第二章 03 アミン

 十六時十分に四限目の終了チャイムが鳴った。


 今年度最後の『犯罪栄養論』の講義だった。毎回、学生の出席率が高く、真帆にとっても有意義な時間だった。


 選択科目のため、栄養学科の学生だけではなく、他学科の学生も履修できる。犯罪心理学や英米文学を専攻している学生が多かった。中には、ミステリー研究会の部員もいた。


 レポートを提出すると、学生が次々と教室を去って行く。


 レポート収集を手伝うため、陽菜が教室に入って来た。


「毎回、大盛況の授業だったね」と、陽菜が笑顔になった。


 真帆は、パラパラと提出されたレポートのタイトルを見て行く。


「ミステリー好きの学生が、よく質問していたよ。『トゥインキー弁護』と『牛乳の大量摂取と非行少年』をテーマにした子が多いね。他には『赤ワインの合成成分でジキル&ハイド状態』かな」


 トゥインキーとは、一九七〇年代に全米で大ヒットした安価なクリーム菓子の名だ。


 サンフランシスコ市長をピストルで殺害した犯人は、食事内容を調査するとトゥインキーを中心とした菓子類をよく食べていた。


 担当弁護士は、摂取した食事の種類により、ヒトは能力減退に陥ると主張した。その結果、犯人は有罪判決であったが、死刑ではなく、懲役七年八ヶ月の減刑となった。一九七八年の事件である。


 二十歳前後の女子学生は、ダイエットを気にする年代だ。だが、話題のスイーツにも興味がある。砂糖の摂取過多が、ヒトの犯罪行動を目覚めさせるキッカケになる例として、真摯に受け止めた学生が多かったようだ。


 牛乳の大量摂取も、身近な飲み物のため、気に懸ける学生が多かった。アメリカでの統計データだが、非行少年の平均牛乳摂取量は、一日に三㍑だ。


 日本でも、牛乳は「成長期に飲めば身長が伸びる」、「カルシウム補給」、「骨粗鬆症対策」など、健康飲料のイメージが強い。


 だが、乳製品の過剰摂取は、乳糖やカゼインの摂り過ぎで、脳の神経伝達物質の回路が変容し、行動障害の可能性が指摘されている。


 真帆の講義を受けた学生から、牛乳の摂取量を控えると、イライラや頭痛が収まったと、感謝されたケースもあった。


 真帆は、『赤ワインの合成成分でジキル&ハイド状態』をテーマにしたレポートにも、目を止めた。


 真帆の頭の中で、アラートが鳴る。沙羅の過去について、ヒントを得たような気分になった。湖香の急逝で、沙羅の死の謎も呼び起こされたようだ。


 陽菜が不安げな表情で、真帆の顔を見る。


「怖い顔をしているけど、どうかしたの?」


 首を傾げながら、真帆は陽菜の顔を見詰めた。

「沙羅ちゃんって、ワインに詳しかったよね?」


「お酒は弱いけど、ワインの味が好きだったみたいね。まさか、沙羅ちゃんにジキル&ハイド状態が起きたと考えているの?」


 と陽菜が、顔をしかめている。


「夏合宿では、飲酒は禁止だったのよ。それより、沙羅ちゃんの家庭教師って、ワイン好きだったかどうか、覚えてない?」


 と、真帆が問うと、陽菜が首を傾げて言った。


「会ったことがないし、名前も覚えてないな。確か、沙羅ちゃんのお父様がワイン好きで、自宅にワイン・セラーがあるみたいよ」


 学生のレポートを束ねながら、真帆は言った。


「私の憶測だけどね。家庭教師だった医学生は、計算尽くで黒岩家に近づいたと思うの。最初は沙羅の家庭教師。次は、ワインの知識で両親を魅了して、フィアンセの座に。考え過ぎかな?」


 陽菜が、何かを思い付いたのか、両手を軽く合わせて、言った。


「母が沙羅ちゃんのお母様と青松の同期生だったのよ。それでね、当時の母の話を思い出したのよ!」


 普段の真帆は、噂話に興じるタイプではない。だが、過去を探る際、女性特有の噂話は、事実に直結する場合が多い。


 陽菜の母親の話によると、沙羅の元フィアンセは、伯父に育てられた。国立大学の医学生で、ハングリー精神もあった。沙羅の父親は、その医学生の野生的な素質が気に入ったようだ。


 だが、沙羅の母親は、娘と同じような環境で育った男性のほうが相応しいと思っていた。


 真帆は、得心して頷くと、素朴な疑問が浮かんだ。


「その男性、今はどうしているのかな?」


 と真帆が問うと、陽菜は得意気な表情で答える。


「十年ぐらい前の時点では、東京の大学病院に行ったって聞いたよ。ラファエル病院には、就職しなかったし、謎が多いのよ」


「名字だけでも、判ればいいのだけど……」

 と言うと、真帆は倫子から聞いた沙羅の話を思い返した。


 画集『死の舞踏』を見た沙羅の反応を見て、当時のフィアンセは、吸血鬼を思わせる様子で笑っていた。もしかすると、ジキル&ハイド状態だったのでは? と、真帆は思った。


 と同時に、赤ワインにまつわる、ある事例も思い出す。


 一九八〇年代のアメリカ西海岸。あるヨット・ハーバー内のバーで、乱射事件が勃発した。幸い負傷者は、出ていない。現行犯逮捕された男は、ビジネスで成功している四十代の男性会員だった。


 バーテンダーの話によると、いつもは白ワインを飲む客だった。だが、事件の日は、赤のカリフォルニア・ワインを飲んでいた。


 すると、何の前触れもなく、突然ピストルを取り出し、六名の男女に向かって発砲した。全て的が外れ、負傷者は出なかった。


 翌朝、独房で目覚めた男は、昨晩の出来事の記憶がなかった。


 摂取した赤ワインの量は、十㌉程度だった。


 男は裕福であったため、自身の行動の原因を、とことんまで追い詰めた。自身で研究費を払い、二年掛かりでアメリカン大学神経心理学部で自身の脳内と赤ワインの関連を調査させた。


 男の脳内は、赤ワインに含まれる特殊な物質アミンに反応すると、記憶障害を起こし、行動変容が伴う事実が判明した。


 この研究が発表されてから、世界各地で同様の研究が進んでいる。統計によると、多くの赤ワインには、酸化防止剤に《アミン》が含まれている。


「赤ワインを飲むと、頭痛がする」との報告も多く、原因の正体は、やはり《アミン》だった。


 ヒトが頭痛を起こす際、身体は低血糖になっているケースが多い。

血糖値を乱すのは、糖質だけではない。


 血糖値の調整には、牛乳の《カゼイン》や赤ワインの《アミン》なども、視野に入れる必要がある。


――吸血鬼と赤ワイン。


 真帆は内心、「言い得て妙だ」と北叟笑ほくそえんだ。血液を感じさせる赤ワインと吸血鬼を思わせる沙羅の元フィアンセ。


 その時ふと、真帆の頭に別の考えも浮かんだ。


――夏合宿の時、学生は飲酒禁止だった。佳乃先生が、アミンに反応する体質なら?


 当時の参加者にも、番犬にも怪しまれない人物は、更科佳乃では? 沙羅を失踪させる目的は、何だろう?


 真帆は、佳乃への接近も試みる必要があると確信した。

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