第二章 04 カフェイン中毒

 水曜日の朝、真帆は研究棟の廊下で、笹川と出くわした。


 笹川は、意味深な笑みを浮かべて真帆の顔を見詰めている。


「君のお友達の解剖結果が判ったよ。十一時まで研究室にいるから」

 と言い残すと、笹川は右手を挙げながら、その場を去った。


 湖香の解剖は、昨日、執り行われたのだろう。真帆は、自身の研究室で白衣を羽織ると、頭の中を整理した。


 真帆が笹川の研究室に入ると、コーヒーの薫りが立ち込めていた。給湯室から、笹川が顔を覗かせて言った。


「君のお友達は、カフェイン中毒だったようだね」


 真帆は、眉をひそめながら笹川の顔を見る。


「チョコレートにも、カフェインが含まれていますからね。神経系統が麻痺するほどのカフェイン量が検出されたのでしょうか?」


 と真帆が訊ねると、笹川が口角を上げた。


「カフェインレス・コーヒーだ」と付け加えると、笹川は、真帆の前に紙コップを置いた。


 真帆は一礼したが、もどかしさを覚えた。笹川は、悠長にコーヒーの薫りを楽しんでいる。


 チラリと真帆を一瞥すると、笹川が言った。


「コーヒーとチョコレートは、セットみたいなものだからなぁ。胃の中からは、大量にコーヒーを飲んだ形跡があったようだよ」


 真帆は、何度も首肯すると、口を開いた。

「胃液のサンプルは、お手元にございますか?」


 笹川が、首を横に振る。

「俺の専門は、血清と毛髪だ。胃液サンプルは病理部に訊いてくれるかな。さてと、専門分野で判った事実だけ、君に伝えるよ」


 コーヒーを旨そうに啜ると、笹川が続ける。

「毛髪分析からもカフェインが検出できたね。カフェイン過多の人は、心を病みやすいとも言うしね」


 真帆は、何度も頷いた。

「先日、笹川先生は、『君のお友達は、心を病んでいなかったか?』と、お訊ねになりましたね。カフェイン過多が原因かもしれないのですね?」


 笹川が、ニヤリとする。

「胃液と違って、毛髪には長年の生活習慣が蓄積されるから、ある意味、確実だね。毛髪からは、もう一つ、気になる点があったよ」


 言葉を区切ると、笹川がモニターに分析結果を表示させた。

「植物性のアルカロイドが検出されたよ。大麻だと、すぐ判るんだけどね。原因物質までは、特定できなかったよ」


 真帆は、昨日の倫子の話を思い返した。龍姫大学とソコロフが研究している新しい食品添加物だ。原料が植物由来だと考えられる。


「後で、病理部に行くので、探ってみます。血液のほうは、いかがでしょうか?」と真帆は、さらに質問する。


 得意気な笑みを浮かべて、笹川がパソコンを操作する。

「君のお友達は、低栄養だったね。低アルブミン血症と低HDLコレステロール血症が判明したよ」


 低アルブミン血症とは、別名低タンパクとも呼ばれる。身体のタンパク質量が全体に低い事実を指す。


 低アルブミンの状態が長く続くと、血管が脆くなり、脳出血や蜘蛛膜下出血のリスクが上昇するのだ。


 一方の低HDLコレステロール血症は、善玉コレステロールが少ない事実を指す。善玉コレステロールが少ないと、血管が詰まり、動脈硬化になりやすい。動脈硬化の加速は、蜘蛛膜下出血の原因となる。


 蜘蛛膜下出血は、一般に高血圧や肥満が疑われる者に多い病状だ。

だが、低体重の者でも、低アルブミン血症と低HDLコレステロール血症の条件が揃うと、蜘蛛膜下出血を起こす可能性が高くなる。


 血液検査の結果からも、湖香の他殺説はないと考えられた。


 だが、真帆は、毛髪から検出された植物性アルカロイドが気に懸かった。笹川の眼を凝視すると、言った。


「毛髪分析のお話に戻りますが。植物性アルカロイドの検出は、麻薬患者に匹敵する量だったのでしょうか?」


 笹川の眼光に、鋭さが加わった。

「致死量か否かは、個人差によるね。毛髪検査だけでは、アルカロイドが、どの程度、神経経路に影響していたかは、判らないんだ」


「アルカロイドの影響で、蜘蛛膜下出血と類似した状況になることも、ありますよね?」


「診断ミスを、疑っているの?」

 と笹川が、怪訝な表情で真帆を見る。


 真帆は、首を横に振りながら、言った。

「死者が、必ず病理解剖される訳ではありません。ですが、多くの病気が、普段の食習慣に起因しています。毒性のある物を、知らずに多量摂取していた場合、医師の診断ミスにはならないでしょう。一種の盲点だと、思うのです」


 おどけた調子で、笹川が口を挟む。

「以前から頭痛持ちで、研究熱心だった研究職員が、蜘蛛膜下出血で急逝したら、周りの者は『やっぱりな』と、思うだろうね」


 真帆は、大きく首肯して、自身の考察を述べる。

「頻繁に起こる頭痛に危機を感じて、上浦さんは昨年の十一月に献体登録したと仮定できます。解剖の結果、表向きには蜘蛛膜下出血でした。だけど、毛髪検査を行うと、植物性アルカロイドが出てきました。もし、犯人がいたとしたら、献体登録まで、視野に入れてなかったと思うのです」


 呆れた様子で、笹川が真帆の顔を見て言った。

「君のお友達を解剖したのは、曽根先生だ。訪ねてみたら?」


 笹川は、横柄な態度で話していたが、内実は、真帆に協力的であった。


 真帆は、龍姫大学とソコロフが共同研究している食品添加物が鍵だと思った。真帆の脳裏に、更科佳乃の美しく暗い影が浮かび上がった。

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