦湖香さんの胃の内容物から、コーヒーを大量に飲んだ形跡があったと聞きましたが」
曽根が、残念そうな表情を浮かべる。
「水替わりにコーヒーを飲んでいたみたいですね。ブラックだったようですが」
印字されたデータを目で追いながら、曽根が続ける。
「低アルブミン血症や、低コレステロール血症が、蜘蛛膜下出血を起こした直接の原因だと思われます。なので、カフェインの摂取過多が死因に直結している訳では、ないです」
真帆は、頷くと質問を続けた。
「他の内容物も、ご教示いただけますか?」
曽根は、勿体ぶった様子もなく、快く応じてくれる。
「野菜類やツナ、チョコレート、豆類のタンパク質が検出できましたね」
「豆類は、大豆製品でしょうか?」
首を傾げながら、曽根が真帆の目を見る。
「ビーンズ・サラダに入っている、一般的な豆類と構成が少し違いました。大豆類や小豆、ヒヨコ豆だと、すぐに判るのですが。私が見た限り、初めて見るマメ科のタンパク質組成でしたね。科警研に回せば、すぐ判るでしょうが。犯罪性がないので、依頼できないですしね」
曽根は、またもや残念そうな笑みを浮かべている。
科警研とは、警察庁科学警察研究所の略語だ。
真帆は、湖香の幼馴染の刑事、穴瀬俊子の顔が思い浮かんだ。曽根が上司に報告している内容は、何らかの形で、もう穴瀬に伝わっているとも思えた。
思案顔の曽根に、真帆はさらに質問を続ける。
「謎のマメ科の植物ですが、摂取量は、多かったのでしょうか?」
「消化具合から見て、二口か三口程度でしょう」
「食品添加物なども、検出できましたか?」
「コンビニのサラダを召し上がったのでしょうね。野菜の防腐剤や酸化防止剤などが含まれていました。人工甘味料や香料は、チョコレートに含まれていた物でしょう」
真帆は、姿勢を正すと、声を落として質問を続けた。
「毒性が疑われる物質は、ありましたか?」
曽根の表情が、一瞬、揺らぐ。
「致死量と呼べるものは、ありませんね。上から、毒性物質の特定は、指示されていませんしね」
――『上から』ということは、病院の上層部からの指示だ!
真帆は、考えを巡らせる。献体登録された遺体が、死後四日で病理解剖されている。誰の指示で曽根が解剖したのか、疑問が残った。
「上浦さんは、献体に登録していましたが、遺書が見つかったのでしたよね? それとも、死因に不明点があったのでしょうか?」
と真帆は、鎌を掛けると、曽根の表情を見守った。
曽根は、真帆を訝しんでいる様子は、ない。
「幼馴染の方に、もし自分が死んだら、解剖して欲しいと託けていたようですね。上がその話を『遺言』と認めたのなら、私は指示に従うだけですよ」と、曽根が苦笑いをしている。
真帆は、裏で手を回しているのは穴瀬だと、確信した。葬儀の帰り、穴瀬は湖香の解剖について、「心当たりがある」と話していた。
しかし、「一年ほど懇意に話していない」とも話していた。
嘘も方便だ。穴瀬は、自身の立場を利用して、湖香の死の原因解明に尽力していたのだ、と真帆は思った。
「研究試料として、検出データを共有いただきたいのですが?」
と真帆が持ち掛けると、曽根は笑顔で答えた。
「食品分析は、岩園先生のほうがご専門ですよね。毒性成分や、謎のマメ科の植物が判明したら、情報を共有してくださいね」
「化学式を、すぐに照合してみます!」
丁重に礼を述べると、真帆は病理部を後にした。
日本では少子高齢化が進み、人口が減少傾向だ。だが、世界的に見ると、人口は増加の一途を辿っている。そのため、肉や魚介類などのタンパク質食品が足りず、代替食品の開発が盛んだ。
アメリカやカナダでは、大豆の生産が追い付かず、成長の早いコオロギがタンパク源として注目されている。
糖質オフ食品は、糖質を押さえるために、タンパク質食品が代替食品として使用される。日本でも、《コオロギ煎餅》などのスナック菓子が発売された。
思考を巡らせていると、「そうだ! 代替食品だ!」と、真帆は思い直した。
これまで、龍姫大学とソコロフが開発しているのは、チョコレート用の《食品添加物》だと、思い込んでいた。だが、彼らは《代替食品》を開発している、と考えられないか?
それが事実なら、真帆のすべき事柄は、おのずと限られてくる。
日本では、まだ一般的ではない物で、欧米では主流になっているマメ科の代替食品の原料を探せば良い。
真帆は、食用になるマメ科の植物に思いを馳せながら、研究棟へと歩を進めた。
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